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2003.09.30

JR中央線工事にミスに思うこと

 毎日新聞社説「中央線トラブル できない約束した罪深さ」を読みながら、もどかしいようなひっかかりを感じた。事態は出だしのとおりだ。


 東京都のJR中央線で行われた線路切り替え工事にミスがあり、運転再開が8時間近くも遅れて約18万人が影響を受けた。突発的な事故ならともかく、計画的な工事でダイヤを混乱させた責任は重い。JR東日本はもちろん国土交通省も原因を究明し、再発防止に万全を期してほしい。

 ただ、その先の次の文脈の糾弾は変な感じがした。

 影響を受けた利用者の中には記念の旅行をあきらめたり、親の死に目に会えなかった人もいたことだろう。関係者には、公共輸送を担う気概と責任感が希薄ではなかったか。

 たしかに親の死に目に会えなかった人もいるだろうと思う。記念の旅行がふいになった人もいるだろうと思う。だが、そういう心情的な修辞を新聞の社説に書くか? そういう怒りを述べていいのはその体験者だけではないのか。新聞の社説っていうのは以前からこんなものだっただろうか。以前は違っていたと言いたいわけでもないが、私には街の風景が急に変わったような奇妙な感じがする。
 暴論に聞こえるかもしれないし、ひどい目にあった人には思いやりのない言い方もしれないが、鉄道のトラブルがなくても親の死に目に会えないことがあるし、記念の旅行がふいになることもある。人の人生というのはそういうものじゃないか。今回の高架切り替え工事はけっこう大がかりなものなので、ミスが起こることはしかたがない。毎日新聞は些細なミスだといいたいようだが、システム規模が大きくなるにつれ些細なミスが起きるものだ。
 まして今回の事故はまるで予想されなかったほどでもあるまい。過度に交通システムに依存する我々の生活がどうかしているのではないかとすら思う。
 実は私事だが今回のトラブルに私も立ち会った。私の場合はほぼ無意味な一日だし、事故は織り込み済みなので、そんなものかなと駅の様子を見ていた。見ていた範囲ではそれほど大きなトラブルという感じは受けなかった。そしてなんとなく以前インドを旅行したことを思い出した。車に乗っての移動だったが、目前の踏切で列車事故。なんてこったと思った。しばらくすると、かなりの人が集まりだした。もちろん列車からも人が降りてくる。すると、こともあろうか屋台まで出てくるのだ。臨時バザールといった感じだ。わきあいあいというのだろうか。私も屋台のミルクティを飲みながら、どっかから来たノラ牛を見ていた。あいつがうんこをすると燃料用にと拾いにくる子供がいるだろうとか思っていた。列車はそれほど待たされもせず動き出したように記憶するが、それでも3時間くらい経っていたかもしれない。

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2003.09.29

夢路いとしの死に思う

 今日も目立ったニュースがないことになっているのか、新聞各紙社説はまばら。それぞれ悪くもなくどってこともなくという感じなのだが、ひとつ、つい「この愚か者!」とつぶいてしまったのが産経新聞社説「『昭和の日』法案 政局絡めず成立をはかれ」だ。なにも左翼ぶって昭和天皇の批判がしたいわけでもないし、「昭和の日」が国会の手順に則ってできるっていうならしかたないと思う。「海の日」なんてもっと愚劣なものもすでにあるのだ。愚かだと思ったのは産経新聞の歴史感覚の欠如だ。単純に昭和時代の天皇誕生日が4月29日だというだけしか念頭になく、4月28日の次の日であることに思い至らないのだ。もっとも産経新聞にとりまく、小林よしのりがいうところのポチ保守どもは、この日をサンフランシスコ対日講和条約発効による日本独立記念の日だとかぬかしているのだから、病膏肓コウコウに入るだ。4月28日とは国土と国民が分断された痛恨の日だ。昭和天皇は生涯この悲劇に思いを致していたことを考えあわせれば、彼がその翌日の4月29日を誕生日というだけの理由で「昭和の日」とすることを喜ぶわけがない。もちろん、国民が「昭和の日」を望むというのなら国民の歴史の感覚が失われていくだけだ。

 以上の文脈に摺り合わせる気はないが、漫才師「夢路いとし」の死で思ったことを書いておきたい。今朝のニュースで彼の訃報を聞いて、私はしばし呆然としていた。一番好きな漫談家でもあったからだ。彼は8月中には入院していたというし、詳細は知らないが78歳で肺炎というのは実質老衰といっていいのでのではないか。なにより、その歳まで生涯現役であったことは幸せというものだろう。そして、その幸せというのは、彼ら「夢路いとし・喜味こいし」の芸の完成でもあったはずだ。芸のなかで生涯を通せるということは、至難の業を越えて恐るべきことだとすら思う。もっとも、彼らの芸には微塵にもそういう側面は見せない。むしろ、最後の親鸞のごとく、話芸なのかボケなのかと戸惑うほど絶妙な間マというものの妙味があった。
 わざわざ再録されたメディアを購入するというほどでもないが、近年できるだけ機会があれば私は「夢路いとし・喜味こいし」の漫談を聞いた。日本語の溢れるばかりの豊かさが堪能できた。ただ、彼らの漫談は時代に合わせたせいか短いようにも思えたが、それが彼らには楽だったろうか、あるいはそういう短さも時代に合わせた芸のチャレンジだったのだろうか。いずれにせよ、その老いの姿は、言葉を弄することになるが、「聖なるもの」に近かった。彼らの誘う笑いのなかには、こういう言葉も当てはまらないのだが、正しい政治の批判力があった。昭和の時代、戦前戦後をなんとなく暗く思う風潮やとんちんかんなリバイバルもあるが、彼らの漫談の笑いが示す大衆の健全さは、昭和を通じて失われていなかったと思う。
 夢路いとし、78歳というのも感慨深い。誕生日がいつか知らないが、単純に考えれば、生年は1925年になる。おそらく大正だろう。三島由紀夫がその前年の生まれである。三島が市ヶ谷で内面老いというものに屈服しながら、最後の肉体の誇示と怒号を上げたころ、同じ歳くらいの夢路いとしも、ボケとつっこみであるがまだ若さの残る、毒のある漫談をしていた。文芸詳論家など三島文学をこねくりまわすが、時代が天才に強いるものを公平に見るには大衆から離れるわけにはいかない。
 三島の生年の前年1923年は遠藤周作の生年。翌年に吉本隆明が生まれ、その次の年に生まれたのが星一ハジメの息子星新一(参照)。1926年となり切りのいい昭和がやって来る。そして昭和の昭坊が続くというわけだ。時代は流れていく。それとともに戦争の感触が薄れ、そのことが昭和の感覚を失わせていく。私には、父の時代である大正という時代はヴェールの向こうだが、それでも向こうがまるで見えないわけではない。
 1921年生まれの山本七平は、息子良樹との往復書簡『父と息子の往復書簡』で、ニューヨークにいた良樹の友人(ジョン)が銃で撃たれた話で、さらっとこんなことを書いている。


ジョンが無事に回復に向かっているとのこと、何よりのことだ。私の戦場での体験では、急所をはずれた貫通銃創は、もし動脈を切断していなければ、回復は早い。銃弾は発射時の火薬の高熱で、完全に滅菌されているからだ。ただ戦場では化膿の心配があるが、ニューヨークならこの点では心配あるまい。

 戦争経験を語っているといえばそうだし、誇っているととれないこともないが、山本は単に銃弾で撃たれるということを日常の次元で語っているとみていいだろう。戦闘オタクならこうしたことは知識としては知っているだろうが、山本にしてみれば知識でもなんでもない日常の感覚の延長なのだ。それが戦争の感覚でもあり昭和の感覚でもある。
 1920年生まれの春風亭柳昇は三島由紀夫が自決した時代、やはりまだ若い毒のセンスに合わせて、トロンボーンを吹いていた。先日ふと、彼の『与太郎戦記』が時代から消えてしまう前に読み直した矢先、亡くなられた。私が一番好きな落語家だった。
 30年のという歳月が歴史をつれて人の全盛から死に至らしめる。あたりまえのことだ。そのあたりまえのこと、生きて死ぬということを、我々は次の世代に見せてあげなくてはならない。

