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2003.09.29

夢路いとしの死に思う

 今日も目立ったニュースがないことになっているのか、新聞各紙社説はまばら。それぞれ悪くもなくどってこともなくという感じなのだが、ひとつ、つい「この愚か者!」とつぶいてしまったのが産経新聞社説「『昭和の日』法案 政局絡めず成立をはかれ」だ。なにも左翼ぶって昭和天皇の批判がしたいわけでもないし、「昭和の日」が国会の手順に則ってできるっていうならしかたないと思う。「海の日」なんてもっと愚劣なものもすでにあるのだ。愚かだと思ったのは産経新聞の歴史感覚の欠如だ。単純に昭和時代の天皇誕生日が4月29日だというだけしか念頭になく、4月28日の次の日であることに思い至らないのだ。もっとも産経新聞にとりまく、小林よしのりがいうところのポチ保守どもは、この日をサンフランシスコ対日講和条約発効による日本独立記念の日だとかぬかしているのだから、病膏肓コウコウに入るだ。4月28日とは国土と国民が分断された痛恨の日だ。昭和天皇は生涯この悲劇に思いを致していたことを考えあわせれば、彼がその翌日の4月29日を誕生日というだけの理由で「昭和の日」とすることを喜ぶわけがない。もちろん、国民が「昭和の日」を望むというのなら国民の歴史の感覚が失われていくだけだ。

 以上の文脈に摺り合わせる気はないが、漫才師「夢路いとし」の死で思ったことを書いておきたい。今朝のニュースで彼の訃報を聞いて、私はしばし呆然としていた。一番好きな漫談家でもあったからだ。彼は8月中には入院していたというし、詳細は知らないが78歳で肺炎というのは実質老衰といっていいのでのではないか。なにより、その歳まで生涯現役であったことは幸せというものだろう。そして、その幸せというのは、彼ら「夢路いとし・喜味こいし」の芸の完成でもあったはずだ。芸のなかで生涯を通せるということは、至難の業を越えて恐るべきことだとすら思う。もっとも、彼らの芸には微塵にもそういう側面は見せない。むしろ、最後の親鸞のごとく、話芸なのかボケなのかと戸惑うほど絶妙な間マというものの妙味があった。
 わざわざ再録されたメディアを購入するというほどでもないが、近年できるだけ機会があれば私は「夢路いとし・喜味こいし」の漫談を聞いた。日本語の溢れるばかりの豊かさが堪能できた。ただ、彼らの漫談は時代に合わせたせいか短いようにも思えたが、それが彼らには楽だったろうか、あるいはそういう短さも時代に合わせた芸のチャレンジだったのだろうか。いずれにせよ、その老いの姿は、言葉を弄することになるが、「聖なるもの」に近かった。彼らの誘う笑いのなかには、こういう言葉も当てはまらないのだが、正しい政治の批判力があった。昭和の時代、戦前戦後をなんとなく暗く思う風潮やとんちんかんなリバイバルもあるが、彼らの漫談の笑いが示す大衆の健全さは、昭和を通じて失われていなかったと思う。
 夢路いとし、78歳というのも感慨深い。誕生日がいつか知らないが、単純に考えれば、生年は1925年になる。おそらく大正だろう。三島由紀夫がその前年の生まれである。三島が市ヶ谷で内面老いというものに屈服しながら、最後の肉体の誇示と怒号を上げたころ、同じ歳くらいの夢路いとしも、ボケとつっこみであるがまだ若さの残る、毒のある漫談をしていた。文芸詳論家など三島文学をこねくりまわすが、時代が天才に強いるものを公平に見るには大衆から離れるわけにはいかない。
 三島の生年の前年1923年は遠藤周作の生年。翌年に吉本隆明が生まれ、その次の年に生まれたのが星一ハジメの息子星新一(参照)。1926年となり切りのいい昭和がやって来る。そして昭和の昭坊が続くというわけだ。時代は流れていく。それとともに戦争の感触が薄れ、そのことが昭和の感覚を失わせていく。私には、父の時代である大正という時代はヴェールの向こうだが、それでも向こうがまるで見えないわけではない。
 1921年生まれの山本七平は、息子良樹との往復書簡『父と息子の往復書簡』で、ニューヨークにいた良樹の友人(ジョン)が銃で撃たれた話で、さらっとこんなことを書いている。


ジョンが無事に回復に向かっているとのこと、何よりのことだ。私の戦場での体験では、急所をはずれた貫通銃創は、もし動脈を切断していなければ、回復は早い。銃弾は発射時の火薬の高熱で、完全に滅菌されているからだ。ただ戦場では化膿の心配があるが、ニューヨークならこの点では心配あるまい。

 戦争経験を語っているといえばそうだし、誇っているととれないこともないが、山本は単に銃弾で撃たれるということを日常の次元で語っているとみていいだろう。戦闘オタクならこうしたことは知識としては知っているだろうが、山本にしてみれば知識でもなんでもない日常の感覚の延長なのだ。それが戦争の感覚でもあり昭和の感覚でもある。
 1920年生まれの春風亭柳昇は三島由紀夫が自決した時代、やはりまだ若い毒のセンスに合わせて、トロンボーンを吹いていた。先日ふと、彼の『与太郎戦記』が時代から消えてしまう前に読み直した矢先、亡くなられた。私が一番好きな落語家だった。
 30年のという歳月が歴史をつれて人の全盛から死に至らしめる。あたりまえのことだ。そのあたりまえのこと、生きて死ぬということを、我々は次の世代に見せてあげなくてはならない。

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