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2003.10.31

ありがとう、マハティール

 今朝の新聞各紙社説は散漫な印象を受けた。ので、ブログも散漫になってしまう(っていう言い訳はよくないが)。タイトルはマハティール引退に賛辞をおくりたいというだけのことで、話はあまり展開していない。ブログを読まれているかたには申し訳ない。
 今朝の社説ではさすがに日々選挙ネタでは書いているほうも無理だと思ったのだろうか。バリエーションがあってよかった。なかでも社会的なニュースとして重要なのは恐らく独禁法の改正だろう。そのわりに扱っていたのは読売新聞社説「独禁法見直し 違反防止に必要なアメとムチ」だけだ。焦点がぼけてはいるもののなかなかいい社説だった。特に結語は重要な指摘だ。


報告書は、公取委の審判制度の問題点にほとんど触れていない。判事役と検事役の大半を、公取委の職員が占めていることだ。これらのポストについては、法曹資格を持つ人材の外部登用を積極的に進めるなど、改善が必要だ。

 これはほとんど制度欠陥だろう。経済界の反発については予想どおりでもあるので、どうっていうことはないが、骨抜きの前準備は整っている。いずれにせよ、読売が指摘するように、この問題は社会認識を変える必要がある。

談合やカルテルの防止には、違反行為が割に合わない犯罪だ、との認識を企業社会が持つことが欠かせない。欧米で一般化している手法を取り入れ、独禁当局の違反への対応を国際水準に合わせることも大切だ。

 一点、気になったのは読売のこの主張では曖昧なのでなんとなく国内の公共事業関連の入札の談合が問題視されているかのようだが、今回の改正の暗黙のターゲットはマイクロソフトだろう。この点はNHKの「あすを読む」のほうが一歩踏み込んでいた。中村正三郎(同名に官僚上がりの政治家がいる)によるユーモラスなマイクロソフト叩きもすでに過去のことになった。誰かきちんとマイクロソフトに切り込めるジャーナリストはいないのだろうか。切込隊長? 頭いいからつい期待されちゃうんだろうな。でも、頭良すぎてマイクロソフトには関心なんかないか。
 今日の話題でもう一点、朝日新聞社説の「警官汚職 ― 腐ったリンゴは一つか」はほのぼのとして面白かった。

警視庁の警部が逮捕された。風俗店を経営する知人から約1千万円のわいろを受け取っていた容疑だ。

 という書き出しで、この事件自体の情報がない。社説にあるまじき悪文の極みだが、笑いネタかもしれない。事件は、千葉県柏市警視庁第9機動隊警部所属の上野教一が東京都荒川区で違法なあかすりマッサージ店の経営者石崎裕隆から各種の便宜の報酬としてワイロを受け取ったされる容疑だ。これに対して朝日はこうしたことは警察にとって日常茶飯事ではないかと糾弾する。ま、そうだろうね。これをわざわざ社説に取り上げたのはもちろん、左翼ならではの朝日新聞の面目躍如たるとろだ。

 今回、汚職警部が逮捕されたのは総選挙の公示日だった。今年7月に警視庁の幹部らが捜査情報を漏らしたとして摘発されたのは、辻元清美元衆院議員が警視庁に逮捕された日だった。

 それにしても、我々市民はどうしてこうも警官に甘いのだろう。個人的な日常のエピソードだが、先日犬に首輪を付けずに散歩する馬鹿たれが交番の前も過ぎていくので、さすがにそりゃないでしょお巡りさんと指摘したら「それは犬のサイズによるのであります」ってな答えだった。ダメだこの馬鹿。ま、馬鹿なら笑って許せるかというというと、こうした馬鹿の自己組織化が現在の警察なのだ。そしてその頂点にはセンター試験以降の世代の官僚がちょこんとのっかっている。ああ、愚劣。とくさしていないでなんとかしなければいけないと思うが、はてはて。

 話は変わる。実は今朝のブログはマハティールについて書こうと思った。せめて一社くらい社説にマハティールについて触れるだろうと思った。産経あたりだろうかと思ったが、日経だけだった。そして、つまんない社説だった。
 腰抜け、玉なし産経新聞、と怒鳴りたくなる。ま、明日を期待しよう。マハティールについては自分は高山正之以上のことは書けない。このところ話題になっている「ユダヤ人は代理人を使って世界を支配している」との発言についても、出所のバンコク・ポスト紙のインタビューを私は読んでいないので、うかつなコメントは控えたい。というのも、情報操作の臭いがするからだ。
 いずれにせよ、マハティールなかりせば…と思うと目頭が熱くなる。ありがとう、マハティール。

追記
 朝日は11月2日に「マレーシア ― ルックイースト氏の退場」を掲載。概ね好意的だったが社内の雰囲気を配慮してかくさしが入っていたりして混濁した内容だった。マハティールの反米というのが気に入っていたのかもね。

 本文と関係ない追記。しいて関連づけるとマイクロソフト絡み。たまたま「『続・憂国呆談』番外編Webスペシャル」(参照)というページに飛んだ。これって何かのジョークじゃないよね。浅田彰ってこんなことになっていたのか。


浅田彰 セキュリティ面から言っても、常時接続してりゃ、ウィルスの感染も止められない。このあいだ世界中を騒がせたコンピュータ・ウィルス「MSブラスター」には、僕のモバイル・マシーンも感染しちゃったけど(笑)。

田中康夫 ほんと?

浅田彰 すぐ駆除して、すぐパッチを入れたけど、必要なソフトをダウンロードして実行するだけでも手間がかかる。しかも、それさえできないユーザーがいるんだからね。これって早い話がマイクロソフトが欠陥商品を売ってたわけでしょ。たしかにウィルスをつくってばらまくのは悪質な犯罪だけど、データを消したりするわけじゃなく、ちゃんと「あと六〇秒」という予告まで出してシャット・ダウンするわけだから、過激な消費者運動とも言える。セキュリティに関して穴だらけの商品を売るな、と。


 ひぇ~! 浅田彰と限らないけど、IT関係の話だとなんでこう恥ずかしい言及が多いのでしょうかね。言うまでもなく、「常時接続してりゃ、ウィルスの感染も止められない。」は大間違い。それにマシンというのはそもそも常接するものだ。もちろん前提はある。常接にはファイアウォールは必須。ファイアウォール付きのルーターをかますか、串ぽいのでもかましておくこと、っていうかそうしてこそ始めて常接だと言える。それと、MSブラスターのパッチを当てていないなんて、「いろは」の「い」もわからないということなので、無知を売りにしているお笑いライターさんじゃないのだから、おおっぴらに言うのは恥ずかしいことだ。「これって早い話がマイクロソフトが欠陥商品を売ってたわけでしょ。」ってね、訴訟好きのアメリカ人かね。完全なソフトは存在せず、完全なセキュリティは存在しない。浅田彰の理想の「マシーン」(どうでもいいけど、出て来い「シャザーン」みたいだ)って、ワープロ専用機なのか。

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2003.10.30

宋美齢の静かな死

 今朝は朝日と読売が裁判員制度を扱っていた。それぞれそれりなに正論といえば正論。だがつまらない。くだくだ言うまえにとにかく制度を変えたほうがいいからだ。よく議論しなければいい制度にならないという正論もあるだろうが、もうそんな正論自体うるさい。遅延の理由にしかならない。他、日経はまたまたデジタル家電の話。なんだかなだ。物作りの日本みたいな幻想をまだ抱いているのだろうか。単なる経営の問題なのに。それと年金話はもううんざりしてきた。きれい事なんでないのだから、官僚と関連団体を整備しなおしてから増税するしかないだろう。

 というわけで新聞社説関連ではネタがない。他にネタはあるといえばある。24日以降気になって、マイルドな悪夢のようになっていたネタがある。宋美齢の死だ。ところでどうでもいいがATOKだと「宋美麗」と変換する。これで日本語に強いATOKなんだそうだ。気の利いたむかつくようなブラックジョークができるのは日本語が強いからだろうか。美麗島を乗っ取ったから宋美麗か。
 死因は老衰。105歳。この女、絶対昭和天皇より生きるだろうと思ったが、ここまで生きるとは思わなかった。20世紀を代表する女だ。ああ、むかつく。私は中国人には親近感を覚えるほうだと思うが、宋美齢の名前を見ると、平常心が保てない。もちろん、私は小林よしのりのようにシンプルな愛国主義者ではないし、時代のせいあって社会主義者くずれって言われてもしかたねーかの思想の持ち主だが、こいつだけは許せねーよなと思う。ああ、ダメだ。全然、文章にならない。
 こんなブログに書くこっちゃないのかもしれない。世の中台湾も含めてたいした話題にもならなかったのだから。そもそも、センター試験以降の世代はそもそも宋美齢を知っているのだろうか? 知らないわけはないよな。蒋介石夫人であり、映画ファンなら「宋家の3姉妹」くらいわかるよな(長姉は孔祥熙夫人宋靄齢、次姉孫文夫人宋慶齢)。と書きながら、たぶん知っているのはそのくらいだろうなとも思う。西安事件については、今の学校ではどんなふうに教えているのだろう、とぐぐると面白いものがあった。「山川出版社高等学校用世界史教科書の記述の変遷」(参照)。それによると、2000年ではこうだ。


当時、西安にいた張学良はこうした状況に動かされて、共産党軍攻撃作戦を説得にきた蒋介石を幽閉して、逆に抗日・内戦停止を説いた(西安事件)。蒋はこれをうけ釈放され、こののち国共はふたたび接近した。

 味のないマシュマロウを食っているような感じだが間違いではない。そういえば、張学良も皮肉にも100歳を越える長命だった。突然、NHKのインタビューに出てきたときは驚いたものだ。
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新「南京大虐殺」のまぼろし
 そういえば話が続くが、鈴木明が死んだのも今年のことだった。77歳。そんな歳だったのかと思った。「南京大虐殺のまぼろし」(絶版)を著して、左翼からは叩かれまくった。が、この本は南京大虐殺の史実を描いた作品ではない、と言っていいだろう。百人切り伝説の話だ。話題の中心だった本多勝一は今でも元気で、この関連で裁判沙汰になっているとも聞くが、私にはさして関心はない。むしろ、鈴木明が事実上最後に残した「新『南京大虐殺』のまぼろし」(飛鳥新社)のほうが興味深かった。この本は歴史家からはどういう評価になったのだろうか、よくわからないが、エドガー・スノーの裏はよくわかったし、宋美齢についても生々しく浮かび上がって好著だった。
 と、書きながら、この先、自分でもうまく言葉が浮かんでこない。もうすべて終わったことだ。言うだけ無駄だ。この女に日本はひどい目にあったが、もっとひどい目にあったのは台湾の人々だし、中共が生き残ることで苦しんだのは大陸の人々だろう。敗戦史観からすれば、帝国侵略した日本が悪いことになっているから、宋美齢が善になるのだろう。つまり、思考停止だ。所詮日本などこの女ひとりに負けたのだと自嘲してしまいたくなる。

[コメント]
# shibu 『このおばん、帰国子女でしょ。おねえちゃん慶齢との会話も手紙も英語だったってな話ですもんね。お説の「美齢一人にしてやられた!」ってのも同感です。対して、野村吉三郎じゃあねぇw 聞き取りも不安だったとかじゃなぁ。なんでこんとき白洲が張り合わなかったんでしょうかね。ま、野郎じゃ相手にゃならんですか。圓山飯店って台湾神社でしたっけ。あれって宋美齢の個人名義だったんですかね。それとも国民党の息のかかった会社名義でそこから上がりをいただいていたとか。96年以降台湾のイメージは様変わりです。李登輝効果でしょう。香港からの帰り、機体交換でトランジットしただけです。一度は行ってみたいですね。高雄にはいとこが葬られているようですし。』

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2003.10.29

オピオイドと腰痛についての雑談

 さて、今日のネタは…ということでこのブログを書くようになって気づいたのだが、麻薬系のネタは、肯定的にも否定的にもウケがいいみたい。ほんとみなさんお好きだねという感じだ。酒も飲まなくなってしまった私にしてみるとそのあたりのことは感性としてはわからんのだが、どうやら、麻薬好き関係にはオタクというかマニアというか、多少なりとも実践もあるのだけど、とにかく知識を誇りたい一群の人がいるようだ。70年代のドラッグカルチャーの生き残りなのかもしれない。そのあたりの知識の生息はもう少しジャーナリズムで追及されていいのではないかとも思う。すでに昔の話になりつつあるが、オウム真理教については、どうしてもサリン毒ガス殺人狂集団みたいな話で定着しつつあるが、彼らは実にドラッグな人々だった。内部で使っていたのはMDMAや2CBあたりではないかと思うが、そのあたりをきちんと調べた文書は見たことがない。警察じゃ無理なんだろうなとは思うが。
 で、話はロイターヘルスで紹介されていた'Journal of Pain and Symptom Management, October 2003.'(参照)に載るオピオイドの記事についてだ。前回ヴァイコディン(Vicodin)について書いたときも、さーてオピオイドをなんて訳すかなと思った。ある程度誤解されてもいっかぁと割り切ってあえて用語を外したのだが、そのあたりで「オメー無知」と思った人もいるだろう。そういえば字引を引き忘れたで引いてみると「オピオイド。アヘンに似た作用をもつ合成麻酔薬」とある。それで間違いないので、業界通り「オピオイド」としておくか。ちなみにオピオイドをぐぐってみると、「分娩時除痛のための筋注オピオイドの種類」(参照)てなものがひっかかった。そういえば、日本の分娩っていうのは異常だね。痛ませるし、体を切るし…これこそフェミニズムがなんとかせーよと思うのだが、日本のフェミってこうした問題は扱わないね。だもんで新興宗教のような分娩が流行る(参照)。この先まで言うとお馬鹿さんの無意味な反論を招きそうなのでやめとくけど、出産回りの知識のドツボはなんだかなだな。
 最近私のところに来るスパムもまだまだヴァイコディンが多い。チンコをでかくしよう、ガールがお待ちかね、オメーの借金棒引きにしてやるぜに並ぶ。オピオイドがブームという印象もある。さーて、当のネタはなにかというと、オピオイドの利用でも脳の機能は損なわれないという研究成果が出たのだ。それどころか、脳機能が改善しているらしい。まさかね。それじゃ困るよね、うふふ、ってなものだが、もちろん、そうした書き方はジャーナリズムであって、限定は付く。
 この手の研究にありがちなのだが、対象者は144人と少ない。患者は'chronic low back pain'。ええい「腰痛持ち」と訳してしまおう。処方はおなじみの'oxycodone plus acetaminophen or with a fentanyl patch'、前半は「ヴァイコディン」と訳そう。'fentanyl patch'はデュロテップだが、この話は割愛。それで、90日後別の処方に切り替えたて比較したが、脳機能に問題なしと出た。むしろ、切り替え後16-25%の患者は脳機能が劣化したようだ。なぜか、について、研究者は、苦痛が減ったからでしょ、としている。なるほどねであるな。そして、当然のことならが、この結果について個人差の問題を含めて、単純に扱わないように注意を促しているというわけで、私のブログなど以ての外か、ま、私もオピオイドを薦めるわけじゃないからね。
 さーて、ネタはこれで終わりなのだが、思うに、ちとヤバイ意見だが、苦痛には精神的な苦痛も含まれるのだろうから、そうした面で、オピオイドの効果というのはありそうな気がする。また、以前から言われていたことだが、今回の結果だけで言うわけではないが、「麻薬しますか人間やめますか」はジョークになっていくだろう。日本の社会もきちんと考えたほうがいい。
 もう一点は、腰痛についてだ。ぎっくり腰って言っていいだろうか。私も経験があるが、高橋源一郎ではないが、30歳そこそこでなった。一生続くぜと回りに脅かされたものだ。その年代の若い人に多いようだ。個人的な観察によれば、Webデザイナーに多いんじゃないかって気がするが、どうだろう。いずれにせよ、激痛だ。あれが慢性化するとつらいだろうなと思う。日本だと、OTCでインドメタシンの貼り薬が急速に普及しているが、無知を告白するが海外での利用は見たことがない。安全性が高いのだろうか。
 先日たままたあるある大辞典を見たら「プチヘルニア」というのをやっていた。小さなヘルニアが腰痛や足のしびれをもたらすという話だ。阿呆かとも思ったが、専門医からの苦情はないようだ。
 またしても話はまとまらないが、これで終わり、じゃなんなので、腰痛のあるかたは日本ではオピオイドが使えないので、インドメタシンの貼り薬でしょうかね。夏樹静子ではないが、腰痛は心理的な問題もからんでいるので、心の問題も重要でしょう、ってリラックスとか癒しとかじゃなくて、人生を思いっきり方向転換するっていうのが心理問題の解決ですね、大人の常識としてですね。

追記1
 同日。上記内容とまったく関係ない話だが、キルビルのGOGO夕張の話題で「似非と現実の日記」id:yasai:20031029に「アメリカでマッハGoGoGoが大々的に流行ったなんて話は聞かないし。」とあって、あれれ? Speed Racerはアメリカで大流行でしたよ。
 同日。追記を書いたせいなのか、「似非と現実の日記」に追記がありました。影響した? ま、悪く思わないでね。

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2003.10.28

[書評]がんから始まる(岸本葉子)

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がんから始まる
 選挙公示もあって新聞各紙はまいどの展開なので面白くない。ので最近読んで深く感銘した「がんから始まる」(晶文社・岸本葉子)について書く。前もってことわっておくと、今日のブログもおよそ書評にはならない。自分でも自嘲してしまいたいほど、書きたくてしかたなくて書いているだけだ。
 「がんから始まる」は著者のエッセイスト岸本葉子自身が40歳の若さで突然虫垂がんになった顛末を、自身の目でドキュメンタリーふうに描いた作品だ。彼女は40歳になった2001年にがんになった。2000年の日常を描いた「炊飯器とキーボード」には下腹の激痛の記載が三度ほどあるが、これは単なる腸炎ではないだろうと私も思っていた。とはいえ、がんだとまでも思っていなかったので、文藝春秋11月号「女ひとり、40歳でがんになる」を読んだときは驚いた。人ごとではないなという感じがした。私は岸本のエッセイの大半を読んでいるので、彼女がよく健康に気遣っている人であることを知っている。これでがんになるようでは、いわゆるがん予防の何箇条みたいのは、意味がないのだなとすら思う(*1)。
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微熱の島 台湾
 作品として見れば、イジワルな言い方だが「微熱の島 台湾」に次ぐ傑作になったと思う。しかし、そういう言い方はやはり不遜だろう。「微熱の島 台湾」は一面すでに失われた台湾の記録という意味で歴史的な価値があるから比較すべきではない。個人的な思いで言うなら、今回の本こそ傑作だし、私にとって貴重な本になった。
 この本はある面、岸本の著作の特徴である実用性の面もよく活かされている。ちょうど「マンション買って部屋づくり」が、女ひとりマンションを買って暮らす際のいい心得書になるように、今回の「がんから始まる」も、こういう言い方はいけないのかもしれないが、潜在的ながん患者である一般の市民にとって、よい指針書になっている。
 毎度ながら、文章はうまい。編集もだいぶ仕事をされている印象もあるが、ドキュメンタリー風の構成もいい。現状のがんの医療もよく描かれている。特に、がん手術後の人生という問題の提起という点で社会的な意義がある。先日読んだ絵門ゆう子の「がんと一緒にゆっくりと」もそうだが、がんと生きる人々をどう配慮するか、その視点が社会の常識として重要になるだろう。こちらの本については、いわゆる代替医療にゆらぐ心がよく描かれていて興味深かった。岸本の本でもそうだが、がんのように現代医学のある意味で限界にある場合、代替医療がどうしても重要に思えてくる。だが、残念なことにこの方面でのよい指針は日本にはほとんど存在していない。春秋社あたりから「Choices in Healing: Integrating the Best of Conventional and Complementary Approaches to Cancer」(参照)の翻訳を出してもらいたいところだが、それまでは、アンドルー・ワイルの「癒す心、治る力」にあるがんについての指針がよいだろう。なお、訳者上野圭一はこの分野の第一人者でもあるのだが、翻訳が荒いところが目立つので出版社はフォローアップの体制をしっかりとって欲しい。
 「がんから始まる」に話を戻して、私にとって特に貴重だったのは、次のように若くして死病に向き合う心のありかたの記述だった。この言葉自体は、普通はたわいなく聞こえるのかもしれないが深く共感した。

日頃の私と接する人は誰も、私がこういう、死と隣り合わせの虚無感を抱えていると、想像だにしないだろうなあ(*2)