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2003.09.28

マイクロソフトとトロンの「和解」なのか

 人のブログをちらちらと散見しながらマイクロソフトとトロンの和解という話(参照)がなんとなくひっかかった。と言いつつ人のブログをあまり読むほうではないこともあり、どういう意見が飛び交っているのかわからない。ふと気になって2ちゃんねるも覗いてみたが、ようと知れず。ただ、なんとなく思ったのだが、時代のせいなのかな、なにか若い人にはこの問題の歴史感覚がなく、プロジェクトX的に再構築された物語が歴史に置き換わっているようだ。
 そういえばプロジェクトXでトロンを扱った話があって、たまたま見たことがある。これってお笑いなのかという意味では楽しめたが、Cトロンへの言及がないのは仕方がないとしても、BトロンとIトロンをごっちゃにしていた。Bトロンについては、当時を思い出すに松下なんかがちょっこし市販マシンを作っみたが、端から市場の相手にされていなかった。トロンキーボードはトリビアの泉ネタかも。いずれにせよ、別に、マイクロソフトがどうという問題でもない。思い起こすに、CDOSやDR-DOSなんかもMS-DOSに劣るわけでもなく、DOSの歴史から言えばそっちのほうが正統なのだが、あまり利用されなかった。理由はMS-DOSがパソコンの事実上おまけになっていたからだ。その意味では、Bトロンも無料配布すればよかったのだろう。とはいえ、Squeak(参照)の例からもわかるように、優れたシステムが無償でも市場で人気になるわけでもない。
 反面Iトロンは日立がH8/H16/H32などシリーズなどできちんとフォローしていたせいもあり、よく利用されていた。なんせ実質無料のリアルタイムOSなのだから。といいつつ、さすがにカシオのQV-10に採用されていたときは隔世の感があった。これにJavaが乗っかればけっこうなものじゃんかと思ったが、実際DoCoMoで実現してみたけど、市場はぱっとしなかった。技術がどうというより、市場の問題だ。トロンベースの超漢字がいいっていったって、市場はすでにユニコードじゃん。ユニコード批判とか一部で偉そうに日本語問題とからめて議論されているけどみんなgoogle使っているじゃんか。実際にgoogleがユニコードベースなんでアジアの漢字情報はけっこう統合できている、ってなことを書くと批判されるか。そもそもこんなとこそんなに読まれているわけじゃないが、それでも、日本語がという文脈じゃなくて康煕字典の編纂の意図のほうを歴史的に継承したのはユニコードだろう。
 話が散漫になってきたが、かくつらつら思うに、マイクロソフトとトロンの和解と言われてもなんだかな、である。ここでトロンと言われているのはIトロンだし、マイクロソフトという文脈で語られているものJavaをパクった.NET(ドットネット)だし、.NETの展開から言えば、別にどってことないじゃん。ただ、物語が事実になっているセンター試験世代にはちょっとショウアップすると受けるかとマイクロソフトの代理店もやっていたアスキーの古川亨が…、もとい、マイクロソフトの古川亨が思った、ということか。彼がゲイツ3世にお伺いをたてたとき、3世はexcitingって言ったらしい。おい、それじゃバシャールだよ。
 話がまとまらないが、マイクロソフトとトロンの和解といっても、別になんのニュースでもないと私は思う。こういうのがニュース扱いになるプチナショナルな、物語再構成な時代ってなんだろ。小林よしのりの戦争論なんかもけっこうその口だな。島尾敏雄とか生きていたら、なんて思うだろう。小林秀雄が生きていたら、福田和也みたいなのをなんて思うだろう。通じないだろうな、米国帰りの30代の江藤淳と小林秀雄の対談とか読み返しても、あの時代ですでに話がまるで噛み合っていない。その後の江藤淳もけっきょく小林秀雄の青春と晩年を結びつけるものが見えていなかった。と、ま、歴史っつうもんですか。
 パソコンの世界に話を振って終わりにしたい。今のパソコンはとっても使いづらい。Windows XPに至ってはなんじゃいなぁである。Cygwinでも入れようかな。日本語処理はどうなっているんだろう。ActivePerlは使いづらいし。シフトJIS対応のAWKがあればいいだけか。ああ、自分がロートル化している。

追記
 トロンに外圧なんかあったのかよと思ってネットを見渡したら「トロン外圧の嘘と事実」という記事があった。対談形式なので話が錯綜して、しかもトロン贔屓が目立つが、参考になる。私は古木護というフィクションの意見に近い。ただ、この記事、時代の制約もあるのかもしれないけど、「アメリカがその気になれば、石油と食料を止めれば…」っていうアメリカ認識は間違い。余談だが、パーソナルメディアがさぁ…とわずかに古い私恨を思い出す。
 CEATEC JAPAN 2003レポート「坂村教授、講演前に異例の『FAQ』」(参照)を読んで…爆笑と言いたいところだが、とほほになった。私は坂村の肩を持つ。しょぼい噂がうずまいていたのか。


リアルタイムOSとPCなどに使われる情報処理系OSはそもそも目的が異なることを再度解説し、「何度も言っているが、TRONとWindowsが戦うとか、TRONとUNIXが戦うとかいう話はおかしい。それは極端に言えば自動車と飛行機の戦いのようなもの。マーケティング的な戦いはあるかもしれないが、技術的な戦いはない。情報処理系のOSはリアルタイム処理には限界があるので、それにリアルタイムOSのカーネルを供給するのは自然なこと」と重ねて説明。TRONとWindowsが融合することは、情報機器の技術的な進化の上では何ら不思議なことではないと強調した。

 そんな当たり前のことが通じない世界っていうのは、うんざりするよ。とはいえ、マスコミの物語にそれまで乗ってきた階上に昇ったのだから、ハシゴを外されて怒ってもしかたないかも。

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2003.09.27

[書評]免疫と腸内細菌

 昨日買って読んだ『免疫と腸内細菌 平凡社新書 195』が存外に面白かった。日本の健康食品は冗談としては面白いが身近なものが実践したりすることがあるので、気が気でない。イチョウ葉の焼酎漬けなど危険なのだが、実践者はみのもんたが健康に良いと言っていたとか答える。反面、インテリぶった医者は健康食品を馬鹿にするのはいいのだが、栄養学の基礎も知らないし、ドイツのコミッションEなどの動向も知らないことがある。同じく無知なのだ。『買ってはいけない』をきれいに批判したお勉強屋さんの日垣隆ですら、お勉強のノリで『「食べもの情報」ウソ・ホント―氾濫する情報を正しく読み取る』なんぞをまっとうな見解だと賞賛する。中途半端なお勉強ではわかりづらいことなのかもしれない。それでも、著者高橋久仁子の論文の読み方は偏向していることくらいはわかりそうなものだしし(参照)、最近まで妊娠なども専門分野でありながら葉酸についての言及もなかった。栄養補助食品教育法案(DSHEA)も理解していないのではないか。
 悪口のようだが、高橋久仁子は近著「『食べもの神話』の落とし穴」でようやく若干葉酸に触れるようになった。が、こちらの本の内容はさらにたちが悪い。米国での栄養強化食品における葉酸の義務づけの意義にはほっかむりしくさるし、脂質栄養学会の提言と業界保護命厚労省との軋轢などもすらっとぼけていやがる。米国であれだけ問題になったトランス脂肪酸についても言及は無し。なんとことはない高橋久仁子のような学者が結局現代日本の食を混乱させているのだ。
 余談が多くなったが、『免疫と腸内細菌』を手にしたときもあまり期待していなかったが、良い意味で期待は破られた。日垣隆のようにお勉強屋も悪くないかと思わせるほどだ。いくつか知見を得た。以下、文学書の批評でもないし、フランス現代哲学のデリダに関心があるわけでもないで、私がお得だと思った知見を列挙しておこう。

全身のリンパ球の60%は腸管に集中

 それほど意外でもないじゃんと思えないこともないが、明確に数値として過半数を超えているのをこれまで熟知していかというとそうでもない。リンパ球がここに集中しているため、全抗体の60%も腸管で作られる。そういえば、『免疫革命』にはこうした言及はなかった。この事実が意味するものは、と考えると安易な結論を導いてはいけないが、腸官の状態は免疫に重要な意味を持つことがわかる。

