企業の社会貢献は新しい世界システムに圧殺される
ブッシュが北朝鮮に「安全の保証」を文書化するといった話題を、朝日新聞社説は肯定的に扱い、産経新聞社説は否定的に扱っていた。毎日は朝日寄りで、読売と産経は産経寄りといったところか。ま、そんなところという退屈な話なのだが、ブッシュの「安全の保証」についてもう少し食い込んだ話が欲しいところだ。国内報道を見ていると小泉がAPECの場で北朝鮮の拉致問題を取り上げるよう努力しているが…みたいな雰囲気だけあるが、ようは表向き鼻にも引っけられていない。問題ですらないというのが実態だろう。国際的には問題は北朝鮮の核開発だし、この件について国内のジャーナリズムはゲロ甘いのだが、すでに北朝鮮など信頼できなことは実証済みだ。田中宇ばりに裏読みをするのもなんだが、中ロを主軸に別の動きがあってそれがブッシュ発言へと出ていることは間違いない。そのあたりの筋がイマイチはっきり読めない。日本のジャーナリズムってなんなのだろう。
今朝の話題は、毎日新聞社説の「企業と社会 リーバイスの苦い教訓」だ。知らなかったのだが、ジーンズで有名なリーバイスが、来年3月末までに北米の工場を閉鎖し、従業員も2000人ほど解雇することになった。それだけ聞いても背景がなければどってことない話だが、リーバイスはこれまで、企業の社会的責任(CSR)を優等生的に実践する会社と見られていた。先頃までCSRを基に据えて投資するという社会的責任投資(SRI)が、新しい資本主義の倫理のように言われてきた。リーバイスの例は、それが破綻した象徴になる、ということだ。なお、CSRは参照、SRIは参照。
毎日新聞社説はこの事態について、話題は振ったものの提起すべきことがるわけでもない。洒落でお茶を濁しているだけだ。
CSRやSRIは、労働条件などが同じ水準の市場経済を前提にした思想だったのかもしれない。それでも、企業社会が社会的責任を放棄してはならない。CSRやSRIはさらに推し進められるべきだ。そのためには、より強固な経営基盤が求められる。
チャンドラーの台詞(せりふ)ではないが「タフでなければ生きていけない。そして優しくなければ生きている資格がない」。先進国の企業は、そんな時代を生きている。
ちょっと飛躍が過ぎるかもしれないが、フェアトレードと言った考えも同様に無効な発想だろうと思う。
日本の知識人の場合、どうしても左翼の思考の圏内から抜けられないし、知識人と見なされる代表が柄谷行人のNAMのような阿呆なこと言う始末だ。彼らはCSRやSRIなどせせら笑ってしまうのだろうが、現実逃避でしかない。日本の知識人は現実の企業活動から乖離しすぎている。
話を戻して、CSRやSRI、フェアトレードといった事が無効ならどうするべきなのか? 恥ずかしい話だが、私もよくわからない。ただ、この問いについては、エキセントリックな回答しか出てこないのではないかと思う。むしろ、問いの建て方を変えるべきなのかもしれない。
古典的に資本主義自体を敵視したり、修正したりというのではなく、別の可能性をどう開いていくかと考えるべきではないか。もともと、資本主義という概念自体が、私には間違っているように思われる。マルクスの資本論は経済モデルとしては国内経済でしかない。そのモデルにどうトレードと金融を組み込むかということの多国間モデルが、あまりにも短兵急に帝国主義論に結びついてしまった。しかも、よりましなカウツキーモデルが一層され、阿呆なレーニンの論に結実した。喜劇的な悲劇だ。とはいえ、そうした過去の間違いを補正するより、現在のトレードとお化けのような金融の本質をもう一度、恥ずかしい言い方だがエエ恰好しいのシステム論ではなく、もっと個人ベースの人間主義的な見地から問い直していくべきではないだろうか。
ピーター・ドラッカーは日本ではほとんど誤読されているとしか思えないし、世界的には無視されているとしか思えないが、彼は、もともと、歴史の実際としては「資本主義」として覆われている状態を共産主義とナチズムという全体主義への危機として捕らえ、それに対して、個々の人間の保護従属として企業活動を考えた思想家だった(死んではいないが)。だから、経営こそが、諸問題の解決となると考えた。日本に着目したのは、それが、一見官僚と合体して国家的な福祉システムのように見えたからだ。左翼はドラッカーなど無視するが、ドラッカーがそこに着目したのは正統な思想のありかたでもあった。
その日本は破綻してしまった。だが、そう考えてみると、破綻した日本こそ、ゼロからの出発として、もっとも新しいモデルが生まれる可能性もあるかもしれない。我々の主体の側からなにか資本主義として覆われている内実を組み替えることはできないものか。だが、その時、最大の敵となって現れるのは、皮肉にも左翼的なヒューマニズムなのだろう。
追記
社説の結語をしょっちゅうくさしているわりに、このブログの結語は我ながらボロボロ。構造主義者のなれの果てに焼きが回っていやがるなと己を顧みて思うだが、あえて、このままにしておく。人生後半に入ってきて、「死」の問題より「テメーの死」が問題になってきた。かつての世界との関わりは「テメーの死」を考えるとまったく異質になる。テメーが死んじゃうのに、システム論だの構造主義だの言ってられっかというところか。フーコーも人間の終焉とか言っておきながら、しょっちゅうアメリカに行ってはご乱行だった(日本ではなぜかそれが話題にならないようだが)。ドゥルーズはシステム論者ではないが、結局、主体的に自殺しちまった。なんか、わからないでもないなと思う。
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