 「死と隣り合わせの虚無感」というものは、おそらくそれがわかる人とわからない人とに決定的に分かれてしまうだろう。もちろん、岸本も、がんの経験がない人にはこの気持ちはわかるまい、というような考えはきちんと退けている。がんだからということでなくても、この生きているという実感を奪うような虚無感に浸されてしまうことがある。自分にはもう未来なんていうものはないのだという思いが、いつでも、なんどきでも、笑っていても、それはそこにある。我を忘れていても、その虚無感が私を忘れていない。目の前の現実よりも強固な感覚として、実在の感覚を消耗させ、奪っていく。それから逃れることはできない。そういうことがある。ゲド戦記のゲドと影との関係のようなものだ。それと向き合い、ひとつになるしかないなにかなのだろう。
 岸本はそうした経験の集積を「がんから始まる」とした。よく考え抜かれている。こうした死の光景のなかで、新しいなにかがはじまる。彼女は、「新しき者よ、目覚めよ!」と呼ぶが、死の光景でしかありえないなかで生きているのは、新しいなにかなのだ。
 生きていること自体が奇跡のような事実と思えるというのはなんなのだろうか。神学者パウル・ティリヒはそれをThe new beingと呼んだ。母語をドイツ語とするせいものあるのだろうが「新しき存在」とは奇妙な響きのする英語だ。彼はそれを和解と許しによって特徴づけたが、そこには単純なキリスト教の教義を越えるティリヒの深い瞑想があるのだろうとは思う。
 岸本の本の扉裏には「私を生かす未知なるものへ」とある。もちろん、がんという死の光景のなかで生き続ける「新しい者」を意図しているのだろう。だが、この祈りともいえる言葉には、こう言うことは僭越だが、岸本がこの世に生きてきた意味、さらには使命のようななにか、奇跡のような何かが隠れているように思われる。人の人生には奇跡ということが起きる。それはがんが治るといった好ましい奇跡だけではないかもしれない。たがそれは人生に決定的な意味をもたらす。岸本のこれからの人生にきっとなにかが起きるだろうという感じもする。
 今回の本では文学的な美しさも感じた。一人の娘と老いた父の関係についてだ。ユーモアを込めていうのも失礼だが、岸本のエッセイの多くには私はところどころ嘘を感じたものだ。女30歳がひとりで生きて嘘がないというものも、変なものだ。中村うさぎやさかもと未明みたいになってしまう。今回の本で描かれた父への思いには、しかし、嘘のない、とても繊細な感性が露出していた。この人が独り者の人生を選んだのは、こうした感性の帰結だったのだろうな、と思った。

注記
*1:強いていうと、食物繊維ががん予防によいかについては最近疑問が出てきている。また日本の葉野菜は硝酸塩が多すぎるので菜食にも注意が必要になる。
*2:p187

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2003.10.27

読書の秋にお薦めの悪書

 各紙社説に目を通しながら選挙やイラク復興絡みの話にうんざりしている自分に気が付く。産経新聞社説の「参院埼玉補選 実証された小泉安倍効果」は阿呆かとも思うが、フジ産経系の調査はそう実態から離れているわけでもないのだろう。
 九月下旬の本紙とFNN合同世論調査では総選挙後の望ましい政権に関しては「自民党中心」55%、「民主党中心」25%、「わからない」20%だったが、自民党への期待が強いことを改めて示している。
 この期に及んでなぜ日本国民は政権を交代させようとしないのだろうという苛立ちが自分にもあるが、そういう苛立ちは自分の思想の劣化なのかもしれない。

 今日もつまらない話題と言えばつまらない話題だ。読売新聞社説「読書週間 学校は系統的な指導に取り組め」を読んで、とほほな気分になった。最初に「とほほ」を気分を解説しておくと、「いくら若者が本を読まないからって言ったって、読書なんてものは学校で指導するこっちゃねーよな」である。
 そうは言っても、学生さん本当に本を読まないね。


全国学校図書館協議会などの昨年の調査によると、小学校六年生の男子は月平均五・三冊、女子は六・五冊の本を読んでいたが、中学一年生になると、二・五冊、三・七冊しか読んでいなかった。高校生は、一・五冊に過ぎなかった。

 小学生と中学生の読書傾向が違うのでなんだかよくわからない統計値になっているが、ようは高校生は本を読んでないわけだ。困ったなとは思う。だが、それへの対応としてこれはひどいな。

 小学校では、読むことの楽しさを分からせ、中学、高校では、名作や基礎的な専門書に親しませる。大学では、課題図書講読で単位を与える図書講座を開設する。年齢に応じた指導が必要だ。
 子供同士が課題図書について話し合ったり、読んだ本のリストを交換するなどの、取り組みの工夫も求められる。

 自分も少年から青年を経て大人になった人間だからこそ、こーゆーことは言えないねと思うのだが、いったいこの手のきれい事をいうヤツのツラが見たいね。馬鹿だろおまえって、言ってやりたい気分だ。とま、くさしても意味はないか。昔から日本の大学にはReading Assingmentなんてないしな。
 私は、小学生は面白い本を読めばいいと思う。他になにも要らない。面白い本がないという世界のほうが間違っているのだ。「かいけつゾロリ」のコミック化はやめてくださいよ、はらゆたかさん、ポプラ社さん、という感じだ。
 中学生以降は悪書を読めばいいと思う。大人に隠れて、悪い本をいっぱい読むのだ。こういう言い方も爺臭いかもしれないが、悪書っていうのが世の中から少なくなったなと思う。もちろん、エロ小説でもいいぞ。でも、エロ写真はダメだ。ホームページのエロなんて論外だ。見て反応していたらサルになっていまう。で、コミックは? ベルメールみたいに絵がよければいいんだけどね。誰か絵のうまいのいる?
 江川達也も絵が荒れたなぁ。塔山森時代は下手だっただけだが、山本直樹も絵が荒れている。石井隆の絵はなんか今だと本人のがパロディみたいだね。江口寿史? おだて過ぎたんじゃないか。
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高丘親王航海記
 エロ本のお薦めは「閨房の哲学」だ。読書指導をしてあげるが、いくら小遣いがないからって渋澤龍彦が訳した「閨房哲学」の文庫本はやめとけよ。渋澤の翻訳なんかで読んじゃだめだ(矢川澄子の翻訳みたいなもんだからね)。渋澤が読みたいなら、「高丘親王航海記」にしておけ。とはいえ、こんなエロ本じゃモエモエじゃないというなら、さっさとなかに入っている「フランス市民よ、共和主義者でありたければ、もう少しの努力だ 」だけ読んで、他を探せ。これがこの本のキモだ。この文書を読まずに社会思想や評論なんかしているヤツを信じちゃだめだ。きっと、日垣隆だって読んでないぞ(冗談ですよ、もちろん。ダンボール箱で書籍を買うほど読書家を豪語されているのですからね)。
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二千万ドルと鰯一匹
 女子高校生にお勧めの悪書は、村上春樹が訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」なんかじゃなくて、素九鬼子の「旅の重さ」だ。ちなみに高橋洋子が出ている映画のほうは見なくてもいい。と、本を調べると、あれ、これって絶版かよ。なんてこった。サガンの「悲しみよこんにちは」なんてお薦めしたくもないよな、文学だし。暇つぶしだったら、これも古くさいが絶版になっていないので、アルレーの「二千万ドルと鰯一匹」がお薦めだ。悪書というよりはユーモア小説なので爆笑していただきたい。ちなみに、アルレーは近年になるほど面白くない。
 本のお薦めなんかしていると、ダカーポみたいなビンボー臭い感じがするので、おしまひ。

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2003.10.26

「新三種の神器」だなんてお気の迷いでしょう

 日経を除いて、日本テレのプロデューサーが視聴率調査会社の対象世帯を買収していたという話を扱っていた(追記:日経扱いは翌日だった)。よくわからない。そんなことが問題なのか? 私が思ったことは、買収された世帯はわかっているのだから、その条件で統計値を補正すればいいだけのことではないのか、ということだ。各社説は「テレビ業界の倫理にあるまじき」というのだろうが、そうか。そもそも視聴率調査会社にそういうフィードバックが効いてなかったというだけのことではないか。なんでこの手の問題にはしゃぐのか、私にはよくわからない。
 他の話題としては、イラク復興支援の問題があるが、批判しているつもりの朝日新聞の社説が要領を得ない。この問題について明確にしなければいけないことは、明細だよ。まったくサラリーマン・ジャーナリストって人たちは会計に苦しんだことがねーのだろうか。支援額については現状の日本ではつらい額ではあるが、すでにイラクからはしぶちんの独仏への批判が起きている。日本の外交策としてはこの期に札束で独仏の面をひっぱたいておくほうがいいと思う。洒落ではない。

 今朝の話題はまたつまんねーよと言われそうだが、日経新聞社説「『デジタル家電』躍進の好機を生かせ」だ。一読してトリップしそうになってしまった。


 「新三種の神器」という言葉が電機業界で飛び交っている。売れ行き好調の薄型テレビ、DVD(デジタル多用途ディスク)レコーダー、デジタルカメラを指す。これらに代表されるデジタル家電が自動車などとともに、現在の景気回復のけん引車になっている。

 「新三種の神器」とはね、そんなしょーもないと思ったのだが、産業経済界の爺いどもは本気なのか。まいったなという感じだ。まず、そんな小物じゃ、経済効果なんかないだろうにと思うのだが。薄型テレビはサイズによって青天井だが、家庭用なら15万円くらいか。DVDレコーダーは10万円を切る。デジカメは3、4万円くらい。夢路師匠を偲んでズバリ買いましょーとしてだ、30万円というころか。ちょい前のパソコン価格だな。なんだよっていう感じだ。
 ちょっと話がねじれてしまうが、薄型テレビはまだいいとして、DVDレコーダーもデジカメもまだまだ全然家庭向きじゃない。もっと単純であるべきDVDプレーヤー自体、全然インターフェースっていうものができていない。これほどひどい商品を放置しておいて、ユニバーサルデザインがどうのこうのって言っているやつは阿呆じゃないのか。
 爺いたちがトチ狂うのは、「三種の神器」という言葉のマジックだ。

 1950年代半ば、電気冷蔵庫、洗濯機、掃除機が「三種の神器」と呼ばれ、家庭電化時代を開いた。60年代半ばには、カラーテレビ、クーラー、カー(自動車)の3C時代が幕を開け、耐久消費財ブームが高度成長を加速した。今回の「新三種の神器」も、規模はまだ小さいものの大きな波の到来を予感させる。

 ロートル極まるな。どうせロートルならもっときちんと当時を思い出すといい。ドラッカーがよく引く事例だが、50年代前半だろうと思うが、当時の日本人は年収を超えるテレビ(白黒)を無理してもよく買った。それほどすごい商品だった。それがあるとないとでは家庭の絵が変わった。だが、「新三種の神器」はどうかね。それの有無でどういう生活シーンが見えるというのか。こんなトンマな社説を書いているようじゃ未来の経済紙とは言えなくなるんじゃないか。
 くさし的な話は切り上げるとして、この「新三種の神器」に欠けているはブレーンだ。マイクロソフトじゃないけど、メディアのセンターがなくては十分にデジタルメディア装置は機能しない。重要なのはメディアセンターと家庭のイマジネーションであり、その家庭の主要な構成はパラサイトと高齢者だ。
 小物についていえば、デジカメは大衆向けはケータイに統合される。だいたい家庭用に200万画素以上は要らない。DVDレコーダーは所詮テレビの付属だ。とすると、メインの録画編集の機能はHDレコーダーが装備していなくてはいけないし、HDレコーダーはEPGと連動していなければ意味がない。このあたりの全貌を理解できているのはソニーくらいだろうが、ソニーもブランドイメージのせいか、大衆市場を見据えていない。なんだか間抜けな有様だ。
 間抜けといえば、こうしたデジタルメディアの時代になっても、依然、コンテンツはテレビに依存するというのに、テレビ局たるや今でもリアルタイムの視聴率にこだわっているのだ。もう「放送」の時代じゃねーんだよ。ただ、コンテンツを送信しているだけで、再生は任意なのだ。
 誰でもいいから、このあたりで、きちんと大ラッパを吹いて、メディア環境を整備すれば、その点では日本はけっこう快適になるのだが。

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2003.10.25

国民の貯蓄率低下は見せかけの現象かもね

 今朝の新聞各紙が日本道路公団藤井治芳総裁の解任を扱うのはしかがたがないが、どれも読み応えのないものだった。元祖アイドルできちゃった婚の本名林寛子こと扇千景婆さんの責任を問うかのような姿勢も今頃なんだかなである。読売新聞に至ってはなんだこれの社説だ。


 完全決着とは言えないが、一応の区切りはついた。民営化に向けてすべての関係者が、心機一転、仕事を始める時だ。

 あのなぁ、全然区切りはついてないよ。ここで膿をきちんと出して、Aの青木を政界から引きづり降ろすことが改革の前提。とはいえ毎日を除けば、他紙も早急に後任を決めなくてはいけない、みたいな阿呆なことを言っている。決まるわけないし、形だけ決めても機能しない。

 今朝の話題は日経新聞社説の「貯蓄率低下が発する警告」についてだ。といっても、このテーマもさして自分なりの知見があるわけではない。すでに夏の初めのこの手の話題が湧いていたので、なんでいまさら感はあるが、自分のためにも再考しておきたい。この次第はこうだ。


 内閣府が24日発表した今年の年次経済財政報告(経済財政白書)は家計貯蓄率(可処分所得のうち貯蓄に回した割合)の低下について分析している。国民経済計算ベースの家計貯蓄率は1990年代の初めに14%程度と先進国の中でも最高レベルだったが、2001年には独仏を下回る6.9%となり2002年はさらに下がったもようという。

 日経の文体なのでちと読みづらいが、ようはこの十年で国民の貯蓄率は激減したということだ。貯蓄率とは消費の動向とも関連するから、端的に言えば、消費のモラルが変化したとも言えると私は思うが、日経の着眼は、この10年は不況だったから消費のスタンスは変わらず取り崩したと見ているようだ。
 気になるのは、この手の統計というのは、あくまである手法による統計値であって、生活の実感を反映したものにはなりにくい、ということ。単純に「平均」といっても中学高校で学ぶように(学んでいるんだろうな?)、分析のありかたでいくつか選択がありうる。国民経済でいえば、富が偏っている場合は単純な統計には意味がなくなる。今回の貯蓄率については、詳しくみていないが、日経は、高齢者の貯蓄の取り崩しとしているところをみると、富裕層である高齢者の問題であるとも言えるだろう。ただ、これも日経が指摘していることだが、全世帯に占める高齢無職者世帯の割合が上昇していることが背景にある。
 この先の日経の話は、真面目腐ったジョークのようだ。

 この動向が進めば、法人貯蓄の動向もかかわるので、全体の貯蓄率の低下の度合いは予測しにくいが、国債金利など長期金利を押し上げて、国の利払い費や企業の投資コスト負担を増やす可能性がある。それは経済の活力をそぐ。経常収支が赤字に転じ海外の資金に頼らざるを得なくなるかもしれない。基軸通貨国ではないので、米国のように赤字を垂れ流しつつ好景気をおう歌することはできない。

 たしかに、国債の大量発行を支えているのは国民の貯蓄だからこういうストリーになるのかもしれないが、それでも日経の結語「財政赤字を減らせ」というのは論理の飛躍だ。日経なんだから、もうちょっとマシな話を書いてもらいたい。マクロ的には法人貯蓄は増加するのではないのか?
 と、書きながら、なーんだという思いがした。高齢者の貯蓄取り崩しは、実は財産分与ではないのか。世間を見渡しても、けっこう30代そこそこで4000千万代のマンションがほいほい売れている。これって親が頭金を出しているとしか思えない。そのあたりの統計はどうなっているのか?
 平均の結婚年齢は上昇している。都市部での実感だと、女性28歳、男性32歳というあたりが平均くらいだ。20代前半の結婚というのはある意味いつの時代でも減らないだろうが、社会の動向としては、たぶん、女性は30歳、男性34歳という線にまで上がるだろう。そして、20代で結婚というのの大半は離婚して、再婚でこの線にキャッチアップするに違いない。
 やや妄想のようだがその線で考えると、女性が子供を産むのは32歳。男性は36歳。現状でも子供を産む夫婦は二子まで産むことが多いから、次が女性35歳、男性39歳。それで子供は終わりとなる。これを孫とする世代は定年の65歳。で、老後に入る。というわけで、ファミリー全体の資産構成を変える必要が出てくる。
 財産分与みたいに大げさな話でなくても、こうした動向が現在先取りされているというのが、貯蓄率低下の背景にあるように思える。だとすると、この状況は10年以上続くだろう。
 以上が、私の「なーんだ」のストーリーだ。類似の意見を見かけたことがないなと思っていたら、必ずしもそうでもないようなので(*1)、それほど間違いでもないのだろう。

注記
*1:「少子化に伴う影響(持家の相続・贈与の機会の増加等による影響)」を参照。ただし、ここの論では、大都市圏で住宅の新規需要は減少していくと見ているがこれは違うだろう。都市集中はさらに高まるはずだ。

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2003.10.24

代理出産問題はまるでわからない

 今朝の各紙社説の話題は中曽根辞めろコールである。常識的に言って、さっさと辞めろよと思うが、産経新聞社説が面白かった。


中曽根氏の拒否の理由は、「憲法と教育基本法改正が政治日程に上る重要な段階で議員を辞めることはできない」との信念に発している。この決意は大政治家と呼ぶにふさわしい中曽根氏らしく筋の通ったものである。

 ほめ殺しでわはっははといった感じだ。個人的には中曽根にがんばってもらって自民党政権リセットへの効果としてもらいたい。くどいようだが、首相経験者という話題のタガをはめるのはわかるが、こんなどうでもいいご老体より、元気な山中貞則をどうにかせーよ。国の税制に枢密院を作ってる悪玉だぜ。

 今日の話題で、うかつにもへぇ~68点だったのは、読売新聞社説「米国代理出産 『母子』認定めぐる法の穴埋めよ」だ。まさに我ながら無知っていうやつだった。事態はこうだ。


 不妊治療の急速な拡大に、社会や法律がついていけない。それが深刻な問題であることを実感させるトラブルが起きた。
 不妊に悩む五十代の日本人夫婦が米国に渡り、米国人女性に代理出産を依頼して昨年、双子の男児を得た。日本国籍を得るため、「実子」として在米日本総領事館に出生届を出したが、一年以上も棚上げになっている。
 総領事館が、出産の事実確認に手間取った。今夏やっと、代理出産とわかったが、法務省は、「出産した女性が母」という判例を盾に受理を渋っている。

 さらに、へぇ~を叩いてしまうのだが、こうした件について、法務省は通達で、出生届の受理に際し50歳を超えた母については事実を確認する、つまり事実認定は法務省が行ってくださる、としているとのことだ。あちゃ、またやっているぜという感じだ。人の人生に関わることを通達という名の無法で処理してやがんの。
 いずれにせよ、今回は妻が50歳を越えていたので問題化したらしい。じゃ、50歳以下はどうなってんのとも思うが社説には書いてない。推測するに50歳以下なら事実上問題はなさそうだ。というのも、問題化しないケースは100組を超えるとも言われているし、毎日新聞の報道では50人もすでに代理出産で生まれているらしい。この子供たちは事実上認められているようなのだ。
 とすると、この問題は、法務省は50過ぎて女が子供産むなよとしていることになる(*1)。で、今回のこの問題をどう読売が考えているかというと、結語はこうだ。

 その間にも、不妊治療で多くの子供が生まれている。代理出産に限らず、卵子の提供を求めて海外に渡る例も多いという。そうした子供たちの福祉を放置しておいていいのか。時代に対応した制度作りを急がねばならない。

 あれ? これで問題の回答になっているのか? デスクがいじり回したのか。とはいえ、概ね「今回の代理出産を認めよ」と理解してもよさそうだ。ただ、問題化するのは妻が50歳以上というケースに限定されるのに、この回答はあまり一般的過ぎる。
 とはいうものの代理出産という問題をどう考えたらいいのか? まず、私自身についてはまるでテメーの問題ではないなと思うだけ。一日本国民として若い同胞をどう考えるか、というと、率直なところよくわからない。
 もっと率直なことを言うと、恥知らずと誹られそうだが思ったことを言うとだ、米国で出産したら、とにかく米国国籍になるので、米国民にしたらどうか。代理出産がどうたらということも、法的に養子とすればいい…と考えて、あっ、親は米国民になる気はないのか、とテメーのトンマかげんに自嘲する。いずれにせよ、私という人間はそんなことをオートマティックに考えてしまった。
 そういえば我ながらこの手のことに無関心なのに呆れるが、代理出産とかで女性週刊誌を騒がしていたタレントがいたよなと記憶をたどり、ネットを覗く。向井亜紀38歳だ。子細はわからないが、生まれてくるのはこれからのようだ。とすると、向井になさぬ仲ならぬ子が生まれたとき、世間はどっと盛り上がるのだろうか。とほほ。
 すでに過去になりつつあるが、「諏訪マタニティークリニック」根津八紘医師が日本産科婦人科学会の規定に違反して夫婦以外の第三者との間の体外受精を実施した問題のおりは、除名させた学会より根津のほうが意見が通っているとも思った。根津は実質代理出産体制を進めているはずだが、と調べてみたら、あちゃ、すでに実施済みでした。この件について、もうちょっと首をつっこむと、法制審議会部会は今年の7月、出産した女性を法律上の実母とする民法特例試案をまとめている。なんだ、それ?
 どうも我ながらこの問題に対する感性はピントがずれまくっている。結論もなく終わりにしよう。このブログは書いてもボロボロになるだけだ。ふと思い出したが、若い頃、知人がユダヤ人であること知り、ぜんぜんそうは思っていなかったせいもあるが不届きにも「なぜユダヤ人なの?」と訊いたことがあった。答えは「母親がユダヤ人だったから」だった。それから彼は母親とはやっていけなかったという話をした。話に浮かぶ女性はシルビア・プラスみたいな人だった。シルビア・プラスってユダヤ人だったっけ(違いますよ)。ユダヤ人には代理出産というのはないのだろう。しかし、ハガルを祝福した神は、代理出産の子も祝福するに違いない。

