« [書評]ドナルド・キーン著『足利義政』 | トップページ | 労組ではなく職業別組合の社会貢献が重要だ »

2003.10.03

[書評]「ケータイを持ったサル」ケータイ世代はサル化しているのか?

 書評とするほどでもないのかもしれないが、昨日『ケータイを持ったサル』を斜め読みしながら、つらつら物を考えた。帯にはこんなことが書いてある。

cover
ケータイを持ったサル
  「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、「ケータイ」でいつも他人とつながりたがる若者。両者は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを拒否する点で共通している。これは「子ども中心主義」の家庭で育った結果といえる。現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか? 気鋭のサル学者による、目からウロコの家族論・コミュニケーション論。
 確かにそういう内容でもあるのだが、書籍の狙いとしては街に溢れる女子高校生を「ありゃ、サルだね」と思う大人の心をくすぐりたいというところだろう。女子高校生と限らないが、ケータイが普及してからの若い世代は、なんだかサルみたいだなという印象を上の世代は受ける。それをサル学的にみたら面白いというのは企画としてはわるくないが、率直なところ、この本は全体としては学問の応用という点では論理が飛躍しまくったトンデモ本の部類だろう。残念ながらト学会にはたいした知性もないから、批判は期待できそうにない。ト学会など、竹内久美子の著作をトンデモ本扱いして批判したつもりでも、竹内が折り込み済みにしたカモにしかなっていない。
 同書の基調は、成熟の拒否というより、家族と公空間を失って母子関係だけの世界になった現代日本人の行動特性というものだろう。この本では皮肉な対象としてしか触れていないが父的な存在の欠落という話題にも転換しがちだ。だが、私は、この行動特性は、父性や母子関係の問題というより、現代の子供に兄弟がいないということの派生によることだと思う。兄弟が多ければ、サルのような母子関係は成立しない。加えて、サルとヒトは発生の起源がかなり違うのではないかと個人的には考えている。サル学のサルではない類人猿(Ape)なども、どうもヒトの進化樹からはかなり遠いというのが最近の科学知見ではないだろうか。
 そうはいっても、現代の若い人たちの行動がサルのように動物化しているという印象は強い。『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』などもそうした批評の風潮にあるようだが、こちらの本については、たしかにデリダに傾倒した作者ということでフランスの悪しきヘーゲル主義であるコジェーヴの枠組みのなかにずっぽり落ち込んでいるので、またこれかよ的な印象も受けた。ヘーゲルを原典から読めよとも思うが、強権集中官僚国家なら存在理由がわからないでもない現代フランス哲学っていうのが、なぜか戦後おフランス趣味というだけで日本だけで受けるのだからこうした修辞的な取り組みがあってもしかたないのだろう。それでも、大筋でオタクが動物化しているというのは、そうなんだろう。余談めくが同書後半にでてくる「HTML」のご解説は支離滅裂。「知らねーこと屁理屈で書くんじゃねーよ、おにいさん」という感じもするが、実際のところ、編集者を含めこの著者の回りにはそういう示唆をする人がいないという意味で、閉鎖された知のサークルの産物なのかもしれない。
 荒っぽい言い方だが、最初にサル化・動物化という視点ありき、というのがこうした議論を出版物として支えている風潮なのだろう。それが困ったことなのか、あるいはもったいつけて大きな物語が崩壊した現状の必然ということなのか。もっと卑近に言って、この若い世代を大人がなんとかせいということなのか。
 と言いつつ、個人的な経験を思い出す。最近はさすがに辟易としてしまったが、五年前地方大学でちょっと講師業などをしていたころ、受講生に留学生が数名いるので、日本語のライティングは難しいだろうから、グループ共同でレポートを出す課題を出したことがある。私の指示がまずかったのかもしれないが、グループで共同で答えをまとめなさいとしたのだが、出てきたレポートに唖然とした。グループ内で作業を分担して書いているだけで、グループで統合された回答が出ていないのだ。おまえらってヤツらはサイテーだなと怒りそうになったが、彼らの公平な共同作業というのはこんなものなのだろう。
 『ケータイを持ったサル』でもケータイ利用グループが信頼という資質に薄いことが実験を通して語られているが、個別にみればおそらくそういうことなのだろう。この本では触れていないが、おそらく彼らの恋愛も同じようなもので、愛に含まれるとされている信頼という感覚が、もうなにか決定的に変容しているのだろう。
 宮台真司もすでに数年前から実質主張を転換している。たまたまネットをめくったらこんな発言があった(参照)。

 日本の若者の恋愛関係、家族関係、友人関係に関する想像力は、他の先進国に比べ極めて低い水準だと思います。若者の作る映画などで「家族や愛なんて幻想じゃん」なんて役者が言っていたりする。バカですね。幻想に決まっているんですよ。こんなことは、フランスやイタリアでは当たり前。彼らは、幻想と知っていてあえてかかわっているんです。勘違いしているか、あえてかかわるかが、人間の文化水準を分けます。

 ここでも「人間の文化水準」がサル化・動物化に対応しているといっていいだろう。宮台も学校のセンセーらしく、もっともらしいことを言っているわけだ。
 ちょっと気が利く人間ならこのサル化した社会の状況にもっともらしいことは多様に言える。そして言っても無駄な状況が続く。恐らくサルの内部に悲しみや苦しみが発生し、それが、話が循環するようだが、人間の内部を構成することで孤独が生まれるのを待つしかないだろう。孤独でなければ、ヒリつくような恋愛なんてものもないのだし、そうした恋愛をしなければ、人間なんて死にきれる存在でもないのだ。ハイデガーみたいだが、死がメディアという空談・好奇心・曖昧性の三位一体によって覆われ、現実と向き合う契機がなくサルにまで頽落するのも現代らしい。だが、サル世代の祖父母に当たる、団塊世代の親がばたばたと死ぬ時節になれば、少しずつサルも進化するしかなくなるだろう。