食品アレルギーが起こるのは経口免疫寛容の異常

 これも当たり前といえば当たり前だし、また、事実(現象)の反面しか捕らえていないのだが、それでも腸の経口免疫寛容が重要なキーになることは確かだ。それに、そのくらいにしか期待が持てない。そして、経口免疫寛容は腸内フローラの状況が関係しているらしい。詳細には経口免疫寛容でT細胞が抑制されるからなのだが、印象だが、その状況は悪機能することもあるだろう。
 なお、経口免疫寛容に補足する。体に必要な異物に過剰な免疫応答を起こさないように抑制する仕組みが免疫寛容。腸管内の食物や腸内細菌に免疫寛容が起こることが経口免疫寛容。一般的に寛容のメカニズムは、3点ある。[1]抗原を認識するリンパ球が細胞死(アポトーシス)を起こす。[2]リンパ球が抗原を認識しても活性化しない状態をオンにする不活性化(アネルジー)。[3]抑制性T細胞の働き。

腸内有害菌は有益

 ちまたの健康常識では善玉菌と悪玉菌といったゾロアスター教説が多いが、単純にそういう区分はできないようで、悪玉菌と呼ばれている有害菌は免疫の発現に関与しているらしい。

腸内フローラの状況は免疫が基本的に決定している

 これの知見は少し虚を突かれたように思った。我々は通常、腸管を食物が通る管というくらいにしか思っていないしそれで間違いでもないのだが、そう考えるがゆえに腸内フローラを食品と関連付けて考えすぎていた。逆だ。このフローラのバランスは基本的に免疫側で制御されているらしい。もちろん、先に経口免疫寛容にフローラの影響があると書いたように、相互作用はある。詳細ではMHCが具体的に利用されているのには驚いた。

腸内菌はどこから来るのかわからない

 トリビアの泉のような話だが、どうやらそうらしい。この問題は私も以前から疑問だったのだが、そう簡単には解けそうにもない。いずれにせよ、単純に腸内菌を食品として入れればいいわけでもないようだ。

結核菌がアレルギーを抑制する

 これもどってことない知見のようだが、改めて考えなおした。20世紀の医療というのは基本的に結核との戦いであり、このこの歴史の真相は通常は抗生物質の勝利とされているが、実態は栄養状況にある。いずれにせよ、医学は結核撲滅で終わったのだが、その時点で成立した医療行政は変わらない。日本の厚労省がとくにひどい。

専門家でも日本の乳酸菌健康食品好きが理解できない

 皮肉な命題にしてしまったが、なぜ日本で乳酸菌健康食品がこんなに発達しているのか理解できない、という率直な見解を読んで面白かった。恐らく、メチニコフ学説が日本に導入された時代を専門家にしても十分に知らないとしか思えない。批判しているのではない。日本人とメチニコフ学説はきちんと歴史的に整理しなくてはならない。だが、実際問題としてはヤクルトへの批判のように受け取られることもあり、実名ではやりづらい。唐沢俊一や荒俣宏にも期待できないし…。

 以上で終わるが、この本は書籍としての編集がだいぶ入っているのがわかるという意味で力作だった。もっと期待したいこともあるので、この著者の本を読むことになるだろうが、個別には以下のことが知りたい。


  • 北欧のプロバイオティックス研究の実態
  • 腸内フローラと脂肪酸の関係(ありそうだ)
  • ポリー・マッチンガーのお宝写真

 もちろん、最後の要望は冗談である(ここにあった。参照)。

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2003.09.26

WTOカンクン会議を考え直す

 昨日、今週の日本語版ニューズウィークを読みながらWTOカンクン会議について思ったこと少し書いておきたい。
 WTOカンクン会議について日本の新聞の社説レベルでは日本孤児論か、先進国は譲歩せよといった思考停止の意見ばかりなのは、問題が日本社会にうまく捕らえられていないからだろう。あるいは左翼主張の変奏曲なのか、単純にWTO氷結といった代替のない政治運動も目立つ。
 WTO投資協定を問題視するのはいいとしても、その問題が具体的に途上国の政府の施策と噛み合う方法論をもっていないので、単なるアナーキズムか、反グローバルを装う超国家志向になってしまう。それでは現実的ではないし、眼前の貧困問題に対処できなくなる。どこでいつ妥協するのか。その交渉のポイント探しは、従来のように米国に甘えられるグローバリズムが実質的に崩壊した現在、むしろ途上国側の政府に求められている。
 今回のカンクン会議は、ニュース的には、韓国人の反対運動などが目立ったものの、従来ありがちな「米国的グローバリズムによって地球と途上国の生活環境を破壊するWTOに反対しよう」という無知性な反対は少なかったようだ。なのに、完璧に会議が失敗に終わった、ということの評価は、ジェフリー・ガーデンの記事「火だるまの新ラウンド(Going Up in Flames)」が、それなりによくまとめている。すべての国が敗者となった、という指摘の強調と今後の期待を込めるあたりは重要だろう。もっとも、中国への期待はブラックジョークに近い。
 同記事で扱われているように、WTOへの反対姿勢は発展途上国に不利だから、というのが従来までの理由付けだった。だがカンクン会議では、米国やEUの強国志向かつ内政志向の問題もあるとはいえ、会議の実際局面ではむしろインドとブラジルの攻勢が強すぎたことが失敗の原因だ。ただし今回の事例をもって、インドとブラジルを夜郎自大だというふうに責めるわけにもいかないだろう。実質WTOの破綻からFTAに向かうことで、世界が新しくブロック経済化となりつつある現在、いずれそうした寂れた商店街組合的な勢力が出てくるのは避けられない。
 と、曖昧なことを書きながら、ちょっと危険な思いがよぎる。暴論かもしれないのでこっそり言うと、NPOが国家間の問題に入れ知恵や口出しするのが間違いなのではないか。結局NPOといってもその実態は先進国ベースの組織なのでその存在とインテリジェンスは途上国政府を圧倒してしまう。NPOは小国家より強力な政治力になりつつある。むしろ、NPOと途上国とのプラクティカルな協定が必要なのではないか。
 一般論でお茶を濁すようだが、なにごとでも事態に反対するという勢力の結集はたやすいが、それではなにも生まれないし、そうすることで温存されていく権力はより危険性を増すのだ。
 綿をつむぐ貧困国の農民にはフェアなトレードが求められるが、それにはちんけな義捐金を伴うヒューマニズムではなく、本当は適正なマーケットが必要なのであり、厳格にグローバルなルールが必要になる。ローカルルールは結局、より不平等な人をダシにしてマーケットを否定することで、構造的な不平等と一部の人の利益を生むだけだ。

追記

 あとで気が付いたのだが、カンクン会議について田中宇が記事を書いていた(参照)。なんだコレ?というのが率直な印象。特に以下の議論はめちゃくちゃ。単純な悪口になるんだが、頭悪いなぁ。そこまでして笑いを取るか。


 WTOで先進国の農業保護政策がやり玉に挙げられるのは、先進国が国内農産物市場を開放すれば、その分だけ途上国が農産物の輸出を増やすことができ、不当な南北経済格差を減らせるという理屈に基づいているが、これは必ずしも正しくない。たとえば、韓国や日本がコメ市場を開放すると、まず入ってくるのは日韓の消費者の口に合う銘柄を開発してきたアメリカとオーストラリアのコメである。これでは途上国を助けるどころか、日韓が安全保障だけでなく食糧面でもアメリカの属国になる傾向を強めるだけだ。

 馬鹿を言っちゃいけないよ、WTO問題は日本のコメ問題じゃないよと言いたいところだが、それ以上説明するのがかったるい。商品の流動性の基本だとか大豆GMOなんかも触れなくていけないしな。と説明を省くのが私の悪い点だな。逆に、田中宇はフツーの文章でも『細野真宏 経済のニュースがよくわかる本』みたいに基礎からちゃーんとお猿にもわかるように書くという点でプロなんだと思う。
 でも、結局、田中宇は何が言いたいのだ? ブラジルやインドのG21に希望を持つ? よくわかんないです。
 10月2日、アフリカ開発会議(TICAD)についてふれていた日経新聞社説「アフリカの農業に市場を」がよかった。結語は以下。

 今回の会議でもウガンダのムセベニ大統領らはアフリカがモノを作っても国際的な市場が開放されていなければ意味がないと強調した。ODA供与が途上国支援のすべてではないことを改めて認識しておきたい。

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2003.09.25

地震予告とその後のこと

 話題は先日の地震予知のその後の話だ。9月12日に書いた追記が多くなったので、今日の分にまとめておこうと思う。
 話のつなぎで言えば、今回、騒動の元になった串田嘉男の地震予知は当たるのではないかと思っていた。私はそれを判断するだけの器量はない。ただ、阪神大震災のおり、米国ニュースが奇妙に関東大震災に関心を持っていることから、日本の株式を実質握っている外人株式投資家にはこのインテリジェンスが存在しそうだなと考えていた。そこで、私としては地震予知の精度は株価に織り込まれるだろうと想像していた。
 現在の心境からすると、関東大震災はけっこう予知できそうなので、今後はもっと信頼するだろう。
 以下は、過去のおりおりの時点のメモ(追記)の再録だ。