追記(11.11記)
 NHKのニュースより。


代理出産の子 日本国籍認める
日本人の夫婦が、アメリカ人女性による代理出産で生まれた子どもを自分たちの子どもとして出生届を出した問題について、法務省は、夫と子どもの間には親子関係が存在するとして、子どもの日本国籍を認めることを決めました。
(11/11 15:10)

 ほぉー、そりゃ良かった、というか、法務省、及び腰ってやつだろうな。騒ぎを立てたくないってことだ。


注記
*1:余談だが、昔懐かしい平岩弓枝脚本「肝っ玉母さん」で京塚昌子演じるところの「大正五三子(いさこ)」ってのは、母親が53歳の時の子っていう意味だった。なかなか洒落た名前だ。ついでに沢田雅美が演じたのは三三子(みみこ)。

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2003.10.23

ハンガリー動乱と大池文雄

 見出しだけは書いたものの、きちんと書く気力がない。このブログを関心を持って読んでいるかたには申し訳ない。
 とりあえず、意図を簡単に言えば、日本共産党史におけるハンガリー事件の意味と、それを先駆的に問題視した大池文雄という人間について考えたい、ということだ。
 見出しだけのこんなみっともないブログを残すのもなんだが、ブログ「余丁町散人の隠居小屋」10/23 Today ハンガリー動乱勃発 (1956.10.23)を読んで、「あちゃー!、これで終わりじゃ、困るぜよ」と思ったのだ。


 首都ブダペストで知識人、学生、労働者による大規模な反体制デモが実施されソ連軍戦車が出動。市民達は絶望的な市街戦を繰り広げたが最後は踏みにじられてしまう。
 ナポレオン三世に始まるヨーロッパの首都での街路整備と戦車の発明で古典的な民衆蜂起は物理的に不可能となっていたのである。誰もソ連軍はやってこないだろうと思っていたのだが戦車が出てくるとひとたまりもなかった。

 散人先生のブログはこの軽さがいいのかもしれないが、この事件が持つ日本史の意味をパスするには、痛過ぎる。とはいえ、散人先生にはご関心はないのかもしれないので、書いてくれよと懇願する意図ではない。
 ちなみに、大池文雄についてゴルフ経営関係以外でgoogleってみたら、案の定、たいした情報はない。そのなかでもましな部類だが「共産党の理論・政策・歴史」討論欄(参照)というページが出てきた。どうやら名前まで抹殺されているわけではないが、たいした内容はない。ここでの言及もくだらない。「新左翼(トロッキズム)の潮流発生」という項目の下に「3月頃には東大細胞による機関誌「マルクス・レーニン主義」、大池文雄を中心に少数の同志たちで「批評」が発行された。」とあるだけだ。トロッキズムかよ、なのだが、ま、そんなところだろうか。

こうして、この時期日本共産党批判の潮流がこぞってトロッキズムの開封へと向かうことになった。このような動きの発生の前後は整理されていないが、対馬忠行を中心として「反スターリン的マルクス・レーニン主義誌」の表題をつけた「先駆者」が刊行された。太田竜(栗原登一)が「トロッキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす」理論研究運動を開始していった。思想の広場同人の編集になる「現代思潮」、東大自然弁証法研究会「科学と方法」、福本らの「農民懇話会」、京都の現代史研究会の「現代史研究」、愛知の「人民」等々の清新な理論研究が相次いで生まれた。

 ちなみに、この太田竜とは、トンデモ本でおなじみの同名のかただ。同一人物なのである。へぇ~とか言わないでほしいのだが。

追記

cover
ハンガリー事件と日本
 うかつだった。絶版かと思っていた「ハンガリー事件と日本―一九五六年・思想史的考察」は復刻されていた。手元にないので再度購入して読むに、私なんぞが付け加えることは、ない。本書には一点だけ関連して私の秘密にも属する逸話があるが、たいした話でもないのでそれは内緒。

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東電OL殺害事件被告は冤罪である

 今朝の新聞各紙社説ではイラン核疑惑を扱うテーマが多かったが、あまり要領を得なかった。パキスタンの核について言及がなく、表向きの正義の立場に立つ新聞のあり方が不快にすら思える。そして、ある程度予想はしていたが、今朝の新聞各紙社説では東電OL殺害事件のネパール人被告の無期確定についてはテーマとして取り上げられていなかった。日本社会にとって些末な問題だと思っているのだろうか。あるいは、1997年は随分昔の話なのかもしれない。
 昨日はこの問題が気になって、ネットの情報を調べなおしてみたが、事実上ベタ記事扱いになっていた。たいした問題ではないという印象すら受ける。こんなとき、自分の社会の感性と報道のズレに奇妙な違和感を覚える。自分の感性のほうが正しいと素直に確信できるときも多い。今回のこの問題については、率直なところよくわからない。22日毎日新聞のコメントで『東電OL殺人事件』を書いた佐野眞一は次のように言っているが、編集のせいもあるのだろうが(担当者は小林直、渡辺暖、清水健二)、あまり熱意のようなものは感じられない。


1審で無罪になった時点で強制送還するべきだったのに、裁判所が不当に拘置を続けた末に出された決定で、まったく理不尽。まともに証拠を評価すれば無罪は間違いないと思っていたのに

 私はこの裁判は冤罪であると思う。その理由は、佐野の書籍に依存するもので、特に自分の視点があるわけではない。ので、それをここに縷説する意味はないだろう。裁判争点の観点から簡単にまとめればこうだ。

  1. 殺害現場に残された被告の体液と体毛の鑑定評価
  2. 現場アパートの鍵を被告が持っていたことの重要性
  3. 交遊関係を詳細に記した女性社員の手帳の信用性

 1については被告を特定していない。2についてはその事実認定自体が疑わしい。もしそうだとするなら、いくら外国人だからといって犯罪者なら間抜け極まる。3については信憑性が高い。つまり被告は客になっていないと見ていい。その他、被害者の財布が被告の土地感のない場所から発見されたことも検察の議論はおかしい。
 話を戻して、佐野の熱意が失せているという私の印象が正しければ、多分に佐野には実名問題があるのかもしれない。佐野が責められるべき筆頭となってしまった感はある。彼の関心事が冤罪事件というより、東電OLの生き様に向いていたせいもあるだろう。いずれにせよこの事件では被害者がスキャンダラスに取り上げられてしまった。そのことは当然良いことではないが、しかし、被害者のありようを見つめないかぎりこの事件の真相はわからず、そしてその見つめる過程に事実上実名が織り込まざるを得ないのではないかとも思う。
 ネットを眺めると、ゴビンダ・プラサド・マイナリ被告への支援運動が見られないわけではない。だが、印象では活発だという印象はうけない。事件そのものの呼称自体が報道各社で定まっていない。「東電OL」という佐野著の名称は、支援運動などの展開の過程から次第に避けられ、「電力会社OL」といったナンセンスな言い換えもある。OLという言い方すら適切ではないと言うこともできる。「東電女性社員殺害事件」とも言われる。だが、些末な問題だ。
 いったいどうしたことなのだろうと私は思う。私たちの社会が罪なき者を罪に定めているのだ。私はあきらかに加害者なのだ。そして私たちの社会に正義がないことに恥じていないのだ。と、パセッティックに言ってもしかたがないが、昨日は心の深いところで動揺しつづけた。
 いちおう裁判の経過からすれば、明日24日までに被告側の異議申し立てがなければ、逆転有罪判決が確定する。当然ながら、異議は出る。だから本当の展開はこれからなのだ、と言えないこともない。だが、すでに日本のジャーナリズムの熱は冷めている。確かに、この事件に関して、新しい事実の展開はない。検察側の状況証拠という、与えられた文書だけをもとに、実体のない議論だけが展開する中世の神学のような様相を呈している。あるのは解釈だけ。ジャーナリズムとしても書けば書くだけ空転してしまうことは予想される。
 今回の裁判に関連して、22日の読売新聞に気になる記載があった。

今回の最高裁決定によって刑が確定した後、服役態度が良好として一定期間後に仮釈放された場合は、入管当局が強制退去させることになる。

 たった1行なのだが、これはどういう意味なのだろう? 私の理解では「文句言わずに無期懲役を受けておとなしくムショに入っていたら3年くらいで国に帰してやるぜ」ということだ。そうなのか? 一種の司法取引と言えないこともないが、そんなのアリなのか。馬鹿にされるのを覚悟で素直に問いたい。正義というものは日本にないのか?

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2003.10.22

紙巻き煙草は個人的な意見だが不味い

 日経新聞の社説「“官僚統制教育”脱却の方向が見えない」を読んで、民主党が「学力低下」を懸念し学校週5日制の見直しを提言していることを知った。今回の選挙は民主党を支持たいと思うが、この提言はくだらないと思う。学校なんか学力とは関係ない。学校に拘束される時間は少なければ少ないほどいい。他、読売新聞社説「ガリレオ計画 弾みをつける欧州版GPS」が興味深かった。当然、米国GPSへの対抗になる。社説では日本もこっそり独自代替システムを開発していることへの言及がある。が、この社説は米国GPSの問題については触れていない。あんこのない鯛焼きのような社説だった。今朝の大問題としては、東電OL殺人事件の逆転無期懲役が確定したことだが、どの社説も触れていない。明日あたり扱うのだろうか。ここでさらっと扱うには重すぎる問題なので、ひとまず、パス。

 今朝の話題はまたくだらない話だ。朝日新聞社社説「たばこ判決 ― 怖さが伝わらない」に関連してだ。肺がん患者ら6名(3名死去)が、日本たばこ産業と国を相手に、煙草の有害性を認識しながら適切な喫煙規制対策を怠ったとして、損害賠償を求めていたが、昨日東京地裁で判決が出た。判決はごく常識的なもので、喫煙以外の要因がないことについて検討がなされていないとして訴えを退けた。もともとくだらないデモンストレーションの裁判なのだから、このニュースだけでももとがとれたようなものだ。民主主義というのはこの手のノイズが必然的につきまとうのだが、それはそれで悪いことでもない。
 朝日新聞がトンマなこと言ってくれるのではないかと期待して社説を読んだが、概ねつまらない。
 たしかに、有害と知られているたばこを長い間吸っていたのだから、病気になったからといって製造元を訴えることに違和感を持つ人も多いだろう。しかし、それにしても、今回の判決はたばこの害や怖さについて認識があまりにも足りない。
 早々に論点をすり替えた。でないと話にはならない。そしてこの先の話はお説教である。煙草の警告文は曖昧であり、これでは「吸い過ぎなければ害はないと言っているようなものだ」と言う。このあたりはただのお笑い。依存症という言葉を巧妙に避けて「依存性」についてはこう言う。
 だが、世界銀行の報告では、禁煙を個人的に試みても成功率は低く、成功しても大半の人が1年以内に再びたばこを手にするとされている。日本で禁煙指導に熱心な医師たちも「意思と努力で禁煙できるという思い込みは間違い」と口をそろえる。
 確かにそれは事実には違いないが、裁判で持ち出す話では毛頭無い。とはいえ、この朝日の社説に私は悪い気分はしない。煙草の害については、もっと社会に周知させなくてはいけないと考えるからだ。なぜ医者や教師が現在でも人前でぷかぷかやっているのか理解に苦しむ(こっそり吸えよ)。次の朝日の指摘は重要だ。
日本の喫煙率は全体として減少傾向にあるが、20代の男性はほとんどの世代と同じく5割を上回る。女性は20代の増加が目立ち、この年代の2割がたばこを吸う。
 高校生の調査では、男子の半数以上、女子の4割が喫煙経験ありと答えている。
 若い女性に煙草を吸うなとは私も言わない。だが、2割はさすがに目立つ。都市部ではこの倍ではないか。マクドナルドなどファーストフード店を覗けば若い女性が多数ぷかぷかやっている。電車の中で化粧をするのは恥知らずで済むことだが、このぷかぷかの光景は私には異様だ。我ながら偏見になってしまうが、総じて若い女性の多くが煙草臭い(受動も多いのだろうが)。そうでなければ、シャンプーなのか化学物質臭がきつい。笑いを取るような言い方だが、私は電車や人混みではできるだけ若い女性の近くを避けることにしている。エレベーターなどでも若い女性が乗っているなと見れば見送る。
 なんてこったと思う。もちろん、公平に見れば、社会に溢れる煙草の煙は昔に比べて数段に減った。だから私のような煙草嫌いなど社会的にどうでもいいことで、全体としてはよい方向に向かっていると言えるだろう。ただ、なにかが違うように思う。
 朝日新聞は科学に無知なことが多いので、ことさらに批判するまでもないが、医学的には煙草の害については病理学的には確立されていないし、過去の経緯を見ても、およそ確立しそうにもない。疫学的には関係は明白だし、依存性についてもほぼ立証されていると見てもよさそうだ。だが、こららについても統計的な世界として導出されるもので、我々の社会の指針としてよいのかは判断が難しい。
 私が個人的にひっかかるのは、煙草が不味いことだ。私はもともと煙草が体質に合わないようだが、それでも若い頃2、3年吸っていたことがある。やめたのは不味いからだ。まず、紙巻きが不味過ぎて、煙草の味がしない。かろうじて吸えたゲルベゾルテがディスコンになった。まさかと思ったが、そうなのだ。この煙草が市場から消えるなんて信じられない思いがした。
 オリエント種ブレンドとはいえキャメルみたいないい加減な味はいやだ。黒煙草(*1)もそれほど好きではない。ヴォネガットの小説は好きだがペルメル(*2)は口に合わない。マルボロも赤玉(*)3も合わない。米国物の紙巻きではウィンストン(*4)がかろうじていけたが、やはり紙巻きは不味い(*5)。バーレイ種なんか煙草の味がしない。こんなものなら、ビディー*6のほうがまだまし。
 国産はピースを除いて概ね不味かった(*7)。とはいえ、パイプ煙草(*8)や刻み(*9)の品質を見るに日本たばこの技術力は意外なほど高い(*10)。やる気になればいくらでもうまい煙草ができる潜在力があるとしか思えないのだが、今でもあの手の不味いものを作り続けている。いや、公平にいうなら、日本人好みカップラーメンのではないが、市場に合う味を作り出しているだけなのだ。キャビンやパーラメントみたいな煙草もマーケットをよく見ながら調整して出荷しているようだ。メインのマイルドセブン(*11)系はアジア人向けの味としてよく出来ているのかもしれない。
 さてあの頃の私はといえば、しばらく刻みを自分で巻いたり(*12)、葉巻やパイプも併用したが、大仰なのでしだいにやめた。最後まで吸っていたのは手軽なウィッフスというシガリロだった(*13)。日本には葉巻やパイプが吸える場所なんてありゃしない。若い人間が吸っても様にならない。いずれにせよ、自分が吸える煙草はなくなった。こんな煙草を吸っているやつには嗅覚も味覚もないんじゃないかと思った。が、ソムリエ世界一の田崎真也は、日本の紙巻き煙草をぷかぷかやるし、それでいて料理の鉄人も負かす味覚の持ち主でもある。だから私の言い分は暴論だ。それに、みなさん、煙草がうまいからという理由で吸っているわけでもない。病むに病まれなくて吸うなら、病むことなど気にするなって。

注記
*1:ゴーロワーズとかね。こいつのフィルター付きは論外。
*2:Pallmall。読み間違えないように。
*3:日の丸とも言う。
*4:注を付けるまでもないが、赤いソフトパッケージのやつだ。白い箱にWinstonって書いてあるやつじゃない。
*5:意外にバージニアスリムのメンソールじゃないのが悪くない。
*6:吸い方にコツが要る。
*7:缶ピがうまいという人がいるが、缶ピよりも新鮮で湿度管理のいい箱入りのほうがうまいのだ。
*8:「飛鳥」「シルクロード」「桃山」が好みだった。洋物ではイギリスのやつ。Half&Halfは論外。
*9:「小粋」は上質だが、ちと辛い。
*10:花作りもよい。
*11:こいつの香りはトンカ豆。ちなみにHopeは蜂蜜。甘ったるいよね。
*12:巻紙を選ぶと燃焼速度が調整できる。
*13:こいつはお薦めしたい(参照)。

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2003.10.21

企業の社会貢献は新しい世界システムに圧殺される

 ブッシュが北朝鮮に「安全の保証」を文書化するといった話題を、朝日新聞社説は肯定的に扱い、産経新聞社説は否定的に扱っていた。毎日は朝日寄りで、読売と産経は産経寄りといったところか。ま、そんなところという退屈な話なのだが、ブッシュの「安全の保証」についてもう少し食い込んだ話が欲しいところだ。国内報道を見ていると小泉がAPECの場で北朝鮮の拉致問題を取り上げるよう努力しているが…みたいな雰囲気だけあるが、ようは表向き鼻にも引っけられていない。問題ですらないというのが実態だろう。国際的には問題は北朝鮮の核開発だし、この件について国内のジャーナリズムはゲロ甘いのだが、すでに北朝鮮など信頼できなことは実証済みだ。田中宇ばりに裏読みをするのもなんだが、中ロを主軸に別の動きがあってそれがブッシュ発言へと出ていることは間違いない。そのあたりの筋がイマイチはっきり読めない。日本のジャーナリズムってなんなのだろう。

 今朝の話題は、毎日新聞社説の「企業と社会 リーバイスの苦い教訓」だ。知らなかったのだが、ジーンズで有名なリーバイスが、来年3月末までに北米の工場を閉鎖し、従業員も2000人ほど解雇することになった。それだけ聞いても背景がなければどってことない話だが、リーバイスはこれまで、企業の社会的責任(CSR)を優等生的に実践する会社と見られていた。先頃までCSRを基に据えて投資するという社会的責任投資(SRI)が、新しい資本主義の倫理のように言われてきた。リーバイスの例は、それが破綻した象徴になる、ということだ。なお、CSRは参照、SRIは参照
 毎日新聞社説はこの事態について、話題は振ったものの提起すべきことがるわけでもない。洒落でお茶を濁しているだけだ。


 CSRやSRIは、労働条件などが同じ水準の市場経済を前提にした思想だったのかもしれない。それでも、企業社会が社会的責任を放棄してはならない。CSRやSRIはさらに推し進められるべきだ。そのためには、より強固な経営基盤が求められる。
 チャンドラーの台詞(せりふ)ではないが「タフでなければ生きていけない。そして優しくなければ生きている資格がない」。先進国の企業は、そんな時代を生きている。

 ちょっと飛躍が過ぎるかもしれないが、フェアトレードと言った考えも同様に無効な発想だろうと思う。
 日本の知識人の場合、どうしても左翼の思考の圏内から抜けられないし、知識人と見なされる代表が柄谷行人のNAMのような阿呆なこと言う始末だ。彼らはCSRやSRIなどせせら笑ってしまうのだろうが、現実逃避でしかない。日本の知識人は現実の企業活動から乖離しすぎている。
 話を戻して、CSRやSRI、フェアトレードといった事が無効ならどうするべきなのか? 恥ずかしい話だが、私もよくわからない。ただ、この問いについては、エキセントリックな回答しか出てこないのではないかと思う。むしろ、問いの建て方を変えるべきなのかもしれない。
 古典的に資本主義自体を敵視したり、修正したりというのではなく、別の可能性をどう開いていくかと考えるべきではないか。もともと、資本主義という概念自体が、私には間違っているように思われる。マルクスの資本論は経済モデルとしては国内経済でしかない。そのモデルにどうトレードと金融を組み込むかということの多国間モデルが、あまりにも短兵急に帝国主義論に結びついてしまった。しかも、よりましなカウツキーモデルが一層され、阿呆なレーニンの論に結実した。喜劇的な悲劇だ。とはいえ、そうした過去の間違いを補正するより、現在のトレードとお化けのような金融の本質をもう一度、恥ずかしい言い方だがエエ恰好しいのシステム論ではなく、もっと個人ベースの人間主義的な見地から問い直していくべきではないだろうか。
 ピーター・ドラッカーは日本ではほとんど誤読されているとしか思えないし、世界的には無視されているとしか思えないが、彼は、もともと、歴史の実際としては「資本主義」として覆われている状態を共産主義とナチズムという全体主義への危機として捕らえ、それに対して、個々の人間の保護従属として企業活動を考えた思想家だった(死んではいないが)。だから、経営こそが、諸問題の解決となると考えた。日本に着目したのは、それが、一見官僚と合体して国家的な福祉システムのように見えたからだ。左翼はドラッカーなど無視するが、ドラッカーがそこに着目したのは正統な思想のありかたでもあった。
 その日本は破綻してしまった。だが、そう考えてみると、破綻した日本こそ、ゼロからの出発として、もっとも新しいモデルが生まれる可能性もあるかもしれない。我々の主体の側からなにか資本主義として覆われている内実を組み替えることはできないものか。だが、その時、最大の敵となって現れるのは、皮肉にも左翼的なヒューマニズムなのだろう。

