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2003.09.21

野中広務は心情的に否定しがたい

 新聞各紙の社説が小泉再選を扱うのはしかたがないだろう。はなっから読む意味もあるまいとも思いつつ、ざっと目を通す。つんまないなと思うが、意外にどの社説も奇妙な陰影をもっているようだ。小泉政権をどう評価して良いのか、またその評価をどう社会に向けていいのか、困惑しているのだろう。一番つまらないんじゃないかと思っていた読売新聞の社説「小泉総裁再選 『圧勝』イコール挙党一致ではない」は、意外だが少しは考えさせるところがある。


 予想通り、小泉首相の圧勝だった。だが、国会議員の「反小泉」票は46%にも上った。首相も、浮かれてばかりもいられないだろう。
 自民党総裁選では、小泉首相の構造改革路線と経済政策の是非が最大の争点となった。「改革なくして成長なし」と構造改革を優先する首相に対し、挑戦した三氏はそろって景気対策重視の経済政策への転換を主張した。

 とはいえ、この文脈に「だから景気対策を重視せよ」が続くわけでもない。なにが景気対策なのかはっきりしないからだ。そう考えれば、小泉再選ということは、その「はっきりしない」ということかもしれない。
 具体的には、専門用語でいうところの「毒饅頭」をくらった青木が橋本派40人で寝返ったことが大きな要因だが、苦笑だね、そもそも国政に参院なんかいらないのだから。もっともそこまで小沢の威力に自民党がびびっているのかわかって面白い光景ではあった。
 これで橋本派つまり竹下派経世会が終わったといえるだろう。竹下の霊が怒って官邸付近に落雷したと野中は言ったが、これで野中の時代も終わった。と、言いつつ、些細な感覚だが奇妙に心にひっかる。その心情だけを率直に言えば、野中広務に武士の生き様のような共感を覚える、ということだ。おそらく文藝春秋から、本人による政界の暴露本のようなものが近く出版されるのだろうから、沈黙の美というものでもあるまい。それでも、今回の引退は負け惜しみというより、武士というものはこうして諫言に腹を切るものだという印象を受けた。ストリーは違うが山本周五郎の描く原田甲斐や阿部主水正といった人物を連想する。山本は大衆文学なのでやや甘っちょろいヒューマニズムをまぜてしまうが、政治のなかに生きる人間のある過酷さはうまく表している。
 野中が小沢憎しでぶちあげた村山政権は極悪なシロモノだったが、小渕と野中のタックのほうは、それがもう少し続けば、こんなに米国の尻に鼻を突っ込んだような現在の日本とは別の日本もありえたのかもしれない。
 拉致問題について野中が顧みなかったこと、外交面で中国寄りだったことなど、わかりきった批判はしやすい。だが、野中には国政を担う政治家としてそれなりの思いがあっただろう。週刊文春の手記を読めば、自身の政治家としてのありようが善だけではなく悪を含む自覚ももっていたこともわかる。私心を捨てて国政に関わる人間だけが果たさなければならない悪というものがありうる。
 私がもし、人間として野中と小泉のどちらが好きかと問われたなら、「そんな比較はやめてくれ、小泉は人間じゃねーよ」と答えたい心情がある。

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