9月16日9:30am

 株価の異常はない。ちと早い追記だが、ネットでの地震情報サーチが盛んで、このブログも地震の情報源になりかねない。というわけで、間違ってこんなとこ見た人は以下へ直行。

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/8896/hannou.html
http://epio.jpinfo.ne.jp/

 それと訂正。「発表によると発生の確率は60%。」と書いたが、そんな公式発表はないらしい。週刊朝日の取材能力を徹底的に疑うべきだった(週刊朝日だものね)。

9月20日12時

 ま、地震は来ませんでした。我ながら苦笑っていうかテレるが、この数日、東京が崩壊する幻想で甘美な思いをしたので、それはそれでヨシかな。一連のオウム事件のおかげでノストラダムス予言がおちゃらけになったように、今後は地震予想はおちゃらけになるだろう。串田氏の研究については、社会的にはだからボツっていうことになるだろうが、FM電波の計測についてより精密な研究が進むとよいのではないかと思う。率直な印象を言えば、私はこの手法は地震直前の予測が可能なのではないかと思っている。地下に巨大なエネルギーが充溢してカタストロフを迎える時期にはなんらかの影響は出だろう、と。

9月20日13時20分

 ありゃ、来ちゃいました。震度4。震源は千葉県東方沖M5.5なので、串田予測が当たったのかビミョーだが、これで9月20日12時の追記で書いたように串田予測がお笑いとは言えなくなるんじゃないか。つまり、地震が怖いのはこれからってことか。

9月23日

 その後、串田氏は予測の誤りを公表しているというので雑見。その考察を先にやっておけよ、と言いたくもあるが、あながち地震予測を外したというものでもないようだ。この間、「くるぞーくん地震予兆電磁波観測」(参照)という同種のサイトの情報を読んだが、20日の地震をかなり正確に当てていた。率直な感想だが、FM波観測は現状一番関心を寄せていい地震予想なのだと思う。

さらに追記

9月26日

 まさかさらに追記するとは想定していなかったが、今朝の釧路沖の地震は、概ね「くるぞ~君」の信頼度を増す結果になって驚いた。予想では盛岡・仙台方向に不穏な状況ということだったが、北海道だった。くるぞ~君のHPでは観測地点が北海道にないことが精度を上げられなかったこととしていた。そうだろうなと思う。

10月5日

 その後、NHK「あすを読む」で関東南部の直下型地震についての解説を聞き、基本的なことを自分が理解していないことに気が付いた。M8レベルの、関東南部の周期は200年。ということは、プレート移動の隣接で起きるタイプの関東大震災はまず私の目の黒い内には来ない。ただ、M7レベルの直下型は断層で発生する可能性はある。阪神大震災がこれだ。この直下型地震の周期は活動期に入ったと見ることもできる。串田嘉男がM7にこだわったのは阪神大震災が念頭にあったのだろうが、我々は関東大震災のイメージで捕らえていた。もちろん、阪神大震災も被害は甚大だったが、地震の理解を混同していた。また、その意味で、串田予測で使うFM波観測はある程度有効だろうが、直下型地震という意味では発生地域を大きく外していた。くるぞー君のほうがやや精度が高いようだが、それでもその地点を当てたわけではない。活断層の地理データを総合する必要があるのだろが、ぶっそうな話になるのだろうか。

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2003.09.24

貧困の問題は贈与では解決しないだろう

 朝日新聞社説「貧困撲滅――小泉さんも、菅さんも」の内容はくだらない、というか左翼の知性も劣化しているなというだけなのだが、世界の貧困について最近気になっていることがあるので少し書いてみたい。話の分類は「環境」ということだが、私はエコ派ではないが、偽悪的にならなければ、環境に関心を持っているのは確かだ。
 朝日新聞社説の冒頭を読んで「あれ?」と思った。こういう言い方がまだ通用するというか、まだ一般的な社会言説なのだろうか。


 地球上の5人に1人、約12億人が1日1ドル(約112円)未満で暮らすという極貧にあえいでいる。その割合を2015年までに半分にしよう。5歳未満の子どもの死亡率を3分の1にし、すべての子どもに初等教育を保障しよう。

 今さらバカなこと言うなと言われそうだが、貧困とは何か? ちょっと率直に朝日新聞に訊いてみたい気もする。この文章を読む限り、その12億人の生活費を5ドルくらいまでアップすればいいのか? この先の文脈をみると、そうとしか思えない。
 覚えている方もおられるだろう。3年前の9月、21世紀の幕開けを記念する国連首脳会議で宣言されたミレニアム開発目標(MDG)の一節である。戦乱と破壊の前世紀を反省し、先進国と途上国が力を合わせて、地球を揺るがす根源の問題である貧困に取り組むことを確認し合ったのだ。
 曖昧に書いてあるが、このおり日本は貧困撲滅などに数値目標が必要だとしているし、この話は今回の朝日新聞社説にも盛り込まれている。で、よーするに「金」ということなのか? つまり資本主義的なマーケットを否定してただ贈与せよ、と。政治的にはアホーな坂本龍一なんかも政治的には悪辣な浅田彰の尻馬にのって、第三世界の債務を消せなんて言っている(だったかな、浅田彰はそんなしっぽは出さないか)。おい、それでいいのかという感じだが、ボケまくってしまうちと手前の吉本隆明など明確に贈与しろと言っていた。そんなのが世界システムなのか? ウォーラスティンはなんて言っている…って、ウォーラスティンみたいに国際間の労働力の移動を無視している左翼っていうのは実際には労働者を国家経済に収監するアホーなんだが。
 くさしが長くなったが、単純な話に戻して、貧困という問題はそういう先進国からの贈与ということなのか。違うだろう?
 朝日新聞社説の冒頭の話に戻れば、死亡率や初等教育の充実も含まれている。それらを贈与に還元することが「貧困」の問題に取り組む知性にとって想像力という最大のツールを無化させてしまう。もっと言う、あえて言う、「貧困」が先にあるのではないし、「貧困」に問題を収斂することは間違いなのではないか。貧困は世界の貨幣経済のシステムの、おそらく必然的な従属だろう。そうではなく、福祉と教育を従属させ、かつ伝統文化と伝統社会のとの整合を必要とするなにかが求められている。極論すれば、貨幣はゼロでも人が幸せに生きられるシステムはなにか?
 補助線を引きたい。通常、貧困というとき、思想的なたくらみとしては上のように貨幣経済の問題に還元されるが、イメージとしては「飢餓」がある。今、世界はどれほど飢餓に瀕しているのか? 数字的には10億人定度ではないか。ところが、世界の肥満の人口は20億人近い(IOTFによればBMI25以上は17%)。WHOは肥満を発展途上国も含めた世界規模の疫病だとしている(参照)。
 これはいったいどういうことか。単純に考えれば、現状の世界の食糧をシェア(共有)すれば問題は一気に解決するのではないか。また、現状の肉食を菜食にシフトすることで、人類の食料はもっと増えていくはずだ(参照)。だが、反面飢えを短期間で満たすには工業化された食品のほうが簡単だ。実際、発展途上国では伝統的な食ではなく工業化された食の優位ということが起きている。
cover
患者の孤独
 暴論に聞こえるかもしれないが、食のシェアが進まないことや食の内実が変化しない理由は、世界の一部があたかも資本主義のように富を独占しているからではないだろう。人類全体の食のシステムが人間に合っていないのだし、その間違いは先進国だけにあるのではなく、未開発国にも潜在的にある。
 さらに暴論を重ねるようだが、同じことが初等教育にも内包されている。先進国の教育モデルは人を幸せにするだろうか。日本のように初等教育が完璧になった国ですら社会正義の意識は大衆に根付かない。おそらく医療にも同じ問題含まれているだろう。結核を根絶した20世紀の医療で、実は医療は終わっている。医学の先端は医療から乖離するのがその本質なのではないか。「患者の孤独」(柳澤桂子)を多くの人に勧めたい。現代の最先端の医療が町医者に及ばないのだ。
 朝日新聞社説はミレニアム開発目標に触れてこう言う。