追記
 社説の結語をしょっちゅうくさしているわりに、このブログの結語は我ながらボロボロ。構造主義者のなれの果てに焼きが回っていやがるなと己を顧みて思うだが、あえて、このままにしておく。人生後半に入ってきて、「死」の問題より「テメーの死」が問題になってきた。かつての世界との関わりは「テメーの死」を考えるとまったく異質になる。テメーが死んじゃうのに、システム論だの構造主義だの言ってられっかというところか。フーコーも人間の終焉とか言っておきながら、しょっちゅうアメリカに行ってはご乱行だった(日本ではなぜかそれが話題にならないようだが)。ドゥルーズはシステム論者ではないが、結局、主体的に自殺しちまった。なんか、わからないでもないなと思う。

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2003.10.20

私はIP電話なんて使わない

 やや旧聞とも思えるが、14日に中国共産党第16期中央委員会第3次全体会議(第16期3中全会)は閉幕した。で、なんだったのか? というのが毎度のことながらわからない。れいの有人衛星と関連があるのは間違いない。またぞろ人民解放軍が絡んでいるだろうとは思うのだが、わからない。今朝になって読売新聞が「中国共産党 この変化は『民主化』なのか」 という社説を出した。話には今回の公開は趙紫陽時代を思い出させるとして趙紫陽というキーワードを出してくるのは面白いが、とくに結論もない。こんな社説はまったく意味がない。それにしても胡錦濤ってやつは不気味だな。他、APECについても論じるほどの現代意味はなさそうだ。雑ニュースだが、宇多田ヒカルが半年ぶりに日記を再開とあるので、ちょっくら見に行った。2日続けていてこのノリだ。


ヒッキー、投稿拒否??
 10月19日(日)01時44分
メールからパクらせていただきました!やっぱり日本語のダジャレはすばらしい文化だにゃあ。ってそれじゃ拒否ってたみたいじゃん!ちゃいまんがなー。

 「歳は20だから、こんな文章なのかね」と思うほど残念ながら当方歳を食ってないようだ。駄洒落が入っているからというわけではないが、ぜんぜん若者っぽい文章ではないな。これ以降もオヤジに伝達する文体だ。彼女もまた、私の主観だが、嘘の多い人なので、オモテの明るさの裏に成熟した、なんともどよ~としたものを感じる。ま、そんなこと言われたかねーよでしょうが。そういえば、Deep Riverについて評論というのを見たことがない。詩も曲もたいした作品ではないということなのだろうか。間違いなく遠藤周作の影響だし、あそこに描かれたテレーズ・デスケルーとヒッキーには重なるものを感じるのだが…。

 さて今朝の話題は日経社説から。「健全なIP電話の導入策を」が興味深かった。日経は関連に日経BPがあるから、他紙のような惨いIT記事は少ない。知らなかったのだが、こうなるらしい。


 IP電話はインターネット技術で通話する仕組みで、電話交換システムに比べコストが格段に安い。IP電話間なら基本料金だけ、固定電話へかける場合も通常の市内料金より安い3分7―8円が相場だ。ところがNTTの料金は3分6円と安くした半面、固定からIP電話への通話は3分10円台と逆に高くした。

 日経社説はこのNTTのあり方を問題にしているのかというと、デスクが絡みすぎたのか、文章が濁っていてよくわからない面もある。それでも「しかしNTTが定めた通話料金はIP電話の利用価値を損なう恐れもありそうだ。」というのは主張でもあるだろう。
 私はというと、いいじゃん、というのが意見だ。理由は2つある。1つ目は今でも電話料金は安いと思う。昔にくらべりゃNTTはよくやっている。2つ目はNTTを保護したほうがいいからだ。電話網というのはインターネットなんか比較にならないほどの生活の基幹だと考えている。
 日経社説絡みで言えば話はそれで終わりなのだが、気になる指摘もあった。

IP電話は現在、約500万回線が利用され、2年後には2000万回線に増える見通しだ。特に一般家庭に人気だが、導入メリットは企業の方が大きい。

 別にどってことない指摘のようだが、そうか? 私はその見通しを疑っている。意外だったのが「一般家庭に人気」という話だ。嘘でもないだろう。そのうち、「すてきな奥さん」にもIP電話でお得、ってな話が掲載されるかもしれない。で、なぜ人気なのかというと、もちろん安いからということもかもしれないが、私は、けっこう悪どいマーケティングや営業の結果なのではないかと、これも疑っている。IT社会というのは、一種の呪術で人を騙し込む社会なのではないか。
 関連して、旧聞になるが日経BPの「NTT電話を解約する勇気ありますか」(参照)という記事が面白かった。記者はそっちの業界なので、結論がこうなるのはしかたがない。

IP電話を使い始めてから半年,節約できた電話代は約1万5000円だった。音質や使い勝手で苦労したことはほとんどなかったし,一応,IP電話の利用は正解だったと考えている。

 だが、標題のようにそんな勇気を持っている人は少ないのではないか。私はNTT寄りの意見を持っているからでないが、同記事にもあるように「呼制御サーバーの負荷は大丈夫?」は、全然大丈夫ではないと考えている。NTTのトラフィック制御技術を甘くみてはいけないとまで思う。むしろ、IP電話の技術は問題山積だと思われる。詳細は「遙かなりIP電話時代」(参照)がよくまとめているので参照してもらいたい)。
 現代はケータイしかもってない若者もいる時代だ。電話が家に付属すると考えのは古くさいのかもしれない。私はパーソナルなIT利用こそ、パーソナルなITセンターが必要だし、その生活の基幹部分は電話網からまだまだ離脱できないと考えている。
 私の頭は古くさい。20年前に描かれたテレマティークの理想は、現在のインターネットより優れていたのではないかとすら思っている。だが、時代はこのように進んだ。そして進んでしまった技術はその必然の上に未来を作るしかない。たとえその未来がカタストロフを必然的に含んでいてもだ。余談だが、googleってみたがテレマティークは死語のようだ。ITU-TのTシリーズのTだよ!

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2003.10.19

アゼルバイジャン大統領選挙は問題にもならない

 朝日新聞と産経新聞が同じテーマを扱うことがあっても、同じ論調になることは少ない。だが、アゼルバイジャン大統領選挙については産経と朝日の社説を入れ替えても大丈夫といった趣だった。このこと自体が問題だと思うので書いてみたい。
 朝日の社説は文章が下手くそなので、ことの次第は産経をまず引用しよう。


 アゼルバイジャン共和国の大統領選挙で旧ソ連共産党政治局員だった現アリエフ大統領(八〇)の長男、イルハム首相(四一)が約80%もの得票率で当選した。旧ソ連圏では初めての権力世襲だ。首都バクーでは世襲体制と「選挙操作」に反発する野党支持勢力の数千人が投石などで警官隊と激しく衝突、死者を出す流血騒ぎとなった。
 選挙監視に当たった欧州安保協力機構(OSCE)も「選挙は国際基準に合致していなかった」との非難声明を出した。

 産経のこの先の言い分はこうだろう。今回の大統領選は民主化に逆行する。この状態では、日本がアゼルバイジャンの石油開発に資本を投入しても無駄になる。
 朝日の言い分は、民主化を進めよということだろう。が、毎度のことながら、よくわからない。朝日新聞は大学受験によく利用されると誇ったようなことを言っているが、逆じゃないか。大学受験にしか利用できない文章なのだ。くさしはさておき、結語として、アゼルバイジャンを含めこの地域について、こう言う。

いずれもイスラムの国だ。貧富の差が縮まらず、不満を強権で抑えつけたままでは、原理主義の脅威にもさらされるかもしれない。時間はかかっても統治の民主化を進める。アゼルバイジャンにはむしろ、その先例になってもらいたい。

 馬鹿げたことを言うようだが、さて何が問題なのか? 選挙監視にあたった欧州安保協力機構のコメントである「公正さは国際基準に達していない」を朝日も引用しているのだが、さて、欧州安保協力機構はこの選挙は無効だと言っているか?
 右寄りと思われている世界日報だが、その記事「EUがアゼルバイジャン大統領選挙の結果を承認」(参照)では次のようにある。報道事実としては正しいのではないか。

【モスクワ18日大川佳宏】ブリュッセルからの報道によると、欧州連合(EU)は十八日、現職ヘイダル・アリエフ大統領の長男であるイルハム・アリエフ大統領が当選した十五日のアゼルバイジャン大統領選挙について、「いくつかの欠点がある」と指摘しながらも、「前回の選挙と比べて進歩があり、選挙を国際基準に合致させるための努力が行われた」と評価、選挙結果を承認する意向を明かにした。

 つまり、EUは今回の大統領選を承認しているとのことだ。だとすると、くどいようだが、なにが問題なのか。関連して朝日は次のように問題の背景についてコメントしている。

 これらの国々はイラクやイラン、アフガニスタンに近い。だから米国もロシアも、内政面の安定を重視し、強権的な支配には目をつむってきた経緯がある。とくに9・11事件後、アゼルバイジャンや中央アジア諸国が反テロ戦争に協力したことがその傾向を一層強め、世襲にも有利な条件をつくった。
 ロシアのほか、石油開発に巨額の投資をしてきた欧州や日本も、アゼルバイジャンでの世襲を容認している。

 米国の動向が今ひとつわからないが、それでも現実的には日ロ米欧州が今回の世襲を承認している。アゼルバイジャンは1000万人を満たない小国家だし、歴史的な背景もあるのだから、「今回の大統領選挙は民主的とは言えない」といった単純に内政干渉的な意見を社説で述べても意味がないのではないか。
 ようは世襲制の問題ではないのだ。世襲制ならジョークのような北朝鮮もある。朝日も産経も、問題は石油というところに関心を持たせたいというのが本音だろう。であれば、純粋にそう論じればいい。だが、おそらくそうした石油への色目は、石油を戦略物資のように見る誤解の上に成り立っているのではないか。
 世界は安定供給される石油を必要としているし、それをアラブ世界にのみ依存することは好ましくない。ロシアの息の及ぶ石油が近未来的に有望視されるなら、それも悪いことではない。石油が流動性の高い商品であるかぎり、ロシアやアメリカといった国家は問題ではない。むしろアゼルバイジャンの石油について潜在的な問題は、パイプラインの出口のトルコなのではないか。
 アゼルバイジャンの石油問題について、船橋洋一の「中央アジア国際石油政治、台風の目はアゼルバイジャン」(参照)が参考になる。米ロの緊張が解消した現在、解説の大半は古くさいが、トルコやイランとの関係など基礎知識を得るには好都合だ。特に、イランとの関係の指摘には注目したい。

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2003.10.18

ヴァイコディン(Vicodin)は日本で話題になるだろうか

 今朝の新聞各紙の社説は日経を除いて藤井治芳聴聞を扱っていた。変な感じがした。なぜそれが今日の話題なのか。聴聞が行われたからだというのもわからないではないが、別段今朝書くべき内容でもない。こんな話は14日の時点で書くべきなのが、なぜこの間、各紙日和見と決めていたのだろう。その裏のほうがきな臭く感じられる。他、イラク問題についてもさして見るべき話もない。なにより、2004年分無償資金協力として15億ドルの根拠が疑問視されていない。日経ですら追及していないに等しい。馬鹿か、おまえら、という感じだ。

 今朝の話題は、多少ためらうのだが、ヴァイコディン(Vicodin)という処方薬についてだ。時事としたのは、ニューズウィーク英語版10.13のカバーストリー「Rush's World of Pain」が関係している。と、ちょっとまどろっこしい書き方をしたのは、いわゆるライター物風にこの問題を書くと、かえってわかりにくくなるからだ。問題にはヴァイコディンという側面とラッシュ・リンボー(Rush Limbaugh)という側面の2つがある。どちらも日本の風土にはなじまない話題なので、次号の日本版ニューズウィークがどう扱うか見ものだ。そのままベタで行くとすれば、日本版の編集能力が疑われる。独自記事の追加は必須だ。カバーストーリーなのに全部差し替えにするなら、それはそれで日本の知識人を舐めくさった、みごとな見識だと言っていい。
 私のブログの内容はどちらかというとヴァイコディンについてなのだが、まず、ラッシュについて簡単に触れておこう。ラッシュ・リンボーは日本でも多少知られているが、米国の右派の論客だ。日本の場合、左翼が知識人の代表だった影響が長く続き、久米宏などもその気取りで阿呆なことを言い散らしたのだが、ラッシュはあれをぐっと右寄りにしたものだ。見るからに保守という感じのでぶっりとした禿げなのだが、米国での人気は高い。フェミニズムを中絶を推進する点からファシズムだとして切り捨てるあたりが米国人には痛快だ。日本でもFEN(現在はAFN:American Forces Network)で彼のトーク番組が聞けたものだが、聞いてわかるようにあのダミ声は意外に米国人好みでもある。
 今回のラッシュの問題はざっと見渡したところ日本のメディアではほとんど扱われていない。CNNの形ばかりの日本語サイトに4日「人種差別発言で辞任のスポーツ解説者に、薬物取引疑惑」というニュースが掲載されたが、これではなにがニュースなのかわからないだろう。
 フロリダ州マイアミ(CNN) 米スポーツ専門有線テレビESPNの番組中、人種差別と見なされる発言をし、1日に同局解説者を辞任したラッシュ・リンボー氏に、闇取引を通じた薬物購入の疑惑が2日浮上した。
 この後にこの概要がフォローされるわけでもないので、日本人のイメージではスポーツ解説者が大麻などの麻薬に手を出したくらいに解釈されるのではないだろうか。と、日本でのウケを想像しながら、日本っていうのはのんきな国だなと思う。これじゃ警察がダメになっていくわけだ。
 締めはこうだ。


 リンボー氏は9月28日、米プロ・アメリカンフットボール(NFL)のフィラデルフィア・イーグルス対バッファロー・ヒルズの試合を報じた「Sunday NFL Countdown」の中で、イーグルスのQBドノバン・マクナブ選手は、黒人選手の成功を報じたいとするメディアが取り上げているなどとコメント。人種差別的な発言として物議を醸した。

 なるほど人種差別が問題なのかとしか読めない。が、そうではないのだ。右寄りのラッシュをメディアから引きずり降ろす言い訳に過ぎない。私の推測に過ぎないが、おそらく早々に薬物疑惑は押さえれられていたはずだ。こちらの疑惑をラッシュに認めさせてから、表向きの説明として人種差別的な発言などが出てきたということだろう。
 話を絞ろう。この「闇取引を通じた薬物購入の疑惑が2日浮上した。」という薬物だが、これがヴァイコディンだ(10.9追記注:正確にはリンボーが服用していたのはhydrocodone、Lorcet、OxyContinとのこと)。CNNの印象からは恐ろしい薬物のように思われるかもしれないが、米国では普通に処方される鎮痛咳止め剤の一つに過ぎない。ヴァイコディンという名称は発売元Knollの商品名で内容は、hydrocodone bitartrate 5mgとAcetaminophen 500mg。分量だけ見れば、なんのことはないアセトアミノフェンが主成分のように見えるが問題は、重酒石酸塩化合物となったhydrocodone bitartrateのhydrocodoneほうで、これはモルヒネと同等機能を持つ薬物だ(効果はその2/3)。という書き方は杜撰なのできちんと書くべきかもしれないが(参照)、いずれにせよ日本国内では昔から法的に麻薬扱いになっている。ずばり麻薬と言って法的に正しい(対象は、ジヒドロコデイノン[別名ヒドロコドン]、そのエステル及びこれらの塩類)。
 ラッシュはこの麻薬含有の鎮痛剤を常用していたわけだ。それだけ身体に痛みを抱えていたかというと、おそらく精神的な苦痛だろう。あの歯切れ良い右派発言の裏にそれだけ苦痛を抱えていたのかというのが、一般米国人の印象だろう。(追記11.21。ラッシュの利用開始時は脊髄を痛めた際の鎮痛剤を処方されてから。その後、自分でも薬物中毒はわかっていて、アリゾナ州の施設で中毒治療を受けていたとのこと。でも、その後の乱用は精神的な苦痛とみていいのではないか。)
 ヴァイコディンはすでにジェネリック(Hydrocodone: 4,5a-epoxy-3-methoxy-17-methylmorphinan-6-one tartrate(1:1)hydrate(2:5),dihydrocodeinone)の扱いになっているので、処方薬とはいえ、米国ではあちこちに普及している一般薬だ。ということで別に「闇取引」などしなくてもインターネットで簡単に購入できる。最近私のところにやってくるスパムでも「ヴァイコディン買いませんか」が、どっとやってくるようなった。
 ヴァイコディンについて国内のホームページの状況をざっとgoogleってみたが、たいした情報はない。一見しただけでは国内持ち込みと推定される形跡はない。だが、率直に言って、あるだろうな。ブロンとか一時期流行っていたようだ(これには咳止めのためにリン酸ジヒドロコデインが含まれていた)。もっとも、ヴァイコディンは日本国内では麻薬扱いなので、AMTや5Meo-DIPTのように処罰しづらいわけでもない。はてなにも「下記に挙げた薬物の中から、ニュージーランド国内ではどれが違法で、どれが問題ない薬物なのか教えてください。5MeO-DIPT、AMT、2C-T-2、2C-T-7、2C-I、2C-C」といったのんきさんが出てくるほどだ。なお、この手の「脱法ドラッグ」について知りたいかたは、「脱法ドラッグ試買検査結果について」(参照)を参照。ちなみに、日本のドラッグ系の人というのは意外なほど英語に弱く仲間内の日本語情報に頼っている。女性高校生の情報伝達とほぼ同じだ。
 ヴァイコディンについては、警察が後手に回ってニュース沙汰にならないことを願いたい。警察もいつまでも民間警察(やくざ)と55年体制やっていいわけじゃない。また、これ見よがしにインターネットは危険だぁとかいって少年を血祭りにするようはことも避けていただきたい。
 と、なぜ私はそう主張するか。理由は国内でモルヒネをきちんと医療の場で使って欲しいからだ(参照)。麻薬=危険というだけの社会であってはいけない。医療が高度化することで、返って苦しみながら非人間的に死んでいく人が増えている。この問題にきちんと対処しなくてはいけない。

追記1
 「在米」さんから厳しいコメントをいただいた。私の推測が大はずれというのは、そういう意見があるという一般論として了解する。推測というのは一般的にはずれるものだ。が、正直なところ、この件についてはずれているとまでは思っていない。ということで、あえて現状のままにしておく。ご批判されている点について私が理解できれば、書き直したい。
 一般論として「もっと勉強すべし」は肝に銘じたい。ただ、無知の諸点を教えていたきたいと思うのが率直なところだ。
 考え直してみると、Lorcetについてであるわけはないので、OxyContinについてのご指摘かもしれない。確かに、この点は不正確だったので、とりあえず本文注を追加した。
 ヴァイコディンについては、歯科の処方やbogus call-inなど補足情報(参照)を参照にしておいたが、お読みになっていたけただろうか。
 鎮痛剤の問題については、過去にも記したので、こちらにも問題があれば、ご指摘いただきたい。「幼い子供のいる家庭に必須のアセトアミノフェン 」「アスピリン喘息の患者はどう扱われているのか」
 いずれにせよ、無知の壁のこちら側には「無知だよ」では伝わらないし、他にここを読まれているかたに、具体性において有益な情報を提供できたことにはならない。私としてはこの件について、「無知を了解できない」という意味では、現状の記述でよいのではないかと考えている無知な状態だ。
 この日のブログは、日本でもしかするとヴァイコディンが問題化される際、自慢ではないのだが、googleで上位にヒットする可能性があるので、できるだけ正確な情報を提起しておきたいと考えていた。ので、より正確な知識があれば、訂正したいし、追記したい。