[コメント]
# nanacy 『竹内久美子は確信犯的にウソをついている訳で、あの女は叩いても叩きすぎるって事はないと思うよ?だって竹内の言う事を真に受けてる人がけっこういるんだもん。』
# レス> 『なるほど、そういう意味でだと啓蒙的に叩く必要があるかもしれませんね。』

|

« [書評]ドナルド・キーン著『足利義政』 | トップページ | 労組ではなく職業別組合の社会貢献が重要だ »

「書評」カテゴリの記事

コメント

>>デリダに傾倒した作者ということでフランスの悪しきヘーゲル主義であるコジェー   ヴの枠組みのなかにずっぽり落ち込んでいる
思想って何ですか?
この本は、そんなに有り難がる物じゃないと主張しているのは分かったんだすけど・・
>>この行動特性は、父性や母子関係の問題というより、現代の子供に兄弟が
   いないということの派生によることだと思う。兄弟が多ければ、サルのような     母子関係は成立しない
少子化によってサルのような母子関係が生まれたという事は
本の方にも描いていましたよ。読んだことと思いますが念のため

投稿: konsome | 2005.07.05 20:08

ゲーテの「ファウスト」のファウストの弟子のワーグナーって言いましたっけ、読書家の知識人志望の学生の名前。

「ファウスト」の軽薄文士の登場人物どころか、「サル」にまで程度が下落しているのか、とも思いますが、いわゆる「ケータイ」は優れた情報ツールです。

「サル」も何万匹といるでしょうが、「ケータイ」を駆使する現代のマルチン・ルター、IT社会の真の自由の闘志も間違いなく現れるはずです。

もう少しすれば、「ケータイ」は、より高次の精神の自由の実現と表現のために用いられるようになるはずです。

映画だって、最初は茶番劇の記録用に用いられていたのだけれど、エイゼンシュタインが現れて映画を芸術にしたでしょ。「ケータイ」もおそらく同じこと。わたしは若い人たちに悲観などしておりません。

投稿: 道具の効用 | 2009.01.16 07:56

紙幣がまともに流通するようになったのは、宋代の中国からのはずで、モンゴル人の元朝が滅びたのは紙幣を乱発してインフレになったからだそうです。
蒋介石が政権を失ったのも軍票を乱発してインフレになったからだそうです。
明朝も、元朝と同じ理由ですぐ滅びてもおかしくなかったのだけれど、日本とスペインから大量の銀が入ってきて生きながらえた上、万暦帝が大文化事業もできて、清朝はイギリスとの茶貿易で銀がだぶつくほどだったのにアヘンの密貿易とアヘン戦争で経済危機が起きて、その後の中国がどうにもならなくなったというのが中国の主要通貨史のおさらい。

先進国で通貨の主流が紙幣になったのは19世紀のアメリカからのはずだけれど、通貨に金属の裏打ちがない管理通貨制になったのは、戦後のドルショック(ニクソンショック)からのはずです。紙幣が世界の通貨の主流になってまだ日が浅いのです。

それなのに、現代社会は通貨の量を単に紙幣をすって増やすだけではまかないきれなくなってしまいました。インターネットの完全商用化で、ネットバンキングが当たり前になり、ポイントカードや電子マネーみたいにお金が知性を持つようになった。ケータイのオートチャージ電子マネーが現代の最先端の通貨の形態だといえると思います。

金融工学が発達したり、金融自由化したり、さまざまの派生商品が現れたりで、金融もいろいろイノベーションが生まれましたが、案外、現代社会を救ってくれているのは、最も頭のよい通貨である、ケータイのモバイル電子マネーかもしれないのです。

2007年にパスモができて、2008年にはスイカとイコカの電子マネーが互換性を獲得して、2009年にはスイカとキタカも共通使用できるようになって、さらにスゴカも出現するので、ケータイのモバイル通貨もすごく便利になるのだけれど、ここでとどまると金融のイノベーションもそんなに先は遠くありません。

電子マネーにすれば、価格とポイントを時間ごと商品ごと顧客ごとにカスタム化できるのみならず、価格設定とポイント設定を原理的には小数でも、分数でも、無理数でも可能にできるのです。指数対数や三角関数を導入できる可能性さえあります。ケータイを使って、日常の消費生活を通して、児童たちが高等数学を学習する機会を作れるのです。しかも、計算はケータイがしてくれて、検算もケータイに頼れます。

こういうケータイ電子マネーの利用が一般化すれば、誰か頭のよい人が、さらに、新しい金融のイノベーションを進められる可能性を生み出せるのです。ケータイは、金融のイノベーションのための重要なツールの1つであるはずです。

投稿: 金融のイノベーション | 2009.01.21 12:02

ケータイ、か。あれがあると、卒論はいとも簡単に仕上がり、ラブホの情報とエロ動画はすぐ手に入る。何か、そんな感想を持っています。・・・逆に言うと、「図書館」という空間と、「四畳半畳の下張」という教養が壊滅したと言う事ですね。やはり、「閉ざされた空間=母子関係」が即手に入る、サル化しているのかな。
ちなみに、私はケータイを手に入れた途端、デートDVに遭った阿呆です。><今、ケータイ世代にはケータイ世代の「マナー」と言うものが確立しつつあって、それを守っていれば、遭わない事件だとは分かって来たんですが。「掌の共依存」だったかなとは、苦く思います。

投稿: ジュリア | 2009.12.27 06:36

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: [書評]「ケータイを持ったサル」ケータイ世代はサル化しているのか?:

« [書評]ドナルド・キーン著『足利義政』 | トップページ | 労組ではなく職業別組合の社会貢献が重要だ »