 だが、あの時の思いとは裏腹に、その後も世界は戦禍にまみれ、世界貿易機関の新ラウンド交渉の決裂が象徴するように、南北の亀裂はむしろ深まっている。

 貧困の問題は南北問題なのか。アホーだな。いやアホーならまだいい、結語の朝日新聞社説の「ユーモア」に私は精神の邪悪を感じる。

 残念なのは、欧州や米国で援助をめぐる国際会議となれば熱心な国会議員たちの姿があるのに、日本ではまだまだ少ないことだ。小泉さんも、菅さんも、世界のことをもっと考えて行動してみませんか。

 だったら国連の負担金を減らしてそっちに回せば名案だな(参照)。
 この問題は朝日新聞社説が言うほど簡単じゃない。嘲笑されるのを恐れずに言えば、世界の各位置に置かれている人々が今どうやったら幸せに生きられるかをそれぞれ問い、そのための基礎条件を静かに広げていくことだけが、「貧困」に覆われているものの解決になるだろう。議論が荒くなるが、肥満を例にしても、そこには心の貧しさがあるのだ。また、肉食(屠殺)を工業生産に組み込む残虐さがあるのだ(菜食になれという単純な意見ではないが)。自然保護や環境保護を言う前に、私たちの内面に幸せと優しさがなければ、事はイデオロギー主導では解決しない。なのにその善性を吸い取る偽善のイデオロギーが罠のようにあちこちに存在する。

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2003.09.23

ようするに円高は避けられない

 内閣人事があったのだから社説で扱うというのはわからないでもないが、各紙しみじみつまらなかった。なぜ実績のない安倍晋三幹事長の起用を批判できないのか。大衆の人気をあてこんだおべんちゃらの各紙社説は不快極まる。他、気になるところでは、朝日新聞社説が「ネパール ― 流血を止めるため動け」としたネパールの問題。朝日の論調は単なる左翼だから王政批判というだけで深い意味はないのかもしれない。私自身が気になったのはネパール国民の健康状態だ。記憶ではあそこは日本脳炎が多いのだがそういう点にこそ日本は寄与できないものだろうか。
 避けるわけにもいかない話題はやはり円高なのだが、扱っているのは日経社説「急激な円高進行を懸念する」のみ。しかも、内閣人事のおまけのような扱い。まぁ、円高なんてまだたいしたもんだいじゃないというオチがなのか。内容は迷走している。まず冒頭まとめが入るのだが、これがそもそも歯切れが悪い。


 円が急騰している。22日の東京市場では一時、1ドル=111円台と前週末より4円近く高い水準となった。20日に開いた7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議で、為替相場を巡る日米の溝が浮かび上がったことがきっかけだ。急激な円高はようやく上向き始めた景気を冷やす要因になりかねず、通貨当局には警戒を怠らないよう求めたい。

 日銀の活動が抑制される動向にあるのに、日経ともあろうものがなに言っているのだろうと疑問に思うが、この当局っていうのは米国のことなんだな。ようは、円高を容認すると米国の長期金利が上昇して経済成長が鈍りまっせ、というお節介ごかしっていうやつだ。この期に及んでまだ米国経済の向上に打開策を求めるというのか、おい、正気かっていう感じだが、それじゃ困るから日銀介入させてくれよぉ、っていうことなのだ。アホか。
 結論はスゴイ。

 もちろん、根本的な問題は為替にあるわけではない。米国が世界経済の唯一のエンジン役になり、日本や欧州がこれに頼るという状況が長年続いてきた結果、大きな収支不均衡が生まれてしまった。不均衡の解消へ向けたマクロ政策や構造改革が各国に求められている。

 支離滅裂。「各国」ってどこの国なんだ。中国ははずせないなら、結局人民元切り上げってことか。なんだか、二日酔いみたにくらくらしてくる。酔い覚ましはないものかと朝日のマネー情報を見るとケン・ミレニアム株式会社森田謙一による「G7が円高間接的な誘導をした意味」が面白かった。引用は避けるが、ようは、昨日の円高は小泉再選にむけて「安穏として改革を進めないと容赦しねーぜ」という米国側からの脅しなのだそうだ。なるほどね、ってうなずくな。これって田中宇風エンタテイメントかもしれない。
 以上、くさし多く、駄文になってしまったが、日経社説の迷走は円安が阻止できないという悲鳴なのだ。ただ、この20年間の経験を思い起こすに、奇妙な要因が重なってことは思い通りにはいかない。ITバブルの再現ということはないだろうが、案外米国経済の持ち直して(そして日本が沈没して)、モデレートな円高って目もあるかもしれない。外貨預金を売り払うチャンスはかくしてまた逸する。

追記
 なぜ安倍晋三幹事長の起用を批判すべきか。一つ目の理由はこの人、なんも政治の実績というものがない、つまり、仕事をしていない、ということ。一般的には拉致問題で強行っぽい言動をしたが目立っただけ。メールマガジンの発行なんか業績には入らない。近年の活動(参照)をみても、なんにもしてない。こんな人を重職につけてはいけない。ついでに岸信介(参照)の再評価ブームに乗るマスコミの風潮もくだらない。
 二つ目の理由は、小泉が一時期の安倍晋三の人気を自分の人気に利用している点。もちろん、実際の政治の場でそれが悪いわけではないが、安倍晋三の起用は単純にそれだけなのであまりに浅薄。もっとも、自民党的には寝返り青木が出した選挙対策の山崎更迭というだけの話。いつまで続く森内閣…あ?小泉内閣なのか、というお笑いは以下。


平成12年4月13日 森喜朗新首相が故安倍晋太郎氏の仏前に就任報告

森首相が、安倍晋三代議士の東京宅に訪れ、父の故安倍晋太郎の仏前に、総理就任のご報告をしてくださりました。森首相は、旧福田派安倍派に所属され、「晋太郎氏を人生の先輩と仰いできた」とのことでした。報告後、「首相の責任の重さを感じているが、安倍先生の遺志を引き継ぎ、職務を全うしていきたい」と述べておられました。

 再考するに、安倍晋三に党内を仕切る力がないというのはマイナスではなく、小泉にとってプラスのメリットなのだ。結局、実際的に動くのは山崎だ。摂政関白時代のようなもので、おもてに出す顔には実権がないほどよいというわけだ。

[コメント]
# tea_cup 『安倍晋三幹事長の起用を批判してください。』
# レス> 『追記します。』

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2003.09.22

アスピリン喘息の患者はどう扱われているのか

 数日前から気になっていたアスピリン喘息について書く。なぜ今アスピリン喘息が問題なのかって? とくに理由はない。しいていうと「はてな」の質問に関係している(参照)。この話題は一般の読者には関係ないかもしれないが、たまにこんなことも書くことにしたい。
 以下の話はアスピリン喘息患者が利用できる鎮痛剤についてだ。
 その前に、アスピリン喘息とは何かだが、アスピリンなどの消炎鎮痛剤の服用によって起きる喘息だ。成人の喘息の約1割がアスピリン喘息であるとも言われている。日本の喘息患者は人口の3%程度らしい。とすると、アスピリン喘息の推定患者数は30万人程度だろうか。そんなには多くないし、重篤な症状を起こすことが少ないのか、社会問題になっていないと見ていいのかもしれない。
 次になにがアスピリン喘息で問題なのかというと、この患者は市販の鎮痛剤が使えないということだ。現場、結論は医者に行くしかない。それ以外は鎮痛剤を使わないようにということになる。雑駁にいうと、医者の処方薬もあまり鎮痛作用がない。つまり、痛みの対処が事実上ない。それが問題といえば問題なのだ。私の考えを率直に言えば、苦痛を放置するというのは人道的ではない。
 そもそもアスピリン喘息にかからないようにするほうがいい、と言えるかどうか疑問だが、あまりアスピリンを多用しないほうがいいにこしたことはない。テレビでバファリンのCMをよく見かけるが、一般のタイプのはアスピリンに加え、胃の保護にアルミニウム化合物(ダイアルミネート )が加えられている。アルミニウムの害が科学的に確定していないが個人的にはお薦めしない(ふくらし粉にもアルミニウムが含まれている)。一般的な鎮痛剤なら、以前にも書いたがアセトアミノフェンのほうがよいだろう。ただし、アセトアミノフェンでもアスピリン喘息を誘発する危険性がないわけではない。
 アスピリン喘息にかかったらどうしたらいいか。例えば、健康@niftyの「アスピリン喘息について教えてください。」*4には、次のように書かれている。