追記2
 日本語版ニューズウィークの最新号が届いた。表紙が全然違う。ま、それはいいがと思ってめくったが、この問題への言及はゼロ。皆無だ。この日のブログに記したように、日本語版ニューズウィークってのは「日本の知識人を舐めくさった、みごとな見識」という印象だ。今後の掲載を僅かに期待しよう。
 ところで、その後、在米の印象を与えるハンドル名「在米」さんからの再度のコメントはない。私のなにが無知だったのだろうか。

追記3
 ブログのあり方としてフェアではないのでが、「ヴィコディン」の表記を「ヴァイコディン」に修正した。うかつだったのだが、日本ではViagraは「ヴァイアグラ」または「バイアグラ」になるのだった。むしろ、「バイコディン」とすべきなのかもしれないが、とりえず、修正しておく。理由は、今後、この用語で検索される時の便宜を考えてのことだ。
 併せて、「hotsumaのURLメモ」id:hotsuma:20031031にヴァイコディン関連のリンクがよくまとまっていた。ので、この話題をサーチされているかたは、そちらも参照のこと。

[コメント]
# 在米 『リンボー報道に関する推測の部分、大はずれ。ちゃんと現地ニュースを時系列に沿って複数のソース読めばこんな風にならない。たしかにヴィコディンへの調査は以前から入っていたが、Countdownの発言とは別。リンボーのことを前から知ってる、と言いたいのはわかったが。まだバカにしているCNNのほうがマシ。あと、アメリカの鎮痛剤問題と鎮痛剤への一般認識(麻薬ではなく)についても無知がすぎる。もうちょっと勉強すべし。』
# レス> 『厳しいコメントありがとうございます。この件、追記します。』

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2003.10.17

イラク戦争は正しかったのかという問いの意味

 今朝になって社説で中国有人衛星の話を読むのもなんか間抜けな気持ちがするが、日経新聞がずばり軍事目的でしょとしていたのは痛快だった。産経がそう言うとボケと突っ込みのような感じがするのだが…。他、話題として、朝日新聞と読売新聞が、久米宏「ニュースステーション」(テレビ朝日)による所沢ダイオキシン嘘報道の最高裁の判断を扱っていた。朝日新聞がそれほどテレビ朝日を擁護しているわけでもなく、読売新聞がバッシングをしているわけでもなかった。今回の最高裁の判断はなかなか含蓄があるのに、テレビとコングロマリット化した新聞というシステムでは、つまらないを絵にしかならないのだ。

 今朝の話題は、イラク戦争は正しかったのかという問いの意味だ。なんだか重たい話題だが、個人的には避けるわけにはいかないと思っている。今頃、書く気になったのは日本語版ニューズウィーク10.22号で編集長のザカリアが書いた「視点 イラクへの攻撃が正しかった理由」を読んだからだ。
 このブログは八月の半ばから始めているが、イラク開戦時、知人のグループに私は今回の戦争を支持すると明言したことがある。あの時点でブログを書いていたなら、同じように、戦争支持を明記しただろう。支持の理由は、大量破壊兵器の存在を信じていたというのもあるが、世界秩序を変えなくてはならない、というものだった。イラクの裏で動いているフランスやロシアといった汚ねーやつらを潰しておかないと世界はろくでもないことになる、と私は考えた。ろくでもないというのは、フセインがイスラエルを刺激してどんちゃん騒ぎを起こす危険性が念頭にあった。その意味で、私はネオコン的ではないが、米国のユダヤロビーに近い考えを持っていたと思う。そして、戦後しばらくの間は私が正しかったと感じていたが、ここに至って、私の考えには大きな間違いがあると認めざるを得なくなった。
 なにが間違っていたか、大量破壊兵器の存在をすんなり信じてしまったことは当然だ。だが、それをもっと入念に疑えば良かったかというとそういう反省はしていない。私に与えられた情報から導いた結論としては、そうなるしかなかったと思う。「大量破壊兵器などない、米国は嘘っぱち」だという意見も当時あったが、それはイデオロギーから導出されたものでしかないと私は思った。こうした意見はインリン姉さんが言うような石油利権の馬鹿話であり、低脳しか意味しない。イラク戦争は単純なレベルでの石油利権ではない。
 私が間違っていたのは、フランスを潰せるはずだと思ったことだ。冗談で言えばEUを土台にボナパルト再生なんてろくでもないものが出現するまえに、徹底的に潰しておくべきだ、と。で、結果はというとダメだったね。シラクもプーチンもただものじゃない。ついでに言えば、嘘つきブレアにも私はジョンブルっていうのは怖いものだと敬意を持っている。イギリス人にしてみれば、国策を誤ったという評価もあるだろうが、土壇場になればいつだってチャーチルを輩出する底力があの国にはあるのだ。
 結局のところ、私の念頭にあった、この戦争で世界システムを変えるべきだ、という思いは実現しなかったし、今にしてみれば、できるわけでもなかった。
 ザカリアも手短かながら、うだうだ言っている。突き詰めればこういうことだ。


 イラクの脅威は、現時点ではそれほどでもない。だがフセインはとくに核兵器を手にした場合に重大な脅威になりうる。制裁措置が骨抜きなっていることを考えると、世界はいつか核武装したフセインと対峙せざるをえなくなる。それならフセインが弱い、今のうちにやってしまおう - 。
 イラク攻撃を批判する人々は、「このまま現状を維持する」という選択肢はイラクにはなかったことを認識すべきだ。(後略)

 これは端的に間違いだ。「選択肢はなかったのだ」ということは言論人にとってもっとも恥ずかしい言葉だ。それを言ったとたん、言葉はなくなる。言葉がなければ、我々には自由がない。我々が言葉を発せられることが自由なのだ。
 ザカリアのその先の説明に説得力がないわけではない。曰く、

イラクの近隣諸国やフランス、ロシアは、経済制裁の抜け道をせっせと提供していた。それでも、制裁には深刻な副作用があった。

 として、制裁によるイラクの幼児の死亡を挙げている。米国人であるおめえさんが言うことかねとも思うが、ましてそれを言う資格が私のような日本人にはない。それに問題は制裁の副作用ではなく、フランスやロシアが世界マーケットを破壊していたことだ。世界マーケットが維持されれば、石油は戦略物資にはならない。ABCD包囲網はできない。日本の最大の防衛は世界マーケットなのだ。
 ザカリアが間違っているもう一つの大きな点は、この論理では北朝鮮も潰すしかないということになることだ。次の段落でイラクを北朝鮮に、フセインを金正日に読み替えてみれば、その怖さがわかる。

 対イラク政策は破綻していた。こうなったら制裁を解除して、フセインを国際社会の一員に再び迎え入れるか、それとも邪悪な独裁政権を排除するか。われわれには、二者択一しかなかったのだ。

 これを読み替えたとき、恐怖の重点は実は韓国にあることがわかる。韓国は偽装された民族主義から国の置かれた位置がまるでわかっていないのだ。絶望的にわかっていない。そして、その連鎖が日本に及ぶことを日本人もわかっていない。しかし、それはまた別の問題としよう。
 ザカリアはいつかイラクが民主化すると希望で締めくくる。私は、率直なところ、現在のアラブイスラム社会が民主化する日はこないだろうと思う。そう書きながら、自分の人生の終わりまでの世界状況のタイムスケジュールが大まかに見えるようだ。そして、私はこの絶望的な世界を残して死んでいくのだなと思う。書きながら滑稽で笑う。
 ザカリアを批判することなど簡単だ。そして、自分が間違っていたことを認めることもそれほど難しくはない。あの時点で何ができたことがなにかは今もわからない。何ができただろうかと悔やむことは、しかし無意味ではないようにも思う。
 小林秀雄は歴史とは死んだ子供の歳を数えるようなものだと言っていた。そうだろう。悲劇は悲劇でしかない。悲劇を喜劇に塗り替えることはできない。できることは少し賢くなることだけだし、そのことは、飛躍した言い方だが、恐らく、自分のありかたをもっと孤独にしてしまうだろう。壊れていく世界を見つめながら、どうしようもなく一人で立ち竦んでいなくてはいけない。若い頃には思いもよらなかった孤独というものが人生の後半にそびえていることに、冗談のようだが、戦慄を覚える。

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2003.10.16

日清上湯麺は「エルダー世代」に美味しいのか

 昨日は中国有人宇宙船のニュースをよく見た。この件についてはすでに書いたし、書き足すほどのことはあまりないが、今朝の朝日新聞社社説「まぶしさと気がかり」は多少意外だった。諸手を挙げて中国賛美するのかと思ったらそうでもなかった。とはいえ、中国の宇宙開発は軍事と一体だ。昨年春、有人飛行計画について当時の江沢民主席は「科学技術の進歩と国防の現代化に重要な意義がある」と述べている。今回の打ち上げに関する情報も直前まで機密扱いだった。宇宙開発が米国との軍拡競争や周辺への脅威につながるなら、日本国民も国際社会も歓迎はできない。 意外にまともだね。結語もまともな印象だった。


 中国の成功は日本にはまぶしい。日本の経済援助を受ける途上国の躍進に複雑な感情を抱く人もあろう。だが、ここは中国が宇宙の国際協調の流れに加わるよう力を注ぐことが、日本の役割である。

 別にあんなカプセル型「まぶしい」ってことはないが、朝日新聞の社説っていうのは科学に無知とはいえ、感覚はまともなときはまともだと思う。

 今日の話題は日清上湯麺についてだ。以下、実にくだらない話だ。
 ことの発端は「もしもしQさんQさんよ・邱永漢」の「第1314回インスタント食品も高級化の時代に」だ。美食について語らせたら、美食家が黙り込むだろう邱永漢がこう言っていた。以下、引用の都合で改行は削除する。


 それでも盆暮れになると、日清食品の新製品を届けていただいて今日に至っています。私は口が奢っていて、あまりインスタント食品に馴染まない方なので、たまにしかいただきませんが、ちょうだい物のおかげでどんな新製品が発売されているか大体わかります。
 つい最近も日清上湯麺というオトナの食べる一番ダシの上湯スープで味をつけた新製品を2種類送っていただきました。ちょうど毎日ご馳走攻めで、血糖値も高くなっていた時だったので、食卓一杯の料理を一切拒否して、この麺だけを出してもらいました。一口、口をつけただけで「これは行ける」と俄かに食べる気を起し、とうとうスープの最後の一滴まで飲みほしてしまいました。私がインスタント・ラーメンのスープをきれいに平らげたのはこれがはじめてです。

 へぇ~72点くらいだったのが、おりしも電車の吊り広告に宇崎竜童の広告を見かけた。さては巷間にもと思い、セブンイレブンに立ち寄ると、ある。買って、まず、食ってみた。
 そんなにうまくはない。予想はしていたが、薄味の私にはしょっぱくて食えたシロモノではない。湯を足して、塩気が我慢できる程度にする。麺はノンフライ麺を改良したものか、悪くはないがインスタントの枠を越えるほどでもない。なーんだたいしたことないな、さて捨てるか、と思ったが、それでも麺とスープの絡みはよく計算されているなと思ううちに、つい、これはこれでいけるかと考えが変わり、結局、食った。負けだ。スープはさすがに飲めないが、食い終われば、なるほどなと思った。私はMSGに極力弱いタイプなのだが、舌は麻痺していない。単体のグルソは入ってないのかもしれない(いいえ、入ってます)。
 「上湯麺」とはふざけた名前だ。上湯の味がするわけでもないと思い、ふと記憶が蘇る。昔、それなりの腕のある中国人コックにふざけてラーメンはないのかと訊いたら、けげんな顔をして上湯に麺を入れてくれたことを思い出す。あれはそれなりにうまかったが、そんなもの注文するもんじゃないなとも思った。
 邱先生の顰みに習うわけではないが、私もかれこれ10年近くインスタントラーメンを食っていなかった。店のラーメンも食ってない。カップラーメンはいわんやおやである。が、ふと昨年あたりからたまにインスタントラーメンを食う。老人や子供がインスタントラーメンを食うのに居合わせたことがきっかけだ。驚いた。あれほどコンビニで各種インスタントラーメンが開発販売されているのに、サッポロ一番だのチャルメラだの、10年前から変わっていない(若干味は違うが)。へたすりゃ30年くらい変わっていない。どういうことなのか考え込んだが、ようは基本的にあれは老人食なのではないかと思う。くず野菜を入れてふにゃふにゃ食うのだろう。あるいは、チョコレートなどもへたすりゃ30年近く変わっていないので老人食とばかりも言えないかもしれない。どうでもいいが、日本と米国のチョコレートは最低だな。もっとも米国のハーシーは慈善NPOだと考えるべきか(参照)。
 他方、ころころ変わる珍奇な新種カップラーメンもいくつか食ってみた。私が得心したのは、日清など、やる気なればどんな味でもできる体制ができているに違いないということだ。変な言い方だが味がコンストラクティブなのだ。またもくさすがセンター試験世代的なチャート式の発想で味が出来ている。とはいえ、この味のセンサーはセンター試験世代にはないので、味の研究員にはけっこう年配というか達人もいるのだろう。いずにせよ、カップラーメン開発者たちは、ある種の万能感で市場調査と流行を調査しているのだろう、と思った。そう思って、くだらねーなとも思う。この「上湯麺」にしても、まずは、マーケットの計算から出来たのだろう。メディアと市場の戦略の産物なのだ。安藤百福の直感ではあるまい。
 さて「上湯麺」の味だが、予想通り構成的だった。ネギ味のほうは露骨といってほどベースの味がカップヌードルになっている。辟易としてのは白こしょうの味が際だって貧乏くさいことだ。おそ松くんに出てくる小池さんを思い出す。醤油味のほうは、醤油の扱いは悪くないが、紙くさいような臭いに呆れた。
 とうだうだと書いたものの、いずれ私はこのマーケットの住人ではない。私の感想など屁の役にも立たない。そんなわけで、ネットで日清上湯麺の情報を見ると、当然ある。味よりも情報の時代だ。舌で食っているのでなく、妖怪油舐めのように頭で食っている時代だ。
 「エルダー世代に向けた上質な大人のカップめん」という広報はやや意外だった。

■ 開発の意図
平成14年度のインスタントラーメンの総需要は53億食で、ここ数年は微増状態にあります。またカップめんの主なヘビーユーザーは、男子中学生、高校生、大学、独身社会人で、結婚を機に喫食の頻度が低下するという傾向にあります。そこで今回、即席麺の総需要の拡大を図るため一度カップめん離れしたユーザーを再取り込むことを狙い、エルダー世代と呼ばれる45~50才代に向けた大人のカップめんを開発しました。カップめん市場は、現在、こってり系スープが主流にありますが、エルダー世代はこってり系からあっさり系に嗜好が変化しており、これがカップめん離れの原因のひとつとなっています。弊社では、この嗜好の変化に対応したカップめんを開発し市場に投入することにより、インスタントラーメンの総需要の活性化を図ります。

 「エルダー世代」かよ上等だぜと思うが、エルダー世代は「あっさり系に嗜好が変化」だとよ。この文章自体、日本語じゃなねーよな。くさしはさておき、日清上湯麺があっさり系って、なんのことだよ思い、身近な者の意見を聞くと、あれであっさりしているのだとのご託宣。そういえば、この1年間、インスタントラーメンやカップ麺を食ったといえ、付け足し油は入れないし、粉も半分にしていたから、本来の味ではなかったのか。
 いずれにせよ、これが「エルダー世代」向けの味か。海原雄山を巨大化させて、説教でもたれてもらいたものだが、考えてみると、今の45~50才代も味覚がないのだ。工業化された食品か流通によって篩を通した物にしか食っていない。その上の世代は貧しくて味覚がない。そう言えば怒る人もいるだろうが、では訊いてみるがいい、ではなにがうまかったのか、と。滔々と応えがあるだろう、貧しい物か、はたまた、その貧しさを補う情報といううんちく。

追記

 顧みてテメーはなぜラーメンを食わなくなったか。サッポロ一番で育てられた口じゃないか、ヤングオーオーを見てカップラーメンを食った口じゃないか。でも、遠い日の味の思いが、長ずるに及んで、こんなの違うなと思わせた。この駄文を書きながら、斎藤由香ではないが昭和30年代の軽井沢を思い出す。赤坂飯店には確か麺ものはなかったような気がする。栄林で食った中華麺は、こんなものがあるのかと子供心に思った。たいした麺でもなかったのかもしれないのだが、と、栄林が今でもあるのかネットで調べると、ある。でも、過去に戻ってあの麺を食うことはできない。ちなみに、軽井沢にはもう馬糞も落ちてないのだ。

 エルダー世代ってなんだと思ったら、これは博報堂のエルダービジネス(参照)というラッパらしい。まいったね。百福さん、センター試験以降の世代のマーケティングなんか信じちゃだめだよ。

[コメント]
# tokyocat 『このような当たり障りのないネタだけに反応するのもなんですが、シンガポール土産のカップ麺を食べたとき、同じ日清製なのにスープの袋がやけに破りにくく粉末やオイルが飛び散りそうになりました。そこへいくと、日本のカップ麺はそうした心配りのハイテクがあきれるほど行き届いているように思います。中国旅行で食べるカップ麺は予想どおりことごとく無造作なものでした。宇宙船の出来もちょっと心配。』
# レス> 『まったく同感です。この行き届き状態が問題だとも言えないあたりが、けっこう変な感じです。いずれ日本のインスタント中華が中国でも売れるのだろうと思うと、笑っていいのやら…。』

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2003.10.15

「そんなことをしたら、死人が出る」日本

 社説は吉例新聞週間ネタと拉致被害者帰国1年の話が多い。拉致問題については朝日新聞の社説が期待どおりだった。オメーらも共犯のようなものだぜと思う。そんななか日経新聞社説「聞き捨てならない公団疑惑」が面白かった。
 ことは、石原伸晃国土交通相が5日の藤井治芳日本道路公団総裁と更迭会談で、道路族議員の癒着や国有地払い下げに関わる政治家の不正を藤井がほのめかしたらしい。それを日経は聞き捨てならぬというのである。
 族議員の癒着や国有地払い下げの不正なんか当たり前じゃないかとふと思ったが、そう思う自分がなにかに麻痺している気がした。これは日経が言うようにきちんと膿を出さなくてはいけない問題だ。
 話の出所は石原伸晃のテレビ出演のようだ。


 石原国交相によると、藤井総裁は「道路関係議員は自分が面倒を見ている」と述べ、誰か分かる政治家のイニシャルを挙げ建設省勤務時代に「国有地払い下げを巡る疑惑があったことを知っている」と指摘した。不正を公にするよう求めた同相に対し、藤井総裁は「そんなことをしたら、死人が出る」とまで言い切った、という。

 「そんなことをしたら、死人が出る」はいい表現だ。実際この手の問題でこれまでどれだけ死人を出したことだろう。たくさん死んだなと思う。近いところではりそなに税金をつぎ込むときにも裏で人が死んだ。でも、率直のところ、あの事件、この事件ときちんと列挙できるわけではない。こういうことがあると人が死ぬだくらいな感じだ。なにかが麻痺しているとも思う。
 詰め腹日本といえばそうだし、そういう日本社会を大上段に批判することもできるだろう。とにかく自民党の政権をリセットしないかぎり、これが続く。だが、話がおちゃらけるが、そうしたシステムの死のなかで、実際に死んでいくのは一人一人の人間だ。名前を持ち、青春を持ち、人生の経験を積みあげた人間だったのだが、それがシステムに圧殺される。もっと率直に言えば、圧殺される以前にシステムにきれいに組み込まれていて、可能的には圧死が最初から設定されている。
 システムは成功者でもあると思う。そこから落ちた人間は失敗者だ。死はその中間にあって失敗者の側にはない。もっとも、失敗者はじわじわと殺されていくのもシステムの機能かもしれない。
 話を人生論的なオチにしたいわけではない。伝聞ではあるが、藤井治芳がさらっと「そんなことをしたら、死人が出る」と言い得るのは、結局はこいつらが殺傷権を持っているからだ。
 社会理論的に考えるなら、そうした状況で人を守るのが国家だ。国家は社会から人を守るために存在している。社会の上に国家がそびえているのではない。国家とはルソーのいう一般意志の発現でなくてはならない。我々は自分自身を守るための権力装置としての国家を獲得しなくてはいけないし、そうする地道な一歩として、藤井治芳の発言を聞き捨ててはいけない。

