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2003.09.14

コーラン(クルアーン)の背景を考える

 今週のニューズウィーク日本語版「神の啓示につけた疑問符」関連を書く。
 ニューズウィークは所詮米国系の雑誌なのであおりは「殉教者に与えられるのは『美女』ではなく『ブドウ』、コーランの誤りを大胆に指摘した新著が呼ぶ波紋」ということになる。著書は"Die Syro- Aramaeische Lesart des Koran. Ein Beitrag zur Entschluesselung der Koransprache(Christoph Luxenberg)"である。記事のオリジナルタイトルはこうだ。


"Challenging the Qur'an: A German scholar contends that the Islamic text has been mistranscribed and promises raisins, not virgins"

 というわけで、「コーランの誤り」というのは日本語版ニューズウィークの物騒なタイトルは悪意ある誤訳なのか、編集者の見識が低いのか。もともと英文のほうは、7月28日の掲載だったので、日本版ではもう掲載されないのかと思っていたが、今頃出てきた。なぜだろう。ただのボケ?
 話は、現在のコーラン(クルアーン)は、マホメット(ムハンマド)死後150年後に編纂されたもので、元になった資料はアラム語で書かれていたとするドイツ人学者クリストフ・ルクセンブルグ(Christoph Luxenberg)が5月にドイツで出した新著を、「だからぁコーランは誤訳だよ」というトリビアの泉的なおちゃらけにしている。とはいえ、コーランの起源がキリスト教であるという指摘は見落としていないので、ま、よく書けた記事だろう。
 この話題、日本人にはどう受け止められているだろうか? 「52へぇ~」くらいだろうか。日本人の他宗教への意識を考えればその程度だろう。反面、日本は反欧米意識からイスラムに荷担する知識人が多いから、この手の話題は無視を決め込むだろうか。そんなあたりが日本人らしい奥ゆかしさかもしれない。
 多少キリスト教の見識のある人なら、イエス・キリスト(ナザレのイエス)が話していた言葉がアラム語であることを知っているはずだ。というあたりで、中近東の文化だなぁっていうくらいの感慨は持つかもしれない。だが、少し推論してもわかるはずだが、新約聖書やギリシア語で書かれている。だが、このギリシア語はコイネー・グリークと呼ばれるギリシア語なのでプラトンなどの古典ギリシア語とは多少(あるいはかなり)違う。ヘレニズム側ではパウロ(タルソのサウロ)の拠点だったアナトリア側はコイネー・グリーク圏なのだが、アラビア半島側はアラマイック(アラム語)圏だった。という話をすると長くなりそうなので、急ごう。
 新約聖書の共観福音書には聖書学仮説で通称Qという原資料があるとされ、これはアラム語だろうということは定説になっている。そのわりに、Qを完全にアラマイックに復元する作業はなぜか聖書学的には中断されているようだが、それでもかなりの知見はヨアヒム・イェレミアスによって明らかにされているが、彼のアラム語研究に比して神学がけっこうポンコツなので今日あまり顧みられていない。という話をすると長くなりそうなので、急ごう。
 いずれにせよ、アラビア半島側ではその後もキリスト教は生き延びるわけで、そうした一旦は現在のエジプトのコプト教会(コプティック)5に残っている。現在のなぁなぁ的なエキュメニズム*6がキリスト教を覆った現在では、東方教会にも分類されない部分は事実上無視されているが、こうした性格を持つ初期教会の一つネストウリウス派はアラム語をベースにペルシア側に拠点を置き、チンギス・ハーン時代にはユーラシア全域を覆っているのだから、歴史学的にはアラム語ベースのキリスト教はかなり大きな意味を持つ。ちなみに、チンギス・ハーン本人もキリスト教徒であると強弁してもそれほどトンデモ説にはならない。彼の主君オン・ハーンは明白にキリスト教徒だったし、チンギスの「天」意識はこのタイプのキリスト教と同系かもしれない。ちなみに、フビライ・ハーンの母ソルカクタニ・ベギはオン・ハーンの姪でキリスト教徒である。
 ムハンマドも非ヨーロッパ・キリスト教でかつ非ユダヤ教的なアラム語圏のキリスト教の流れに位置していたのだろう。非イスラム教徒は「アラーの神」という言い方をするが、これは誤解に近く、単にアラマイックの神呼称だ。ナザレのイエスの神も「アラー」でもあったわけだ。
 さて、興味の尽きない話題だが、こうした歴史の議論はイスラム教徒には受け入れられないことだろう。
 宗教の問題は難しいものだ。争いのネタになる。日本人は、「各宗教がそれぞれを尊重し合って仲良くするのがよい」という他の宗教者が受け入れられない聖徳太子憲法的な絶対的な宗教観をのんきに普遍だと思っている。日本人は1991年、『悪魔の詩』の邦訳者筑波大学五十嵐一助教授が大学構内で惨殺されたことの意味も考えないし、もう済んだことになっている。というふうに日本人の宗教観に毒づいても「しかたがない」と思う私もただの日本人でしかない。

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