アスピリン喘息といわれたら


  • その原因となる薬物の名前を必ず聞き、手帳などにひかえ、今後、薬を飲む場合には必ず医師・薬剤師にそのことを伝えるようにしてください。
  • 薬局で購入した風邪薬や鎮痛剤にも入っている可能性がありますので注意が必要です。
  • 痛みや発熱は冷やすなどして症状を抑えるようにして、薬は最小限にするように工夫ましょう。どうしても必要な場合にはアスピリン喘息の方にも比較的に安全であるとされている薬がありますので、かかりつけの医師にご相談ください。
  • もしも、再びアスピリン喘息の発作が起きてしまった場合には、すぐに医師の診察を受けてください。ひどくなりそうなら救急車を呼びましょう。

 誰の執筆かわからないが間違いではない。読むとわかるように、アスピリン喘息の患者が風邪や頭痛になったとき、具体的にどうしたら苦しみから解放されるのかについては、医者に行けという以外の情報はない。確かに、アスピリン喘息に対する市販薬(OTC)の利用は危険なのでしかたがないかもしれない。
 日本では、アスピリン喘息の患者の鎮痛剤としては、炎症を引き起こす酵素(COX)を阻害しない塩基性抗炎症剤のエモルファゾン(ペントイル)(参照)が処方される。塩基性抗炎症剤には他にエピリゾール(メブロン)(参照)、塩酸チアラミド(ソランタール)(参照)などがあるが、アスピリン喘息患者には禁忌とされている。塩基性抗炎症剤の鎮痛効果は高くない。エモルファゾンが市販薬(OTC)でないのはなぜなのかよくわからない。アスピリンに比べて危険性が高いのだろうか。単に、市販しても売れないというだけなのだろうか。
 以下は、治療の代替になる情報ではない。が、アスピリン喘息の対処について、できるだけ最新の情報を簡単にまとめておく。
 アセトアミノフェン:アスピリンより安全性高いとされているが、注意書きにあるように、すでにアスピリン喘息の患者は利用しないほうが良い。
 セレコキシブ(セレブレックス):日本ではまだ発売されていないが、近く解禁になるらしい。セレコキシブを含めCOX-2選択阻害剤は、アスピリン喘息患者にとって安全性が高いとする研究がある(いずれも鎮痛はリウマチを想定しているようだ)。日本でもセレブレックスが市販薬(OTC)になった場合、こうした知見がすぐに臨床に活かせるかどうか。たぶん、表向きはダメということになるだろう。現場でもエモルファゾン以外は塩基性抗炎症剤ですら禁忌なのだから。

 ナブメトン(レリフェン)参照):リューマチの鎮痛を対象にしているようだが、アスピリン喘息について次の研究がある。市販薬ではないが医師の参考にはなるだろう。

"Safe full-dose one-step nabumetone challenge in patients with nonsteroidal anti-inflammatory drug hypersensitivity."(Allergy Asthma Proc. 2003 Jul-Aug;24(4):281-4. )

 ザフィルルカスト(アコレート)参照):アスピリン喘息の予防に効果があるとする研究がある。市販薬ではないがこれも医師の参考になるだろう。

"Aspirin induced asthma, urinary leukotriene E4 and zafirlukast"(Rev Alerg Mex. 2002 Mar-Apr;49(2):52-6)

 アスコルビン酸:民間医療に近いが、風邪などの症状の緩和は期待できる(参照)。アスピリン喘息との関連の研究はないようだが、悪化することとはないだろう。
 漢方薬、中医薬、ハーブ(ナツシロギク)などの適用についてはまったく研究されていない。が、現状の経験の累積からみて、風邪によく処方される葛根湯はアスピリン喘息を引き起こさないようだ。葛根湯にはエフェドリンが含まれているのでその面からも、喘息の症状が緩和されているのだろう。同様に、小児の場合、麻杏甘石湯が伝統的に処方される(摂取量に注意)。
 ちと専門的になるが、アスピリン喘息患者にCOX-2阻害薬が有効であるということは、喘息を起こすロイコトリエンの生成に関与しないためだろう。とすると、このアラキドン酸カスケードの原点となるアラキドン酸の摂取を減らすことは日常の食事にとって注意すべきだ。具体的にはリノール酸の摂取をできるだけ減らそうほうがいいだろう。

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2003.09.21

野中広務は心情的に否定しがたい

 新聞各紙の社説が小泉再選を扱うのはしかたがないだろう。はなっから読む意味もあるまいとも思いつつ、ざっと目を通す。つんまないなと思うが、意外にどの社説も奇妙な陰影をもっているようだ。小泉政権をどう評価して良いのか、またその評価をどう社会に向けていいのか、困惑しているのだろう。一番つまらないんじゃないかと思っていた読売新聞の社説「小泉総裁再選 『圧勝』イコール挙党一致ではない」は、意外だが少しは考えさせるところがある。


 予想通り、小泉首相の圧勝だった。だが、国会議員の「反小泉」票は46%にも上った。首相も、浮かれてばかりもいられないだろう。
 自民党総裁選では、小泉首相の構造改革路線と経済政策の是非が最大の争点となった。「改革なくして成長なし」と構造改革を優先する首相に対し、挑戦した三氏はそろって景気対策重視の経済政策への転換を主張した。

 とはいえ、この文脈に「だから景気対策を重視せよ」が続くわけでもない。なにが景気対策なのかはっきりしないからだ。そう考えれば、小泉再選ということは、その「はっきりしない」ということかもしれない。
 具体的には、専門用語でいうところの「毒饅頭」をくらった青木が橋本派40人で寝返ったことが大きな要因だが、苦笑だね、そもそも国政に参院なんかいらないのだから。もっともそこまで小沢の威力に自民党がびびっているのかわかって面白い光景ではあった。
 これで橋本派つまり竹下派経世会が終わったといえるだろう。竹下の霊が怒って官邸付近に落雷したと野中は言ったが、これで野中の時代も終わった。と、言いつつ、些細な感覚だが奇妙に心にひっかる。その心情だけを率直に言えば、野中広務に武士の生き様のような共感を覚える、ということだ。おそらく文藝春秋から、本人による政界の暴露本のようなものが近く出版されるのだろうから、沈黙の美というものでもあるまい。それでも、今回の引退は負け惜しみというより、武士というものはこうして諫言に腹を切るものだという印象を受けた。ストリーは違うが山本周五郎の描く原田甲斐や阿部主水正といった人物を連想する。山本は大衆文学なのでやや甘っちょろいヒューマニズムをまぜてしまうが、政治のなかに生きる人間のある過酷さはうまく表している。
 野中が小沢憎しでぶちあげた村山政権は極悪なシロモノだったが、小渕と野中のタックのほうは、それがもう少し続けば、こんなに米国の尻に鼻を突っ込んだような現在の日本とは別の日本もありえたのかもしれない。
 拉致問題について野中が顧みなかったこと、外交面で中国寄りだったことなど、わかりきった批判はしやすい。だが、野中には国政を担う政治家としてそれなりの思いがあっただろう。週刊文春の手記を読めば、自身の政治家としてのありようが善だけではなく悪を含む自覚ももっていたこともわかる。私心を捨てて国政に関わる人間だけが果たさなければならない悪というものがありうる。
 私がもし、人間として野中と小泉のどちらが好きかと問われたなら、「そんな比較はやめてくれ、小泉は人間じゃねーよ」と答えたい心情がある。

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2003.09.20

韓国の日本文化開放に思う

 朝日新聞と産経新聞がそれぞれ社説で韓国の日本大衆文化開放措置について触れていた。対立した意見を期待したとこだが、どちらもふぬけた話。わからないでもない。とはいえ、朝日新聞社説「文化開放―日韓に壁はいらない」のタイトルはボケだが、冒頭の切り出しは良い。