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2003.10.14

スパイウェアは脅威か

 新聞休刊日である。社説ネタ以外で気になることもいくつかあるが、なにげなく読んだ「IT Pro 米国最新IT事情:あなたも見張られているかもしれない ― スパイウエアの脅威」が気になった。もっとも気になったのは標題にあるようなスパイウエアの脅威ではない。記事はざっとスパイウェアの概略と最近の話題などをちりばめて書いたお作文といった趣向に過ぎないのだが、後半、次のくだりで異次元に突入するのだ。スパイウェアについてこう話が進む。
 これらが一体どんな悪戯(わるさ)をしているのかは,大抵のユーザーにはよく分からない。それが分かる位の人なら,そもそも最初から,こんな物に取り付かれたりはしない。下手をすると銀行口座のパスワードを盗まれてもおかしくはない。またスパイウエアはOS(基本ソフト)の奥深く付着し,その設定を変更してしまう恐れもある。パソコンの動作が妙に遅くなったな,と思い当たる節があれば,それは悪質なスパイウエアのせいかもしれない。
 なんとも嫌ったらしいクリシェで固めた文章だが、この後半技術的なコメントが奇っ怪。「OSの奥深く付着し」ってなんだ? デスクはこの文章でOK出したのか? その先話はこう続く。
 かく言う私もその一人だ。これまで私は,かなり無頓着にフリー・ソフトをダウンロードしてきた。最近,やたらとパソコンの動きが鈍いのは,そのせいではないかと思う。そこで一つ,対策を打った。アンチ・スパイウエア・ソフトをインストールしてみたのだ。ハード・ディスクに潜んでいるスパイウエアを探し出して,消去してくれるソフトである(やはり何種類もあるが,私が使ったのはinterMute社のSpySubtractである)。
 パソコンの動きが鈍いからといってスパイウェアってフツー考えるかぁ? ま、そういうわけで、体験談に話が切り替わるのだが、これがスゴイ。
 これを私のパソコンで走らせてみると,出るわ出るわ,何と100個以上のスパイウエアが検出された。今までよく無事でいたものだと,我ながらあきれるやら,ほっとするやら。何はともあれ,さっそく全部消去した。
 重要な情報を扱う機会の多い読者の皆さんも,気づかないうちに誰かに見張られているかもしれない。思わぬ被害に遭わぬように,スパイウエアには十分ご注意いただきたい。
 私は絶句したね。この記者大丈夫か? 別にスパイウェアのことを心配したのではない。技術の基礎がまるでわかってない記者についてだ。と、記者の略歴を見ると…、あれれ、小林雅一さんって日経BPの記者さんではないね。「隠すマスコミ、騙されるマスコミ」の著者さんか。じゃ、しゃーないか。経歴は技術系だけど、それはインターネット以前の時代。IT関連の書物もあるけど、それほど技術で裏打ちするタイプのライターさんではない。「隠すマスコミ、騙されるマスコミ」は私も読んだけど、当たり前な話が多く、新書にありがちなちと退屈もの。9.11以降のジャーナリズムに言及しているわりにブログの話はねーし、日本にいる外人記者さんたちの差別意識やご乱行や低脳を暴くわけでもない。とま、くさすわけではないけど、どっちかというと一般向けのライターさんというかジャーナリストさんなら、スパイウェアがわかってなくてもしかたないか。でも、デスクはしっかりせーよとは思うけどね。
 話をちと戻すと、だいたい一つのマシンから100個もスパイウェアが出てくるわけねーよ。出てきたのはトレーサブルなクッキーだよ。これも嫌ったらしいシロモノだが、「あなたも見張られているかもしれない」っていうほど大仰なものじゃない。固定IPだとほっておけばダブルクリックとかにかなりデータが溜まるが、こいつら日本法人があってもそれほどマーケットに活かしているっていうものでもない。午前10時にエッチな閲覧者が多いってな情報が集まるくらいなものだ。
 もう一つ気になったことがある。なんでSpySubtractを使っているのか、だ。フツーはAdawareかSpybotあたりを使うんじゃないか。なぜかなと思って、SpySubtractのトライアルを落として自分のXPマシンをチェックしてみると、ぎょっ、オンメモリになんかいるという警告が出る。腰が抜けましたね。まったく人のこたー言えねーよです。で、見るとなんのことはないWildTangentでした。厳密にはなんのことはないとも言えないが、アンインストール忘れですね。3Dポリゴンの虎パンツ金髪おねえさんがダンスするのを見た罰ってやつです。
 他はSpySubtractのメリットはよくわからん。こいつご親切に常駐しやがるので、即アンイスント。ついでに最新版のAdawareとSpybotでざっと舐めてみたが、どってことはない。
 なんだか小林雅一さんをおちょくったような話になってしまったが、ネットランナー以外のパソコン系のライターもFlashGetのお薦めとか書くし、DivXのレジストをちゃんとお薦めするのなんて見たことねーし、なんだかなである。
 スパイウェアはなんとなくだが、日本ではあまり問題にならないだろうと思う。インターネット分野のマーケッティングの力が日本はげろげろに弱過ぎる。だいてい、サーチエンジンがgoogle一色になっちまったのに、これを悲しみ恥じるエンジニアがいねーのだ。日本国の行く末やいかんと思えども、googleの意義を小林よしのりに説明するわけにもいかないしな。

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2003.10.13

朝日新聞が提唱するアラブ大同団結の薄気味悪さ

 今朝の朝日新聞社説「アラブ世界 ― 危機になぜ動かない」は薄気味悪いシロモノだった。馬鹿だなで済まされるならまだいい、また左翼思想かよでもお笑いの部類だ。だが、この社説はもっとぞっとするものだった。
 社説の韜晦な文章から要点を抜き出せば、結局はこうだ。中東の二つの危機であるイラクとパレスチナ問題を解決するには、アラブ世界の協力が必要だ。それを実現したくても、アラブ世界を構成する諸国は米国に対して利害が調整されていない。ここは一番、米国よりもアラブ世界を重視し、イラク自立のため、「一日も早く新政権を立ち上げさせ、米英軍を撤退させるために」という大義のもとに大同団結せよ。
 またまた反米左翼かよでは済まされないものを感じる。アラブ世界が団結して米国と戦えとけしかけているのだ。アラブ世界の良識ある人なら鼻でせせら笑って終わりかもしれないが、なんでこんな非常識な意見が日本の新聞社説で出てくるのか。ことの発端は、エジプト新聞アルアハラムのエディトリアルをぱくってみたかったというたわいのないことかもしれないが、ナセルのいたエジプトという歴史を抜きに主張だけ日本でも言ってみるという幼稚な態度でいいのだろうか。
 例えば、以下のような朝日新聞社説はどうういう了見なのだろうか。


 注目したいのは、湾岸のアラブ首長国連邦が周辺国に対して、イラクの復興支援にともに取り組もうと呼びかけたことだ。「一日も早く新政権を立ち上げさせ、米英軍を撤退させるために」というのである。
 イラクの混迷が長びけば難民やテロの流出で周辺にも悪影響が及びかねない。そうした懸念もあってのことだろう。
 呼びかけに同調できない国もあるだろう。しかし、米国との距離の違いを超え、イラクの将来についてアラブ独自の構想を練ってみるべき時ではなかろうか。パレスチナ問題も同様である。
 アラブ諸国が域内の紛争解決に力を発揮したこともある。泥沼化したレバノン内戦を89年に終わらせたのは、サウジアラビアをはじめとする国々の調停だった。

 率直のところ、こうした文脈が私にはよく理解できない。アラブ首長国連邦が反米的な主張するというのはわからないではない。その尻馬にのって朝日が反米の旗を振るってみたい気持ちも理解はできる。だが、サウジアラビアつまりサウジ王家を抜きにアラブ世界が構成できるわけでもなことは、「サウジアラビアをはじめとする国々」でわかるとはいうものの、いつのまにか、反米アラブにサウジを含めているのは、文章の詐術ではないのか。
 もう少し突っ込んで言えば、朝日がサウジ王家をどう見ているのかが文章の表面にないことが韜晦の原因になっている。朝日新聞はアラブ大同団結とか言う裏で実際は親米サウジ王家打倒を呼びかけたいのだろうか。そう推測してなんだか脱力する。そんなことをすれば混乱がひどくなるだけだ。
 確かにアラブ世界の不安要因を作り出したのはサウジ王家だ。イスラム原理主義と一括にするのは今後重要になるトルコの情勢を根本的に誤解する危険性があるので、アラブ世界におけるイスラム原理主義と限定したほうがいいが、これを育て上げたのは、サウジ王家だ。救いようがないほど富を蓄積し内政を破綻させた王家は、その口すすぎにワハブ派神学校を多数建設してきた。ここからビンラディンなどが出てくる。日本人は変だとは思わないだろうか、アフガニスタンのアルカイダの構成員が実際にはサウジやエジプト出身者であることを。
 サウジ王家を潰せというのは幻想にすぎない。実際に潰せるのは米国だけだからだ。だが、王家がなくなれば、ワハブ派もパトロンを失って衰退する。反米の急進性に実際的な力もなくなるだろう。
 朝日新聞社説のようにアラブ世界を反米に大同団結させることよりも、アラブ世界が持っている根元的な問題、つまり、民主化と近代化をバランスよく推進することが、結果としてこの地域を安定させるはずだ。
 それに米国の施策が向いているかといわれれば、米国もまた矛盾しているのだが、それでも反米で団結しても、アラブ世界の問題は覆われていくだけだ。

追記
 14日の共同通信によると、国営サウジ通信ソースとして、サウジアラビアの内閣である閣僚評議会は今後1年以内に地方の自治評議会の選挙を実施するとのこと。定数の半数が選出されることになる。

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2003.10.12

珠海買春者を中国で処罰させればいい

 日経新聞社説「りそなの巨額赤字をどう考えるか」が多少気になった。この社説自体はどうという話でもない。私はりそな問題について2点気になっている。1つは公的資金注入の決定が国家的な詐欺だったのではないかということ。つまり、その時点で破綻が明らかになっていたのではないか。もう1点はりそな問題はすべてスケジュールどおりだったのではないかということ。最初から潰す予定の銀行をりそなに固めて潰したのではないか。ただ、全体として見れば、この政策は巧妙かつ効果的だったとも思う。この問題は気になるが、今日はもっと卑近な話題を扱う。

 中国広東省で日本人団体客(社員旅行)が集団で買春行為をしたとされる問題についてだ。やや旧聞に属する。というのも私はこの問題にまったくといってほど関心がなかった。珠海の売春は事実上公認されているのに問題化したのはまたぞろ日本狙いの中国の思惑以外ありえないからだ。現在でも、基本的にはその線で考えているのだが、気になったのは、事実関係だ。その日本人客による売春はてっきり事実だろうと思っていたのだが、ふと気になって詳細のニュースを後読みするに、どういう事実だったのかはっきりしない。なぜなのだろう。
 国際的な問題となるのは先月28日外交部の孔泉スポークスマンによるアナウンスメントのようだ。朝日系のソースによれば、「これは極めて悪質な違法案件だ。中国側の関連部門が現在調査中であり、法に基づいて厳しく処分されることになる」と説明したとのこと。この時点での事実関係は、16日に広東省珠海市の日本人団体客が集団買春したというだけのようだ。
 その後、今月7日になって福田官房長官は、5日の時点で、広東省政府から「そういう行為が事実としてあった」との報告を受けた旨、言明している。福田によれば、買春の規模ついての話はなかったらしく、曰く「仮にこういうことがあったとすれば、極めて遺憾だ。関係する日本企業に、外務省が事実関係を聞く」とした。
 中国側でも処分が検討され、日本側でも外務省が動くことになっているのだが、さて、その後の動きがよくわからない。9日毎日新聞「集団買春疑惑:企業への聞き取り調査公表 外務省」によれば、8日に外務省がこの社員旅行の会社に問いだたし、日本側は組織的な買春ではないとした。


社長は、9月16日に広東省珠海市のホテルでパーティーを開いた際、中国人女性コンパニオン約200人が同席したことを認めた。しかしパーティー後、男性社員が宿舎である別のホテルにバスで移動した際には、女性は同乗しなかったと説明。その後の社員の行動については「個々の社員の自由であり会社として把握していないが、調査している」と説明したという。

 そして、外務省としては、社長に「組織的に行われたことではなくても、海外で女性の尊厳を傷つける行為があったとすれば遺憾であり、会社として個人の行動についても配慮すべきだった」と返答したらしい。
 なんじゃそれ? というのが今回この話を書こうと思った動機なのだが、常識的に考えれば、コンパニオンがやってきた時点で買春のアポは取れている。組織的でないわけはない。だが、それだけのコンパニオンの動きを広東側が把握できないわけでもない、どころか最初からこれは一種罠というか政治カードに使えるかどうかストックされていたのではないか。陰謀論的に考えれば、これは中国人による福岡市民の虐殺とのバーターが思い浮かぶ。
 ネットでもう少し調べると「人民網日本語版」(2003年10月10日)に次のようにある。

――中国政府は、日本に当事者の引渡しを求めるのか。

この問題は中国民衆の強い憤りを引き起こした。中国メディアの報道やインターネット上での民衆の反応を見れば、中国民衆の強い反感や憤りが理解できるはずだ。日本政府が国民に対し、海外で現地の法令を守るよう教育を強化することは、日本のイメージアップにも役立つだろう。中国当局が関連部門の処分を実施した。(編集TS)


 率直な印象をいえば、むかつくなぁ、である。当初から中国民衆とやらの怒り誘導が見え見えではないか。そして、中国内の関連部門を処分とは笑わせる。ずばり日本に当事者の引渡しを求めるべきではないか。日本側も、個人的であれ買春したやつら全員お縄にして中国に渡せばいいではないか。犯罪なんだから。でも、結局、そうしないのだ。それが、むかつくなぁである。無実でオーストラリアに10年以上拘束されている日本人を見捨てることができる外務省なんだから無慈悲なことはお得意じゃないのか。なお、これは通称「メルボルン事件」(参照)。
 こういう中国流の言っていることと意図していることの違いに、中国側の思うつぼで対応する外務省ってなんなのだ。日本は法治国家なんだから、法治国家という筋を通せばいい。
cover
ワイルドスワン
 こうした問題が第三者からどう見えるのか、日本語版ニューズウィーク(10.15)「知られざる『買春大国』の闇」が興味深かった。インチキ写真まで掲載して日本の戦争犯罪をがなりたてるニューズウィークにしては問題の背景側を手短にうまくまとめていた。中国史を知る人間にとって中国の買春が「知られざる」と言われると鼻白むだけだが、今回の問題だって、200人をさらっと動員できる中国社会の病巣も問題だ。この問題の背景には、日本のフェミニストたちが触れているのを読んだことはないが、中国における女の意味をきちんと社会科学的に考察すべきだと思う。そんな研究を待っていられないというなら、「ワイルドスワン」を読むだけでもいい。同書は真の意味で傑作なのだから、高校生くらいの必読書にすべきだ。

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2003.10.11

中国が有人衛星を打ち上げる

 中国の有人衛星打ち上げの話。へぇ~40点くらいの気持ちであまり関心も向かなかったのだが、NHKの「あすを読む」を聞きながら、洒落じゃないなと思って、あとからこのニュースを読み直してみた。まとまった思いがあるわけではなく、むしろ自分の無知を晒すようなものだが、この件について意外な感じがするので記しておく。
 朝日系のニュースソースからの孫引きだが、上海「東方早報」によれば10月15日とのこと。地球を90分で周するらしい。
 「あすを読む」では、有人衛星打ち上げによって大衆に国家意識を持たせようとしていること、対外的な優位性を得ようとしていること、衛星ビジネス市場を得ようとしているという諸点をあげていた。それに間違いないだろうが、実際の担当が人民解放軍であることまで述べても、その軍事応用や米国のリアクションの想定には踏み込まなかった。問題が煩瑣になるのを避けたのかもしれない。他、話のなかでよかったことは、中国は長年この課題に取り組んできたという歴史背景を手短にわかりやすくまとめていたことだ。
 「あすを読む」の説明を含めて、今回の中国有人衛星について、私の印象はまばらのままだ。まず、そんな金があるのか、その金があったら福祉に回せよと思った。だが、社会主義国家というのはこういうことをやるものなのだ。間抜けな話だが、中国が社会主義国家であることに改めて思い至る。1960年代のソ連と同じ事をやろうとしているわけだ。そしてそれが実現すれば、またしても米国にスプートニクショクのようなものが起きるのだろうか。追いつき追い越せという意味でのショックはないだろうが、中国への警戒心は強まるだろう。他方、日本はといえば、ガチャピンに乗って貰いたいと思うくらいだろうか。
 ちと古い話だが、1999年11月21日に国産有人衛星の試験船を無人で打ち上げて、その回に成功している。このとき、江沢民はこの「長征2F型ロケット」という馬鹿馬鹿しい型名にさらに阿呆臭い名前「神舟」を付けた。当時の報道では、中国は2000年までに有人衛星を成功させたいとのことだが、そう話はうまく進まず、昨年4号までは無人衛星(有人で失敗したという噂もある)。今回の打ち上げは「神舟5号」になる。
 中国の政治というのはすべからく内部の権力闘争だから、今回の事態もその路線で考えれば、第16期中央委員会第3回総会と関連があるのだろう。胡錦涛と人民解放軍との関連が気になる。常識的に考えても、日米のミサイル防衛システムへの対抗であることは間違いない。米国防総省はすでに、今年7月の時点で「中国の軍事力に関する年次報告」を議会に出している。
 GPSについても中国は独自路線を出していくようだ。文明の衝突なんていうほどのことはないが、中国は本気で米国に衝突していくと取れないこともない。この問題には間抜けなことしか思いつかないのだが、私は、この妄想は人民解放軍の強迫によるものではないかと思う。人民解放軍の老害とその下を支える一人っ子政策時代のテクノクラートの存在は不気味だ。

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2003.10.10

国慶節に思う

 今度の選挙には新民主党を支持したいと私は思うのだが、それでも現状の党首討論にはあまり関心が向かない。各紙社説を読み飛ばす。産経新聞社説「大量破壊兵器 虚心に報告を読み返そう」は共感がもてた。メディア操作が叫ばれるが、つねに左翼的な心情をベースとしていて、実際に資料をきちんと読もうという運動にはなっていない。CIAなどはなから敵視されている。だが、元国連査察団長デビッド・ケイ証言*1は期待外れかもしれないが、それなりに重要だろうと思う。もう一点、「デジタルラジオ 安価な受信機の開発急げ」という視点も悪くなかった。だが、デジタルラジオなんてブロードバンド時代にはナンセンスなしろものだし、結局はハイビジョンと同じくNHKの受信料徴収のネタになるくらいだろう。産経の結語は「視聴者はラジオになにを求めているのか-という原点に立った取り組みがすべての関係者に求められる。」ってなクリシェで締めていたが、「おまえさん、ラジオ深夜便でも聞いてごなんさい」っていう感じだね。

 今日は社説話題をさておいて、国慶節の話だ。とネットで国慶節をひくと、先日足利義政の話のおり痛感したように、インターネットはバカの集まりだ。まともな情報は出てこない。国慶節について「1941年10月1日、毛沢東主席が天安門広場で建国宣言しました。」って書くヤツの気が知れないないね、と思う。ま、だからここで書くのだ。
 台北駐日経済文化代表處のホームページを見ると「双十国慶記念日」とあった。そういう表記もなるほどねとは思う。他では中共に配慮して双十国慶節として際だたせる表記もある(雙十節というのは10月10日だから)。でも、国慶節の本義を考えれば単に国慶節でもいいだろう。
 今年は中華民国建国九十二周年になる。常識なので言うも恥ずかしいがインターネット馬鹿曠野に戸惑うこともあるので書くと、民国建国は1912年、つまり大正元年と同じだ。今年は大正92年なのである。大正年を思えば明治は遠くなりにけりともいえるが、祖父母が明治年の生まれであることを思えば、民国成立の時代はそう遠いものでもない。夏目漱石の「心」にもまだ共感できる。現代が始まった時代だともいえる。1914年に第一次大戦が終わり、1917年に脳天気なレーニンの勘違いで始まったクーデターがひょんなことでロシア革命になった。
 民国成立について台北駐日経済文化代表處のページには、86年の李登輝の祝辞も残っていた(参照)。ちと長いが国慶節というものの説明のために引用させてもらう。


およそ一世紀前、孫中山先生は中華民国創建のため民主・自由・ 均富による発展の青写真を打ち出しました。爾来八十六年間、 わが中華民国は波濤逆巻く歴史の奔流のなかにおいて、幾度も挫折に 遭遇してまいりましたが、最後において確たる不動の立場を打ち立てることは、 民主に対する強い精神の具現であり、また歴史に対する責任でもあります。 今日ここに、われわれは誇りを持って台湾・澎湖・金門・馬祖地区における 中華民国は、すでに孫中山先生の理想を実現し、政治の民主化、社会の開放、 経済の繁栄、民生の充実といった輝かしい成果をあげ、中華民族の新たな歴史の一頁を開いたと言うことができます。
精神を継承するところに歴史的意義があり、引き続き開拓して行くところに 歴史的価値があります。われわれが獲得したすべての成果は、 無数の先覚諸烈士の犠牲的努力のたまものであり、基礎が築かれたから であります。われわれは国家発展の新たな高峰を築いた今日、 さらに努力をつづけ、民主と自由の理念を堅持し、次世代のためにさらに 安全でさらに安定し、さらに尊厳ある環境を構築し、二十一世紀の激しい 競争のなかにおける新たな挑戦を克服し、新たな局面を開拓して 行かねばなりません。

