初等教育の歯止め規定廃止と幾何学随想
朝日新聞と毎日新聞の社説が扱っていた初等教育の歯止め規定廃止が気になった。もちろん、歯止めなんて意味ないとは思うし、朝日や毎日の社説自体に特に思うこともない。
心になにが引っかかっているか見つめているうちに、幾何学のことが気になった。現在の中学生高校生は幾何学をどんなふうに学んでいるのか。ネットを雑見したのがよくわからない。高校では幾何学はすでに解析幾何学になっているようで、その前段も早期に解析的な様相に変えられているようでもある。いわゆる初等幾何は中学で学ぶようだが、なんとなくだが、おざなりにされているような気もした。
和田秀樹だったが数学は暗記と言っていた。基本のパターンを暗記すればいいというわけだ。東大合格やそれに類似することが目的ならそれでもいいと思う。幾何学はどうだろう? 幾何学だって解法は手順化されている。その前に、大学受験で初等幾何学は出てくるのか? 出てこないか。と、阿呆な逡巡をするのは、幾何学の面白さというのがそっくりこうした話で抜けているからだ。もちろん、代数や微積分学、論理学でも面白さはある。だが、初等幾何特有の面白さや美しさは若干違うようにも思う。
もどかしい個人的な思いを連ねるので駄文になるが、私の中学生時代、初等数学に集合論が強く意識されていた。なんだこれという少年の思いから、無駄を覚悟で大学で畑が違いの基礎論を勉強した。ロバチェフスキー、カントール、ペアノ、ヒルベルト、デデキントそしてゲーデルというあたりのうわっつらを舐めた程度だが、集合というものが自分なりにわかった。後に柄谷行人あたりがゲーデルだの言い出して、自然数論なしで公理系云々とか言い出すあたり、本当にバカだなと思ったものだった。
そしてある程度、集合論の背景にある公理性というものがわかったような気がした。だが、今思い返すと、ユークリッドの公理からヒルベルト風に公理性を取り出していくのではなく、原典のユークリッドの公理と幾何学の関係をおざなりに理解していたような気がする。
中学生時代私は幾何学が好きな少年だったが、証明によく三角形の合同条件を使った。というか、そういうふうに指導されていた。ああいう幾何学は、ある種ヒルベルト風の考えだったように思う。思い起こすに、彼の「幾何学の基礎」 では5つの公理、結合、順序、合同公理、平行、連続でユークリッドを整理しなおしていた。私の時代でも、そして現代でも、おそらく初等幾何はアメリカの数学教育の影響から大衆的なヒルベルト主義になっていたのだろう。集合論と同じく、いずれ基礎論の入門という教育的な配慮があったのかもしれない。
だが、数学としての幾何学はそれでもいいし、もちろん、幾何学の面白さや美しさが損なわれるわけではないが、もう一度、ユークリッドに立ち返ってみたい気がする。なんとなくだが、米国ではなく西欧の初等幾何学は中世以来の伝統を追っているように思うので、そちらの指導を覗いてみたい気がする。
書きながら色々思い出す。高校の物理では物理とは名ばかりに、ニュートン力学という数学とそれにマックスウェルの法則なんぞを乗っけるのだが、中央公論だったかで出されていた訳本のプリンキピアの様相は、いわゆる教育の場のニュートン力学とはかなり違い、その後、田村二郎の解説書で得心したことがある。別段、ニュートン力学がアインシュタインの理論で置き換わったわけでもなかったし、さらに幾何学に潜む空間や運動の問題について、哲学的には未開の部分が残るとする晩年の大森荘蔵などの考えもわずかだがわかってきた。
話が雑駁になってしまったが、ユークリッドの原論やそれにつならなるイスラムから西欧中世への学問のなかに、「幾何学をせざる者、この門を入るべからず」が残っているだろうと思う。
生命の作り出す螺旋構造の背景にフィボナッチ数列や黄金比があると知ることは、中学生でも難しいことではない。そしてそれを知るということは、宇宙の美を味わうことにつながる。現代日本人がいう学力なぞ、所詮和田秀樹の東大入学術に過ぎない。そんなものより、この宇宙に生きていて、宇宙空間や生命体に潜む幾何学的な美を知る喜びのほうが、はるかに重要だと思う。重要ということは、美の意識によって生きて死ぬことがより充足されるということだ。
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