 日本語の音楽CDや日本製ゲームソフトを解禁する。韓国がそう決めたと聞いて意外に思った人も多いだろう。日韓の間にそんな壁が残っていたのか、と。

 現状の日本人の意識からするとそんなところだろう。そのくらい日本人は韓国に関心がない。だから韓国文化の一部が切り出されて日本にエスニックとして受ける。少し前の話だが、2001年(5/16)の日本版ニューズウィーク「韓国をうらやむ日本人」は外人の目から見たトンマな特集で笑えた。
 韓国をどう考えたらいいのかという問題は難しい。韓国も日本同様東アジアで中国の影響を受けた歴史を持っているせいなのか、言葉と事実が乖離する。単純に言えば、発せられた言葉にはすべて裏があって事実を指すことができない。韓国について韓国側から語られた言葉は多いが、その裏に向かって日本人が事実を言っても、その語られたこと自体が言葉に還元して循環してしまう。
 とはいえ、隣国であり、人間の交流もある。人間と人間の交流はただの言葉ではない。戦後多くの韓国人と日本人が私的な交流を深めてきた。現実というものは厳しいものだから、全て信頼の交流とはいかない。裏切りもあるだろう。だが、深い交流であることは間違いない。映画「月はどっちに出ている」みたいなものだ。その総体が日本と韓国に何をもたらしたについてはまだ十分に語られていない。言葉の循環をさけて語るにはもっと深い交流を待つべきかもしれない。
 当たり前のことだが、と言っていいだろうが、70歳以上の韓国人は日本語がわかる。植民地下でもあり、日本人に嫌な目にあわされた人も少なくないことは間違いないが、戦前とはいえ大衆の日本人というのはそれほど善でも悪でもない。そのことを70歳以上の韓国人はきちんと知っている。だが、それを韓国の中で語ることはできない。その詳細はここでは書かない。ただ、この半世紀はそういう歴史だったのだと雑駁にまとめてもはずしてないだろう。現在の日本人もそれが理解できなくなりつつある。センター試験世代の人間に先日「李承晩」って知っているかと訊いみたが無言だった。「イ・スンマンですね」と米国帰りのとんちきな答えなども期待できない。歴史とはそんなものだ。「冬のソナタ」の登場人物も李承晩後の世代だ。日韓の歴史は喧しく論じられるが、実際の歴史とはそういうふうに扱われていく(参照)。
 と、話が散漫になるのは書くのをためらう思いがあるからなのだが、ま、冗談半分に書いておこう。名前をあえて記さないが、私が深く傾倒した歴史学者がこう言ったことがある、「韓国には文化がないのです」。そう言われれば、そんなバカなと誰もが思うだろう。現代の韓国人でも怒るよりせせら笑うだろう。だが、この指摘は碩学だけが知りえた怖いものがあると私は思った。そして、過去を知る韓国人もそれを知っているだろう。単純な話でいえば、ハングルによって覆われている漢字を復活させれば、字面の上で日本語とそっくりになってしまう。もっとも今の日本人の漢字はGHQによって破壊された奇っ怪なシロモノだが。
 あまり雑駁に言ってはいけないが、現在韓国の文化と言われてるものの大半は、清朝によって破れた漢意識の辺境的な再構築だ。実は日本の江戸の思想も類系でこれが明治維新につながる(が韓国とは違い道教化した朱子学の影響は少ない)。
 また、ハングルが元朝の遺産であることも歴史を知ればわかる。食文化などを含め、元朝の影響は大きくすでに韓国人が意識でないほどでもある。骨董好きの一部が陶磁器で李朝より高麗を好むのも、古いものを好むということもだが、どこかに国民文化の起源の美を得たいという思いがあるからだろう。「三国史記」があるとはいえ、日本のように正史として古代を伝える日本書紀という歴史書もなければ、本居宣長のように近世に国民国家の古代幻想を創作するというような民族意識もなかった。もちろん、日本が優れているということでは全然ない。深く歴史を知れば、日本書紀の大半はナンセンスな創作に過ぎないことも、宣長の古代意識もグロテスクな偽物に過ぎないこともわかる。西欧流の歴史学で見るなら、日本書紀の推古朝以前はでたらめとしか言えない。それ以降も政治的な修正でできている。また、古事記は偽書だし、漢文で書かれている。
 こうした知識がなくても、朝日新聞社説の次の指摘は皮肉な示唆に富む。

 開放の壁になっているのは、最近は反日感情よりもむしろ経済問題だ。例えばアニメ映画を解禁すると、日本の作品が最大40%のシェアを占めるというのが韓国側の試算だ。一方、この自由貿易の時代に外国商品を禁じるべきではないという意見もある。韓国も悩んでいるのだ。
 だが、この5年間を振り返ると、日本文化を受け入れたことが日韓の競争や交流を促し、韓国文化は打撃を受けるどころか、かえって元気になったのではないか。

 朝日新聞は間違ってはいない。のんきなだけだ。日本の大衆文化の威力がわかれば、もう少し踏み込んだ議論になっただろう。江戸時代から鍛えられてきたこの脱知性化の文化はハッチントンが単一の文明と勘違いできるほどに強力だ。
 それが韓国の大衆意識を席巻するのはわかりきったことだ。だから、朝日新聞がいうような経済の問題ではない。まどろこしい言い方だが、日本文化が韓国の文化をつぶすという関係ではない。日本の大衆文化は日本の国家性を越えている。むしろ韓国アニメや韓国の大衆音楽はアジアでの興隆という点で日本を抜いている。エネルギーが再注入されたかのようだ。そして、それが韓国の大衆文化だと思いこむ人もいる。もちろん、そう思って悪いわけではない。
 で、何が問題? いや、問題などない。偽悪的に言えば、日本文化のレプリカがアジア諸国で興隆し、それぞれが自身をオリジナルだと主張してなにが悪いだろう。「プッカとガル」(参照)で素直に笑っていてもいい。欧米の大衆文化すら同様に日本の大衆文化は圧倒してきたのだ。アッパレ日本と言っていいくらいだ。村上隆を超えるアーティストも韓国から出るかもしれない。
 だが、小声で空虚に向かってつぶやこう、本当は違うぞ、と。日本の大衆文化はある種の病理を含んでいる。村上隆のアートはその危機の緊張を含んでいる。深い知性ならそれを忌避して当然のなにかだ。

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2003.09.19

地価下落が問題ではない

 朝日新聞を除いて各紙社説は国土交通省が発表した7月1日時点の都道府県地価を扱っていた。いずれも地価の下落を問題にしているのだが、主張のトーンは違う。読売と産経は笑える。
 読売新聞社説はタイトル「基準地価 いまだ底なしの土地デフレ」でもわかるように、イケイケドンドンである。いしいひさいちの漫画に出てくるナベツネのような感じだ(参照)。結論は以下だが、実はこれは取って付けたようなもので論旨は微妙な部分もある。特に再来年から導入される減損会計の問題は重要な指摘だ。


 何より、政府・日銀が本格的なデフレ対策に取り組むことが肝心だ。景気刺激に重点を置いた予算を編成し、金融政策でも一定の物価上昇を目標にするなど、明確な政策転換を打ち出すことが、土地デフレに対する処方せんともなる。

 産経新聞社説「地価動向 明るい兆候育てる努力を」はもしかすると冗談かもしれない。引用冒頭の「それが続けば」という「それは」は東京の地価向上だ。これを好機と見て次のようにラッパを吹く。

 それが続けば、バブル崩壊で発生した資産デフレが是正されて、日本経済全体のデフレ傾向に歯止めがかかり、経済は好循環に入るだろう。
 この機を逃さず、さらに地価を底上げする努力をすべきだ。土地の証券化や規制緩和などのペースを速め、大型の都市再開発を実施しやすいような法整備を求めたい。

 日経新聞社説「地方都市の空洞化示す地価」が期待を裏切らずまともだ。問題は地方都市なのだ。地方都市が崩壊しているのだ。加えて、「2003年問題」も実際のところ「ねーじゃん」ということにも触れている。

 人口10万人以上の114地方都市の最高価格地の平均下落率は13.6%で、商業地の同10.5%をかなり上回っている。大型店の撤退などにより、中心部の下落率が周囲より大きいことを示している。

 毎日新聞社説「地価公示制度 土地神話時代の遺物なのだ」は奇っ怪だ。「そーきたか」という感じで、なんだかどっかのブログでも読んでいるようだ。ようは、地価公示制度自体が間違いだという、ちゃぶだいひっくり返しに出たのである。反則だよ、それ。

 関心があるのは、地価の動向ではなく、地価公示という制度そのものだ。高度経済成長からバブル経済に至るまで、日本には地価は永遠に上がり続けるという土地神話があった。土地は投機の対象になり、さまざまな規制が必要だった。このため、政府は全国の地価動向を把握しておく必要があり、地価公示制度が始まった。