 台湾独立を明言できるようになった現在の李登輝を思えば皮肉な感じもする。また、孫文についても歴史研究が進むにつれ、虚飾がはがれていく。それでも今でも「中華民族の新たな歴史の一頁」とは民主化を意味すると考えて大過はない。ただ、「中華民族」の民主化とは、偽装された皇帝世界から各民族を解放することではなくてはならない。台湾が台湾となり、チベットがチベットなること。
 だが、そういう理想は、現代という新しい流れのなかで次第に色あせているのも現実だ。台湾は台湾になれず、チベットがチベットになることはない。ダライラマがポータラカに戻るとき実はチベットは終わっている。中共が出す民族地図を見て満人という区分がないことに呆れたことがあるが、しかし、それが新しい現代でもある。
 私事だが、李登輝の治世下民国86年の国慶節の夜、私は台北駅隣接天成ホテルにステイしていた。眼下に祭りらしい美しい夜景が見えた。だが、それを取り巻く夜景は日本の都市と本質的に変わるものでもないとも思った。柔軟な文化様式が東アジアの都市を覆いつつ、国家という虚構を薄めていくのである。

追記

 今日の余丁町散人の隠居小屋さんはブログに「10/10 Today 辛亥革命勃発 (1911.10.10)」を書いていた。それでいて国慶節への言及はない。散人先生のブログは面白いのだが、なんとも歴史感覚がずれているなとちと思うこと多し。さてもiblogなのでトラックバックもできず、こっそりと言う。

[コメント]
# shibu 『大陸(大連ですけど)の双十節って、国慶節(10月1日)連休のついでにw、休んだかな。その連休ひねり出す為かどうか、直前2週間が大変でした。職場も学校も休み無しなんですもの。小学生なんかふらふら状態ですわ。毎朝国歌演奏国旗掲揚があるんですが、最後の頃(目出度い国慶節近く)には遅刻者続出w 先生方もお疲れでしょう。国歌ならんかったり、国旗が半分しか揚がらなかったりw、ご苦労様でした。こっちは一人っ子のせいか毎朝毎夕お見送りに尾で向かえなんもんで、しっかり観察させていただきましたのでした。』
# shibu 『ああ、ついでに、日本じゃ「体育の日」って言って、東京オリンピックが開催された日なんだけどねって教えときましたけど...』

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2003.10.09

初等教育の歯止め規定廃止と幾何学随想

 朝日新聞と毎日新聞の社説が扱っていた初等教育の歯止め規定廃止が気になった。もちろん、歯止めなんて意味ないとは思うし、朝日や毎日の社説自体に特に思うこともない。
 心になにが引っかかっているか見つめているうちに、幾何学のことが気になった。現在の中学生高校生は幾何学をどんなふうに学んでいるのか。ネットを雑見したのがよくわからない。高校では幾何学はすでに解析幾何学になっているようで、その前段も早期に解析的な様相に変えられているようでもある。いわゆる初等幾何は中学で学ぶようだが、なんとなくだが、おざなりにされているような気もした。
 和田秀樹だったが数学は暗記と言っていた。基本のパターンを暗記すればいいというわけだ。東大合格やそれに類似することが目的ならそれでもいいと思う。幾何学はどうだろう? 幾何学だって解法は手順化されている。その前に、大学受験で初等幾何学は出てくるのか? 出てこないか。と、阿呆な逡巡をするのは、幾何学の面白さというのがそっくりこうした話で抜けているからだ。もちろん、代数や微積分学、論理学でも面白さはある。だが、初等幾何特有の面白さや美しさは若干違うようにも思う。
 もどかしい個人的な思いを連ねるので駄文になるが、私の中学生時代、初等数学に集合論が強く意識されていた。なんだこれという少年の思いから、無駄を覚悟で大学で畑が違いの基礎論を勉強した。ロバチェフスキー、カントール、ペアノ、ヒルベルト、デデキントそしてゲーデルというあたりのうわっつらを舐めた程度だが、集合というものが自分なりにわかった。後に柄谷行人あたりがゲーデルだの言い出して、自然数論なしで公理系云々とか言い出すあたり、本当にバカだなと思ったものだった。
 そしてある程度、集合論の背景にある公理性というものがわかったような気がした。だが、今思い返すと、ユークリッドの公理からヒルベルト風に公理性を取り出していくのではなく、原典のユークリッドの公理と幾何学の関係をおざなりに理解していたような気がする。
 中学生時代私は幾何学が好きな少年だったが、証明によく三角形の合同条件を使った。というか、そういうふうに指導されていた。ああいう幾何学は、ある種ヒルベルト風の考えだったように思う。思い起こすに、彼の「幾何学の基礎」 では5つの公理、結合、順序、合同公理、平行、連続でユークリッドを整理しなおしていた。私の時代でも、そして現代でも、おそらく初等幾何はアメリカの数学教育の影響から大衆的なヒルベルト主義になっていたのだろう。集合論と同じく、いずれ基礎論の入門という教育的な配慮があったのかもしれない。
 だが、数学としての幾何学はそれでもいいし、もちろん、幾何学の面白さや美しさが損なわれるわけではないが、もう一度、ユークリッドに立ち返ってみたい気がする。なんとなくだが、米国ではなく西欧の初等幾何学は中世以来の伝統を追っているように思うので、そちらの指導を覗いてみたい気がする。
 書きながら色々思い出す。高校の物理では物理とは名ばかりに、ニュートン力学という数学とそれにマックスウェルの法則なんぞを乗っけるのだが、中央公論だったかで出されていた訳本のプリンキピアの様相は、いわゆる教育の場のニュートン力学とはかなり違い、その後、田村二郎の解説書で得心したことがある。別段、ニュートン力学がアインシュタインの理論で置き換わったわけでもなかったし、さらに幾何学に潜む空間や運動の問題について、哲学的には未開の部分が残るとする晩年の大森荘蔵などの考えもわずかだがわかってきた。
 話が雑駁になってしまったが、ユークリッドの原論やそれにつならなるイスラムから西欧中世への学問のなかに、「幾何学をせざる者、この門を入るべからず」が残っているだろうと思う。
 生命の作り出す螺旋構造の背景にフィボナッチ数列や黄金比があると知ることは、中学生でも難しいことではない。そしてそれを知るということは、宇宙の美を味わうことにつながる。現代日本人がいう学力なぞ、所詮和田秀樹の東大入学術に過ぎない。そんなものより、この宇宙に生きていて、宇宙空間や生命体に潜む幾何学的な美を知る喜びのほうが、はるかに重要だと思う。重要ということは、美の意識によって生きて死ぬことがより充足されるということだ。

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2003.10.08

狂牛病再発の裏を少し考える

 狂牛病(BSE:牛海綿状脳症)に感染した牛が国内で発見された。今朝社説で扱っているのは朝日新聞と毎日新聞の2紙。昨日の藤井治芳解任問題と同じ構図で、読売と産経の及び腰はなぜだろう。
 今回の狂牛病再発の問題は難しい。なぜ?という疑問に答えられないからだ。私もわからないから、ろくなことが言えない。新聞の社説としても扱いづらいだろうから、畢竟、凡庸な話になる。朝日は昔ながらの社会派にして諸問題は人災的な発想なので、こうなるのはしかたがない。


 まず確かめなければならないのは、今回の牛の飼料に肉骨粉が混じった可能性があるかどうかだ。
 BSEが大量に発生した英国でも肉骨粉の使用を禁じたあとに感染が起きている。これは農家に残っていた古い肉骨粉を食べたのが原因ではないかと疑われている。

 それ自体は間違いではない。そしてそれが確認されるなら、当面の問題は終わりと言ってもいい。ま、そうは問屋が卸すまいと考えるべきだろう。毎日社説の執筆者は朝日よりもう少しインテリジェンスが高いようだ。

 問題の牛は国内で肉骨粉の使用が禁止された後に生まれた。それを考えると、原因は肉骨粉以外にある可能性が高い。
 一方で、残っていた肉骨粉を含む汚染飼料が誤って与えられていた恐れもある。いずれにしても、詳しい追跡調査が欠かせない。
 後段はデスクの付け足しではないかと思われるが、ようは、この問題の重要性は狂牛病の感染源は肉骨粉以外ではないか、という疑問だ。

 私はこれが重要だと思う。狂牛病について、ノーベル賞は付いたものの、公平に見ればプリオン説はまだ確定していない。謎を突き止めることで、プリオン説が詳細化されるか否定されるか、いずれにせよ科学知見は進歩するだろうし、日本の学者にそれを期待したい。
 ところで、なぜこの問題が今頃出てきたのか。裏はあるのか? 私にはわからないが、案外裏はないかもしれない。今回のケースでは生後23か月、つまり2歳という若年で調査しているせいもあるだろう。しいて言うなら調査員らが成果を誇りたかったのかもしれない。
 多少気になるのはタイミングだ。カナダで狂牛病が発生したことから、米国では一時期牛肉の輸入を禁止していたが、この9月1日から解禁。日本政府はこの事態を梃子に米国に向けて、米国内で処理されたことの輸出証明書を義務づけさせた。ざっくばらんに言えば巧妙な非関税障壁だ。この問題から今回の問題を読み解くことはやや難があるように思う人もいるだろうが、この読みの線がまったく外していないことは、米国時間で昨日のロイター通信の次の記事でわかる。

Japan mad cow case may affect US-Canada trade - USDA

Last Updated: 2003-10-07 10:15:17 -0400 (Reuters Health)

By Randy Fabi

WASHINGTON (Reuters) - The U.S. Agriculture Department said on Monday it was seeking more details about a new case of mad cow disease in a young animal in Japan, which could impact a USDA plan to reopen U.S. borders to shipments of live Canadian cattle that are under 30 months of age.


 この先要領の得ない記事が続く。で、要点は以下だ。

Cattle futures traded in Chicago moved sharply higher earlier in the day, in part on worry that the new Japanese case could alter the USDA's thinking on the risks posed by Canadian cattle younger than 30 months.

 2歳レベルの牛の調査体制を国際的に強いることでさらに非関税障壁を高めるという脅しになる。この方向で各種協議はわざとらに紛糾するだろう。とはいえ、だからわざわざ今回国内で狂牛病の牛を発見させたとまでは言い切れない。
 狂牛病について、今回のニュースがあったにも関わらず、私自身の庶民感覚からしてみても、日本国内ではそれほど牛肉市場には影響はでないだろう。この間抜けさ加減は朝日新聞社説からもわかる。
 とはいえ、いたずらに不安がることはない。私たちの口に入る肉や牛乳に心配はない。危ない脳や脊髄は食用から除かれている。
 確かに、朝日新聞語で言うところの「いたずらに不安がることはない」は正しいが、より緻密に言うなら、これは嘘っぱちである。とはいえ、この話をこのブログに書くべきか多少迷う。2ちゃんねるに多いDQNに引用されても困る。ので、簡単に記すにとどめるが、牛タンは感染源になりうる。詳細を知りたい人はRapid prion neuroinvasion following tongue infection.(参照)を読んでほしい。
 余談だが、朝日新聞の「牛海綿状脳症(BSE)」や毎日新聞の「BSE(牛海綿状脳症)」という但し書きで本文ではBSEと略記する表現はジャーナリズムらしくないと思う。ロイターではMad cow disease, or bovine spongiform encephalopathy (BSE) と但し書きになり、BSEの略記も使うが朝日新聞のように見出しで「BSE ― 落ち着いてナゾ究明を」とはしない。"mad cow"だ。ロイターに習えとも言わないが、「狂牛病」でいいではないか。

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2003.10.07

藤井治芳解任で良しとする小泉政権が問題なのだ

 今朝の朝日新聞社説「総裁解任 ― 政治ショーでごまかすな」は秀逸だった。毎日新聞社説「藤井総裁解任 辞表拒否の背景を見抜け」も良い。藤井治芳解任で良しとする小泉政権が問題なのだ。この問題を今朝取り上げなかったというだけで産経新聞と読売新聞は腰抜けだ。
 朝日がうまく言っている。


 しかし、「道路のドン」といわれた総裁の悪あがきを笑うだけではすむまい。更迭問題と並行して、道路4公団民営化推進委員会が出した報告書の骨抜きが、国交省の手で着々と進められているからだ。
 今回の更迭劇は、「高速道路無料化」を掲げた民主党と自由党の合併大会の当日に始まった。改革の後退を覆い隠すとともに、総選挙で国民の歓心を買おうとする一石二鳥の政治ショーではなかったのか。

 今回の解任も北朝鮮訪問の時期設定と同じく政治ショーだし、民営化推進委員会報告の骨抜きだ。死に体の日本のジャーナリズムだがここでもうひとがんばりすれば、青木幹雄が干しあがり小泉はまたさらっと豹変する。だが、そんな期待より、この愚劣な政権をいったんリセットすべきだ。朝日がいくら次のように力説しても小泉に聞こえるわけがない。

 民営化によって政治家や官僚の介入を断ち切りムダな道路を造らせない。債務の返済を最優先し国民負担を最小限にする。これが推進委が出した報告書のエキスだ。
 首相が真っ先にすべきは、これに沿った法案づくりを政権公約に書き込むことである。人事をもてあそび、人気取りを図ることではない。

 毎日がもう一歩踏み込んで言っているように、現状の利権の構造ではトップに立てる人材なんか出てこられない。

紛糾している道路公団の後任総裁を引き受ける民間人は、ほとんどいないだろう。不手際は混乱につながると予想せざるを得ない。

 辞任を蹴飛ばした藤井治芳の内心せせら笑いが聞こえるようだ。このクソジジーこの期に及んでまだなんとかなると踏んでいるし、実際青木たちはなんどかできる路線で動き始めている。
 話が散漫になるが山中貞則なんかもまとめて排除するには73歳定年制なんてあまっちょろいこと言ってないで、自民党をリセットするしかない。

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2003.10.06

住宅供給公社を潰せと煽る正義

 住宅供給公社について毎日新聞社説「取り潰しも視野に入れて」が取り上げていた。論旨は明快過ぎるほど明快で、ようは取り潰せということだ。確かにそうだろうと思う。この問題を決定的にしたのは、時価会計の適用だ。
 この問題について、私はうまく言えないある種のもどかしさを感じる。その感触の一端は、例えば、毎日新聞社説の書き出しから受ける、ある種の不快感だ。


 道頓堀の水を抜いたとしよう。ヘドロの堆積(たいせき)は言うに及ばずありとあらゆるごみが眼前に現れるだろう。まるで今回から時価会計が適用された住宅供給公社のようなものではないか。

 単なる文章術の問題かもしれないが、イメージの修辞を先にもってくるのは変だなと思う。続けてこう毎日社説は言う。

 公的な法人の中で住宅供給公社ほど多くの問題をいま露呈している組織は日本にない。思うにこの体たらくは地方自治体的な無責任、都道府県役人の天下り、地方政治と癒着した不動産業者という「腐敗の三点セット」が見事に演出したものだ。先日質流れのような安値でマンションを売って高値で買った住民を怒らせたのは東京都住宅供給公社だったが、その流れはここからきているのだ。

 確かにその腐敗の3点セットがある。だから取り潰せというのは明快だ。明快過ぎる。そして、少し考えれば、問題の時代背景となる地方住宅供給公社法は高度成長が加速する昭和40年前半の産物で、その時代には意義があったのが時代に取り残された、と言える。時代が変わったのに刷新しないから腐敗した…もちろんそうだ。だが、なにか心に引っかかる。
 先の毎日社説の引用で東京都住宅供給公社が住民を怒らせたという話は、読者が既知なものとしてさらっとふれているが、これは、八王子市多摩ニュータウンの分譲マンションの売れ残り65戸を7割引きで「たたき売り」したため、完成時に高値で買った住人が怒ったという話だろう。
 完成時に買った人にしてみれば怒るのも当然と言えそうだが、そうだろうか。公社は、周辺の中古物件の取引価格を参考にしたと言うが、そのこともそれほど誤りではない。
 値下げ幅の大きい2LDK(78平方メートル)は1995年完成時5189万円。それが、たたき売りで1312万円。90平方メートルものが1900万円。中央線沿線で立川あたりまでを視野に入れると、中古物件としても安いような印象はある。多摩ニュータウンといっても広いが交通の便は、駅に近いという意味ではそれほど悪くない。とはいえ所詮私鉄沿線なので立川レベルの街との利便性は高くはない。話が些細なことになってしまったが、お得な中古物件だと言えるし、もう少し500万円から1000万円高くてもいいようにも思える。そうだとすれば、東京都住宅供給公社は不動産屋としては、やる気がないのだ。
 多摩ニュータウンのような僻地を住宅地に一新させるだけの大プロジェクトは国ではなくてはできない。そして、これからの東京は、局所の過密を防いで全体の人口を上げざるを得ないのだから、まだそうした大プロジェクトが必要なのではないかとも思う。もしそうなら、東京都住宅供給公社をうまく経営すればいいだけのことかもしれない。
 もちろん、そんな経営者が公社なんぞにはいないのだとくさすことは簡単だ。だが、巨大な中古マンションの維持が問題になるのはむしろこれからなので、東京都住宅供給公社をたんに取り潰して無しにするより、もっと住民視点の保守体制が必要になるのではないか。そうすることで、マンションの資産価格も維持されるのだから。

[コメント]
# ただすけ 『何故、徐々に値下げを行わなかったのですかね?段階的に値下げをするのは無理だったのですかね?』

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2003.10.05

日本はいまだ国連の「敵」である

 産経新聞と日経新聞の社説は、イラク派兵に関連して国連決議を取り上げていた。産経は小林よしのりがいうところのポチ保守路線。日経の社説「今こそ『弱い国連』の安保機能見直しを」が、凡庸とも言えるが読み応えがあった。
 日本人は国連に甘い幻想を抱いているが、国連は機能しない。いろいろ問題があるが、根幹にあるのは、私は常任理事国の存在だと考える。そして少し暴論めくが、常任理事国があるというのは、国連(United Nations)というのは連合国(United Nations)だからだ。もともと日独伊の枢軸国と戦うためのリーグなのだ。洒落ではない証拠に、日本は国連の敵国だと敵国条項(国連憲章第53、107条)で定められている。
 そんな話をすれば、知識人なら鼻でせせら笑うだろう、「あれは死文であり、削除は1995年の国連総会で採択され、スケジュールに乗っている」と。確かに、数年前まではそうだった。ところが、そのスケジュールはどうなったのか?と問い返してみればいい。進歩派知識人は「死文だから気にしなくてもいい」と答えるだろうか。では、「いくら死文でも、日本の戦後の努力を踏みにじる不名誉な条項は死文であれ即刻削除されるべきではないか?」とさらに問えばいい。その先はなんにもない。ちなみに、1995年3月憲章特別委員会は旧敵国条項の削除、改正を総会に勧告、12月国連総会で国連憲章から旧敵国条項を削除する決議を行い、賛成155棄権3で採択した。この際、棄権3は朝日新聞の友好国である北朝鮮、キューバ、リビアである。
 だが、ようやく日経がその先を少し言及しだした。まずはアッパレと言っておく。


 国連改革といえば、日本にとって座視できない問題として国連憲章の中の旧敵国条項の存在がある。
 すでに死文化しているともいわれるが、この条項は連合国の敵国であった日本などが再び侵略行為を行った場合、ほかの国は安保理の承認なしに武力行使できると規定してあり、一種の差別条項である。それが厳然として残っている。

 よく考えよう。この数年の流れを見れば、日本への敵国条項は死文ではない。連合国は先日のカンクン会議のG21のようなリーグの筆頭に日本が立てば、連合国側は日本を攻撃するだろう。妄想? もちろん、その前提に日米安保の解消がある。なにしろ、日米安保というのはこの敵国条項の安全弁のようなものだからだ。米軍が日本に駐留している理由の一つは日本を軍事的に支配下に置くことだ。首都を取り巻くように米軍が駐留している様は普通の外人ならバカでも日本が未だ占領下にあることがわかる。
 そんなことを言えば右寄り? ポチ保守賛同? なんだか現実感がないような気もする。
 国連と日本の関係を正常化させることは難しいのだろうか? 意外なソリューションを私は小沢一郎の主張から啓発された。常備の国連軍を作り、日本が兵を出せばいいのだと。なるほど。そうすれば、死文は論理矛盾から本当に死に絶えるだろう。だが、日本の平和勢力、国連主義の人たちはそれを認めるだろうか。今の日本の空気を読む限りそうはいかないだろう。衆院選挙でも、冷静に考えれば、新民主党は敗退する。
 そういう意味で現実というのは厳しいものだ。ナンセンスでない平和というものが難しいのは、血で贖うものだからだし、血で贖うためには国民のなかに国への愛がなくてはならない。この見解はウヨに聞こえるだろうか。だが、警察官だって消防士だって、死ねとは言われないものの、職務のために死なければならないことがある。その職務というものは国への愛が根幹にある。本当は官僚というものもそういう存在なのだが。

