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2003.09.10

裁判員は多いほうがいい

 今朝は朝日新聞を除いてみなブリヂストン工場の火災を扱っていたが、つまらない内容だった。新聞社なのだから本質を現場で探ってから書けよ。その点、朝日新聞の「裁判員――お飾りにしてはならぬ」は重要な問題提起だ。
 司法制度改革の検討会で裁判員制度の集中審議が始まるにあたり、市民による裁判員の参加の比率をどうするかという問題だ。朝日新聞社説は、下手くそな文章でこう書いている。


 自民党内でも論議が活発だが、ここでは有力な意見として、裁判官2、3人、裁判員6人程度の案が出ている。
 このくらいの組み合わせが、市民にとっては気後れしないで論議しやすいのかもしれない。政府の検討会では、こうした案を軸に議論を進めてはどうか。

 私もこのくらいの構成がいいのではないかと思う。ただし、朝日新聞の次の意見は気にくわない。

 一方で、裁判員はただ多ければいい、というわけでもあるまい。大切なのは、プロと実のある対話ができるかどうかだ。

cover
逆転
 あえて粗暴に言いたい。裁判官というプロと実のある対話ではなく、裁判官という非常識な人たちに真正面からぶつかる気構えのある市民が重要なのだ。その意味では、市民の数が多いほうがいいと思う。だが、伊佐千尋『逆転』を読んで感動を覚えた者として言うのだが、本来なら市民は数が問題ではない。プロと張り合う市民でもない。たった一人の良心だけでもいいのだ。その意味で、市民の良心ができるだけ発現できる環境になればなんでもいい。
 くさすわけではないが、朝日新聞の人道ぶった基本認識は間違っている。

 狭い司法の世界に、市民参加という風を吹き込み、より信頼できるものに変えるのが改革の狙いだ。人の命運を分ける決定に責任を持ってかかわる。お上依存の社会を変えていく起爆剤にもなる。

 日本の場合陪審員制度にはならないが、裁判員は陪審員に近い。陪審員というのは、旧約聖書にあるように共同体の構成員が一人一人石を手にして、仲間を撲殺する責務を負うと言うことだ。私たちが自らの手で特定の人間を殺すという決意を表している。そういう基本的な正義と責務の感覚を養うための起爆剤でなくてはならない。
 話が散漫になるが、裁判員の問題は、朝日新聞社説があえて看過しているのかもしれないが、現状の日本社会ではたぶん無意味になるだろうと予想する。金にもならない裁判員に市民が嫌々気分なしに参加するだろうか(参照)。しないと思う。
 我ながらそう考えていやになるが、実際は、裁判員は2名程度。日本の裁判制度は対して変わらないというオチになるのだろう(ああ、憂鬱になる)。

追記

憂鬱になっていてもしかたない。とにかく実質的に機能できる制度ができれば、あとは裁判員を支援する各種の団体の活動に期待するしかないだろう。

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