[コメント]
# shibu 『そうですか! 小沢の常備国連軍創設とそれへの参加ってそういう意味があったんですか。常備フォーラム「連合国」批判は、敵国条項非難を必ず書くけどその解決策って書いてないですよね。せいぜい執拗に主張せよwで終わり。分担金負担額と率でシノにロ、仏・英非難も尤もですが、こういう視点を積極的に表に出したほうが説得力ありますわ。』

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2003.10.04

労組ではなく職業別組合の社会貢献が重要だ

 読売と毎日が、社説で連合の会長選挙を受け、日本の労働組合をテーマにしていたが、これも漠とした話だった。
 毎日新聞社説の切り出しは悪くない。


 労働運動が見えない。こう言われて久しい。組合員数は年々減り続け、雇用者の2割しか組合に入っていない。労組に加盟していない8割もの未組織労働者のために、労働運動は何をしてきたのか。企業内労組の殻に閉じこもりリストラが過ぎ去るのを待っているうちに正社員が減り、雇用不安が社会を覆っている。「労組再生」の掛け声は立派だが、改革は進んでいない。もう後がない。その危機感が浸透していない。

 だがこの先の話は迷走する。「労組に加盟していない8割もの未組織労働者」というものが日本社会という視点から見れば大きな課題であるのに、毎日新聞はそれを現在の労働組合の改革で対応しようている。耳鼻科で痔を治すようなものだ。
 結末は爆笑ものだから、という意味で引用しておこう。

 労働運動を担う若いリーダーを抜てきすべきだ。若い人の労組に対するイメージは、暗い・時代遅れ・面白くない、というものだ。今必要なことは、組合は慣れした若い層にアピールする組織に変えていくことである。若い力がどうしても欠かせない。笹森会長らトップには2年の任期中に、なんとしてもフレッシュな指導者を育ててもらいたい。燃え尽き症候群の労組幹部では改革はできない。
 女性も率先して労組を引っ張るべきだ。パート労働者が急増し、問題も起きている。女性リーダーの出番は多い。
 労働運動は変わらなければならない。

 まったくお笑い草だね。「若い力」がなにを意味しているのか、執筆者はどんな顔を思い浮かべているのだろうか。せいぜいお若い安倍晋三の世代か。実際はポンコツどもがよってたかって若い労働者を労働市場から排除しているのだ。それが労組が実際にしていることなのだ。
 読売新聞はもっと直裁に、労働組合なんて政治組織じゃないか、とわりきっている分、ましかもしれない。政治はなんと日本国民にとって迂遠な話になってしまったことだろう。国民の政治無関心がいけないというのも正論だが、日本全体から見ればメジャーとはいえない公明党のような集団が現在国政に強く関与している。アメリカのようなロビーがないだけましなのかもしれないが、民主主義というのは平時は民主でもなんでもない。
 くさしはこのくらいにする。読売新聞に指摘されるまでもなく、日本の産業構造や労働環境が変化しつつあるのに、連合は相変わらず大企業の正社員の組織のままだ。端的に言えば、こんなもの実際に働くという意味での労働者とは関係ない、公明党のような組織に過ぎない。
 では、そもそも労働団体なんてくだらないものなのだろうか。私はそうは思わない。私自身、アメリカのある職能団体に所属している。職業別組合の一つだ。日本人として参加しているのだから、アメリカ内政へのロビー活動などは期待していない。もうかれこれ20年近くも名前だけ連ねた状態だが、それでもこの組合を見ながら、いろいろ思うことが多い。今の日本に照らせば、この組合の活動の一環として学生への支援と業態の倫理の確立に重きを置いていることが重要だろう。
 詳細に語ると長くなりそうなので、ちょっと話が散漫になるが、思うことだけ書く。このブログで私はセンター試験世代を罵倒してしまいがちだが、社会で現実に幅広く若い人たちと多少なりとも話をするといえば、バイトさんたちということになる。率直に言うのだが、そのバイトの内容が実につまらなく見える。30歳までになんとか能力を積み重ねられる仕事を若い人に与えるのが大人のつとめではないかという気持ちもなる。こうしたつまらぬバイトをしている若者に職業別組合が技術教育や奨学金を出すといったことはできなものなのだろうか。ま、そう言っても人ごとみたいな響きがするが。
 どういう了見なのかわからないが、民間の職業能力試験のようなものは数多い。実態は、官僚天下りの財団とやらが、天下りのコネで省庁のお墨付きを貰った権威による試験だ。こんなものでも試験にチャレンジすることで、職業能力が身に付く面もあるだろう。だが、現場の職業人たちが自分たちの後輩をきちんと育てていくという感じではなく、結局は国に権威をもたれているだけだ。
 歯切れの悪い話になってしまったし、きれい事になってしまうのだが、いわゆる市民としてではなく、一職業人として我々がその職能によってもっと若い世代に貢献しなくてはいけないのだろうと思う。

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2003.10.03

[書評]「ケータイを持ったサル」ケータイ世代はサル化しているのか?

 書評とするほどでもないのかもしれないが、昨日『ケータイを持ったサル』を斜め読みしながら、つらつら物を考えた。帯にはこんなことが書いてある。

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ケータイを持ったサル
  「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、「ケータイ」でいつも他人とつながりたがる若者。両者は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを拒否する点で共通している。これは「子ども中心主義」の家庭で育った結果といえる。現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか? 気鋭のサル学者による、目からウロコの家族論・コミュニケーション論。
 確かにそういう内容でもあるのだが、書籍の狙いとしては街に溢れる女子高校生を「ありゃ、サルだね」と思う大人の心をくすぐりたいというところだろう。女子高校生と限らないが、ケータイが普及してからの若い世代は、なんだかサルみたいだなという印象を上の世代は受ける。それをサル学的にみたら面白いというのは企画としてはわるくないが、率直なところ、この本は全体としては学問の応用という点では論理が飛躍しまくったトンデモ本の部類だろう。残念ながらト学会にはたいした知性もないから、批判は期待できそうにない。ト学会など、竹内久美子の著作をトンデモ本扱いして批判したつもりでも、竹内が折り込み済みにしたカモにしかなっていない。
 同書の基調は、成熟の拒否というより、家族と公空間を失って母子関係だけの世界になった現代日本人の行動特性というものだろう。この本では皮肉な対象としてしか触れていないが父的な存在の欠落という話題にも転換しがちだ。だが、私は、この行動特性は、父性や母子関係の問題というより、現代の子供に兄弟がいないということの派生によることだと思う。兄弟が多ければ、サルのような母子関係は成立しない。加えて、サルとヒトは発生の起源がかなり違うのではないかと個人的には考えている。サル学のサルではない類人猿(Ape)なども、どうもヒトの進化樹からはかなり遠いというのが最近の科学知見ではないだろうか。
 そうはいっても、現代の若い人たちの行動がサルのように動物化しているという印象は強い。『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』などもそうした批評の風潮にあるようだが、こちらの本については、たしかにデリダに傾倒した作者ということでフランスの悪しきヘーゲル主義であるコジェーヴの枠組みのなかにずっぽり落ち込んでいるので、またこれかよ的な印象も受けた。ヘーゲルを原典から読めよとも思うが、強権集中官僚国家なら存在理由がわからないでもない現代フランス哲学っていうのが、なぜか戦後おフランス趣味というだけで日本だけで受けるのだからこうした修辞的な取り組みがあってもしかたないのだろう。それでも、大筋でオタクが動物化しているというのは、そうなんだろう。余談めくが同書後半にでてくる「HTML」のご解説は支離滅裂。「知らねーこと屁理屈で書くんじゃねーよ、おにいさん」という感じもするが、実際のところ、編集者を含めこの著者の回りにはそういう示唆をする人がいないという意味で、閉鎖された知のサークルの産物なのかもしれない。
 荒っぽい言い方だが、最初にサル化・動物化という視点ありき、というのがこうした議論を出版物として支えている風潮なのだろう。それが困ったことなのか、あるいはもったいつけて大きな物語が崩壊した現状の必然ということなのか。もっと卑近に言って、この若い世代を大人がなんとかせいということなのか。
 と言いつつ、個人的な経験を思い出す。最近はさすがに辟易としてしまったが、五年前地方大学でちょっと講師業などをしていたころ、受講生に留学生が数名いるので、日本語のライティングは難しいだろうから、グループ共同でレポートを出す課題を出したことがある。私の指示がまずかったのかもしれないが、グループで共同で答えをまとめなさいとしたのだが、出てきたレポートに唖然とした。グループ内で作業を分担して書いているだけで、グループで統合された回答が出ていないのだ。おまえらってヤツらはサイテーだなと怒りそうになったが、彼らの公平な共同作業というのはこんなものなのだろう。
 『ケータイを持ったサル』でもケータイ利用グループが信頼という資質に薄いことが実験を通して語られているが、個別にみればおそらくそういうことなのだろう。この本では触れていないが、おそらく彼らの恋愛も同じようなもので、愛に含まれるとされている信頼という感覚が、もうなにか決定的に変容しているのだろう。
 宮台真司もすでに数年前から実質主張を転換している。たまたまネットをめくったらこんな発言があった(参照)。

 日本の若者の恋愛関係、家族関係、友人関係に関する想像力は、他の先進国に比べ極めて低い水準だと思います。若者の作る映画などで「家族や愛なんて幻想じゃん」なんて役者が言っていたりする。バカですね。幻想に決まっているんですよ。こんなことは、フランスやイタリアでは当たり前。彼らは、幻想と知っていてあえてかかわっているんです。勘違いしているか、あえてかかわるかが、人間の文化水準を分けます。

 ここでも「人間の文化水準」がサル化・動物化に対応しているといっていいだろう。宮台も学校のセンセーらしく、もっともらしいことを言っているわけだ。
 ちょっと気が利く人間ならこのサル化した社会の状況にもっともらしいことは多様に言える。そして言っても無駄な状況が続く。恐らくサルの内部に悲しみや苦しみが発生し、それが、話が循環するようだが、人間の内部を構成することで孤独が生まれるのを待つしかないだろう。孤独でなければ、ヒリつくような恋愛なんてものもないのだし、そうした恋愛をしなければ、人間なんて死にきれる存在でもないのだ。ハイデガーみたいだが、死がメディアという空談・好奇心・曖昧性の三位一体によって覆われ、現実と向き合う契機がなくサルにまで頽落するのも現代らしい。だが、サル世代の祖父母に当たる、団塊世代の親がばたばたと死ぬ時節になれば、少しずつサルも進化するしかなくなるだろう。

[コメント]
# nanacy 『竹内久美子は確信犯的にウソをついている訳で、あの女は叩いても叩きすぎるって事はないと思うよ?だって竹内の言う事を真に受けてる人がけっこういるんだもん。』
# レス> 『なるほど、そういう意味でだと啓蒙的に叩く必要があるかもしれませんね。』

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2003.10.02

[書評]ドナルド・キーン著『足利義政』

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足利義政
 ニュースネタもないので、書評を一本を増やす。新刊ではないが、年頭読み心に深く残った一冊がある。ドナルド・キーン著『足利義政』だ。
 足利義政と言われて、センター試験世代はなんて答えるのだろう。改めて訊くだけ嫌みになる。が、Googleをひいて呆れた。暴言を吐く、ネット利用者というのはバカばかりだな。Googleがバカなのかとも思ってリストページを繰るが絶望を深めるばかり。検索の筆頭にはウィキペディア(Wikipedia)の足利義政の項目があるので、もちろん開いてみた。爆笑するしかないだろう、I'm feeling Luckyってことはこういうことか。バカここに極まれりだな、生没年すら記載せずに百科事典かよ、とふと見るとウィキペディアの項目にはEnglishのリンクがあるので、どうせこのバカども英語の説明でも訳したのだろうと思って見ると、そうでもない。英語の説明のほうがもう少しまともだ。なるほどラリー・エリソンが日本庭園と家屋を造るのもわからないではない。もっとも、彼の作った日本家屋を訪れた知人は、なんか変だ変だと思い、ハタと気が付いた、家全体の寸法がエリソンの背丈にあっているのだ。そんなの日本家屋じゃねーっつうの。
 日本の知性の行く末は中原中也が小林秀雄につぶやいたように茫洋だが、諸分野だいたいにおいてそんなものかもしれない。無駄口を叩いてもしかたない。
 明治天皇についての大著を終えたドナルド・キーンに、編集者は次は「日本の心」をと問うたらしい。それで足利義政について書き出したという。さすがだ、というのも僭越だが、日本の心とまでいかずとも、日本の美を論じるに足利義政を欠かすわけにはいかないと私も考えていた。私がそう思い至った背景は彼とは違う。明治時代という錯誤を払拭して現れた江戸の文化というのが室町時代のレプリカであり、そのオリジナルを追跡していけば足利義政に至ったからだ。だが、現状日本では足利義政はほとんど評価されず、せいぜい日野富子という物語の道化役に過ぎない。
 『足利義政』は雑誌連載という制約から散漫に書かれているのだが、それがむしろいい効果を出している。ドナルド・キーンの筆法は評論を越えて、小説のような味わいもある。奇妙な言い方だが足利義政という人間の魅力というものを、人生半ばを過ぎた男の心にうまく響かせている。

 義政は、私生活においても成功したとは言い難い。若い頃の数多くの女性関係は、義政になんら永続的な喜びをもたらさなかった。また、義政の結婚生活は惨憺たるものだった。(中略)応仁の乱が終わる頃までには、おそらく義政は公的・私的生活を通じて義政自身にも失敗者に見えたのではないだろうか。

 史実の義政は自身を失敗者と見ていただろうか。卑賤な言い方だが、私は義政という人間はある種アスペルガー症候群に近いような器質を持っていたかと思う。その美の入れ込みや他者への無関心さがそれを暗示している。中島義道が『愛という試練』でその父の無神経さを語っていたが、ああいう人間タイプは珍しいものではない。それでも義政には普通の人間生活での成功というものの意味は剥落しており、他者からのそうした期待にまったく応えていない自分を理解していなかったわけはないだろう。
 唐突な言い方だが、男の人生とは必然的に失敗者になるものなのではないだろうか。そう単純に言っても言い得た感じがしない。成功している男たちもいるし、失敗者の美学など言い訳めいて醜いだけだ。だから、そういうことを言いたいわけでもない。この通じないもどかしさと、それでいて内面に蓄積された一種の美意識のようなものをなんと表現していいのかわからないが、そのなにかをきちんと美の形で表出することが義政という天才には可能だったのだろう。そんなふうにドナルド・キーンに気づかされる。
 そうした男には独自の相貌というものがあるだろう。ドナルド・キーンは義政について豊かな想像力を投げかけている。

しかし、それにしても偉大なヨーロッパの肖像画家の一人(あるいは、墨斎)が、義政のような複雑な人物の容貌と性格を我々のために残しておいてくれていたら、と思わすにはいられない。

 さっと読めば、読者をその「我々」に引き寄せる。だが現実の「我々」はそういう男の相貌に関心を持っているかといえばそうではない。味わいのある男優の顔を演劇家や大衆は独自の感性で支持するが、義政のような人物の相貌とは異なるだろう。嫌みな言い方だが、それを見たいと願うのはドナルド・キーンのある心の動きであり、おそらくその相貌はドナルド・キーンの相貌にも近いものだろう。そう語れば彼もまた自身を人生の失敗者と見ているのかと短絡しそうだが、そうであるようで、そうでもない。
 話を日本文化の流れに戻す。足利義政の生没年は1435-1490。同書にも時代の子として比較に出てくる蓮如は1415-1499。20歳も上だが、彼らの活躍は没年から見たほうがいいので、同時代人と言っていいだろう。朝に紅顔ありて夕べに白骨となることが生活実感であった時代に銀閣寺ができたということだ。理屈はつく。死の光景にさらされているという点でも両者は似ているし、蓮如王国にも独自の活力があった。しかし、そうした説明はすべて上滑りするだろう。このわからなさ加減と歴史を突出する天才の意味が奇妙に私の心にのしかかる。
 義政とは違っているが、率直に内省すれば、私も人生の失敗者だ。そうした失敗者の存在は独自な文化や天才性を歴史に載せていくのに必要なのかもしれないとも思う。

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2003.10.01

毒ガス兵器は裁判以前にさっさと処理するが吉

 日経新聞を除いて各紙、旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器で被害を受けたとする中国人の訴訟を扱っていた。これが大きな問題なのか、そもそも問題がなにか、率直のところ各紙社説を読んでも皆目わからなかった。当然、私に独自な視点があるわけでもないが、この変な感じについて記しておきたい。
 事態についてはあえて産経の冒頭を引用したい。


 旧日本軍が戦争中に持ち込んだ毒ガス弾で戦後、被害を受けた中国人が、損害賠償を求めていた訴訟で、東京地裁は原告十三人に約一億九千万円を支払うよう国に命じた。「国は(毒ガス弾の)調査や回収を中国政府に申し出ることが可能で、被害防止のための措置を委ねる作為義務も怠った」というのがその理由だが、果たしてそうか。不可解さが残る判決だった。

 産経の視点に賛成するというものではないが、朝日新聞の社説はすでに左に振り切っていて娯楽なのか脅迫なのか判別しがたい。

 戦後すでに半世紀余が過ぎ、日本では戦争の記憶が遠くなりつつある。いかに多くの犠牲を払って平和を手にしたのか、それすらもつい忘れがちだ。
 そんな私たちに、時間を超え、過去が迫ってくることがある。旧日本軍が中国東北部などで捨てた毒ガス兵器や砲弾が今も住民の健康を害し、命を奪っている問題はその一つだ。
 工事現場で毒ガス入りのドラム缶が見つかり、ふたをあけると中から液体が噴き出す。液体がついた人々の皮膚はただれ、呼吸困難で入退院を繰り返さなければならない。砲弾の爆発で即死した人もいた。

 なんだかなである。実はこのなんだかなというか朝日新聞社説の偽善ウキウキ感がすでにこの当の事態にまつわる問題を示唆している。正直言って、そういう朝日の口上にはうんざりなのだ。そのうんざりを実感するために朝日新聞にもう少し耳を傾ける。

 被害に苦しんでいる人には何の落ち度もない。普通の暮らしを送っていたところ、突然、旧日本軍の捨てた毒ガスで悲劇にあったのだ。
 毒ガスはかつての侵略戦争の「負の遺産」にほかならない。日本人自身が背負い、解消していくしかないものだ。

 だが、これは筋の通った話ではない。産経のほうが理が通っている。

 わが国は、昭和二十年八月、連合国のポツダム宣言に基づいて無条件降伏した。そのポツダム宣言は降伏の条件の一つとして、完全なる武装解除を挙げ、日本軍は毒ガス弾を含むすべての武器・弾薬、施設を没収された。武器・弾薬、施設などについて、日本国、日本軍は所有権、管理権が及ばなくなったのである。
 一方で、平成七年四月に批准された化学兵器禁止条約は、「一九二五年以降、いずれかの国が他の国の領域内に、その国の同意を得ないで、遺棄した化学兵器を遺棄化学兵器という」という趣旨の定義をしている。現在中国にある旧日本軍の毒ガス弾は、中国の同意を得ないで遺棄したものではなく、連合国に没収されたものであり、“遺棄化学弾”に該当するのかどうかは疑問がある。もし中国側が遺棄化学弾だというならば、それらが遺棄されたものであることを証明しなければならないだろう。

 とはいえ、事態については、産経がいくら「正論」を述べても、現実問題としては読売新聞社説が次のように言うように日本が毒ガス兵器を回収したほうがいいということになる。

 だが、どのような司法判断が下されるにせよ、毒ガス兵器の回収は急務だ。
 その数は、日本政府の推定で、約70万発にも上る。回収作業は、97年に発効した化学兵器禁止条約と、その後の日中間の覚書で、2000年から始まり、2007年までに処理することが義務づけられている。総事業費は、数千億円に達する見通しだ。

 話をごちゃごちゃさせるようだが、だったらなぜこの裁判があったのか? 常識的に考えれば、結局またぞろ左翼イデオロギー論争なのだ。あーもう勝手にしてくれだ。このあたりのウンザリ感を読売社説も反映しているし、私もそれに共感する。
 左翼や朝日新聞はこの裁判の動向でウキウキしているのだが、実際の日本人庶民にしてみると、別に毒ガス回収作業や補償に反意なんかない。費用は巨額だが銀行にもっと莫大な無駄金突っ込んでも平然しているほど大人になった国民なのだ。
 それよりもうこの手の話題にウンザリということが重要だと思う。左翼は国民のウンザリ感がよくわかっていないようだ。ことさらに恐怖をかき立てさせて見せても、正義や平和で庶民を啓蒙しくさってくださっても、ウンザリする悪循環だ。やるだけ2ちゃんねる的ウヨがちまたにあふれ出すくらいだろう。

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