 冒頭いきなり主語無し文という反則技を繰り出すのだが、本文中には「だからぁ、こんな制度やめようぜ」とは書いてない。ずるい。じゃ、どうすんだよに答えていない。「前提が間違っているからぁ」とかコクそこいらの小便小僧なら、「オメー、帰って寝ろ」だ。でも、毎日新聞社説のいうこと自体はそれで良いのか? 曰く、弊害は2点。(1)土地は収益還元の発想で、不動産市場で流動させるべきだ。(2)更地信仰を増長させているからイカン。だとさ。違うぜ。土地は通常の産業リソースじゃない。更地信仰云々は屁理屈だ。
 地価公示の制度がなければ、固定資産税はもとより、連動する路線価が決まらず相続税の算出が混乱する*3。土地というのは、国民の国土という意味で国民が生きるためのもっとも基本的な資産だ。
 と、毎日新聞社説をくさしてみたものの、現在進行している問題に応えているとは言い難い。というか、全然対応できない。つまり、日経新聞社説がいうように、問題は地方の崩壊であり、反面東京の一極集中だ。この地域に限って言うなら、毎日新聞社説の言うことは間違っていないどころか、正しいと言ってもいい。
 読売や産経の吹くラッパは冗談だとして、ではどうしたらいいのか? というか、何が問題なのか。地価が下がることが問題、だとしても、それはもうどうしようもないのではないか。
 ブログだからというわけでもないがあえて暴言でまとめる。東京都への一極集中は止まらない。住居としての土地はしだいに無意味になっていく。居住なら東京内のマンションのほうが住みやすいからだ。日本人はもはや地面の上のマッチ箱に子供と暮らすということはやめてしまった。もともと江戸時代の都市化をみても、そういう生活はしていない、という意味で、きちんと伝統に回帰している。そして地方都市はさびれる。しかたないのだ。資産デフレは止まらない。でも、そうなるしかない。地価で資産デフレを回復する機会など来ることはない。
 この日本の巨大な構造変化を押しとどめるのは、地震くらいしかない。でも近々予定されていた地震は来なかったね。みみずくんはご機嫌なのだ。

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2003.09.18

名古屋立てこもり事件とは何だったのか

 産経新聞社説が名古屋の立てこもり爆破事件を扱っていたが、これが奇っ怪なシロモノだった。以下引用の内容は完璧にゼロだが、「ガソリン」にまつわる醜い修辞に注意してもらいたい。


 爆発原因はまだ、明らかでないが、揮発性の強いガソリンのようなものをまいたため、密封された部屋にガスが充満、何らかの原因で引火し爆発、炎上したらしい。
 事件後、警察当局は爆発は想定外の出来事だった、としている。確かに人質をとり、ガソリンのような油をまいたことで、警察官の強行突入は、困難を極めた。しかし、防ぐ手段はなかったのだろうか。
 犯人がビルに侵入してから、爆発、炎上までに約三時間あった。警察は、犯人を説得しながら、突入の機会をうかがっていたが、ガソリンのようなものを床にまいたうえに、「近付いたら火をつける」などと脅したため、強行突入は危険な状況だったという。

 なんだこれ。執筆時点で「ガソリン」と断定できないから「ガソリンのようなもの」になったのだろうが、バカみたいだな。と、またバカの壁現る。というわけで執筆者を思いやってみても、なんだかなぁである。バカでなければ文章が抜本的に下手くそということか。常識的に考えれば、ガソリン以外の類推は成り立たないのだから、もう少し踏み込んで書いてもいいはずだが、それができなかった産経新聞の体制は大丈夫か。
 ただ、この「ガソリンのようなもの」は産経新聞をコケにして済む問題ではなく、今回の警察の対処も似たようなものだったのかもしれない。すでに爆破後に「ガソリンのようなもの」とする産経新聞はさておき、爆破前の警察としては「まさかガソリンじゃねーべさ」と思っていたのだろうか。日本のガソリンのハイオクタンはヨーロッパ高級車向けに出来ているほど危険。質の悪いアメリカのガソリンですら、「ガススタンドで携帯電話をすると爆破する」ってな都市伝説(参照)がまかりとおるほどだ。これらは携帯電話の注意事項からでっちあげられたホラなホラーだが、危険認識として誤っているわけではない。
 実際のところ、今回の「名古屋立てこもり事件とは何だったのか」と再度問いを出してみると、世間は犯人像や爆破映像に関心を持っているようだが、事件の本質は警察のガソリン認識と対処のミステークっていうことになる。
 事件を伝える17日の読売新聞のニュースでは見出しに「揮発性油は想定外、特殊部隊投入できず…ビル放火」とあり、警察がガソリンを想定できなかったかのような印象を与えているが、ニュース内で言及されているのは次のとおりなので、見出しのボケだ。

揮発性の高い油をまかれたため、爆発につながる特殊せん光弾を使った強行突入ができないという想定外の事情も影響したとみられるが、警察幹部たちはショックを隠せない。

 警察はガソリンと認識していたけど、「特殊せん光弾が使えないのかつまらーん」とか思案していただけだったということになる。と書きながら、この手の短絡的なアホーな思考はセンター試験以降の世代に多いんだよなと、密かに思う。こいつらが根本的にわかってないのは、現場というのは最善のソリューションなんか求めていないっていうことだ。求められているのはソリューションだけで、それに修飾語はいらない。テメーの体を張って問題をとにかく解決する能力が実務家には必要なのだ。という能力が警察に欠落してきているのだ。
 今回のニュース報道をみるかぎり、そうした問題(つまり、被害を出した原因は警察だぜ)ということが薄められていくあたりも、ジャーナリズムもセンター試験以降の世代に溢れているのだろう。と、世代論に話を堕すと時事ならぬじじい臭い暴論になるが、でもよ、現場たたき上げの中高年よ、がんばれ。

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2003.09.17

社会が自殺を強いるシステムになっていないか

 地震は来ない。今日も新聞各紙社説はつまらない。日朝問題は深刻だが、だからといって一周年記念というだけで社説を書く神経がわからん。阪神優勝も社説ネタではないだろう。というわけで、気になっていることを書く。自殺の話だ。
 昨日夜7時ごろ池袋の駅が異常に混雑をしているのでなにかと思ったら、西武池袋線が不通になっているとのこと。それだけでのこの群衆かよ。いったい地震が発生したらどんなことになるのか。まったく迷惑な人身事故だよな、と思ったが、人身事故ではなかった。主観的な印象に過ぎないが、西武線に人身事故は少ないような気がする。事はとんまなトラックが電車に接触してプチ脱線。けが人はなし。今朝のニュースを見ると、22万人に影響が出たとのことだが群衆に迷惑している私などはその影響には含まれていない。
 とっさに人身事故だと思ったのは鉄道のトラブルといえば人身事故だからだ。中央線に多い。ふと、ネットを調べたら、「2003年JR中央線人身事故情報」(参照)という情報があった。不謹慎だが面白い。新聞だけの追跡なので、実際にはもう少し多いと思うが、それでもある傾向はつかめる。自殺しやすそうな駅は、東小金井、三鷹、信濃町だ。思い当たる。東小金井と三鷹の西には電車の車庫というのかがあって、乗り換えになることが多いが、あの乗り換えがイカンのではないか。あの空白な時間はふっと自殺したくなる。信濃町はよくわからない(ことにしておこう)。反面、国立、吉祥寺、高円寺では自殺者が少ない。ある程度、所得層のある人の活気があるからなのか。駅間では武蔵小金井を挟んでが多いが、これは構造的な問題もあり、やがて高架になれば減るだろう。ついでに、「鉄道自殺/人身事故路線別ランキング2003」(参照)を見ると、「ついにJR東海道線が首位に! どうした中央線??」とあるが、東海道線に自殺者が増えているのはなぜだろう。新規の住宅が増えているからなのか。ところで、このホームページはなんなの?と思ってみると、太宰治を意識しているようだ。太宰治は自殺ということになっているが、たぶん事故だろう。ついでに、ドナルドキーンが20年くらい前だったか、日本の近代文学で残るのは夏目漱石と太宰治でしょうと言ってたが、あたり。しかも彼は太宰治の文学は西洋人にわかりやすいとも言っていた。そのわりに翻訳は出ない。ねじれたキリスト教観がかえって西洋人にわかりづらいのかもしれない。
 話がおちゃらけてきたが、自殺の問題はわかりそうでわからない。調べるほどにわからなくなる。その最たる例は自殺の各国比較とかでよく見かける統計があるが、あれはなんの意味もないのだ。特に米国の場合、自殺とは「オレは自殺するぜ」みたいな遺書が自殺認定の条件になるのだ。条件が違うのだから、各国比較などできるわけがない。

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自殺論
 自殺が社会学的な話題になるのはデュルケムのおかげで、ついその路線で考えがちだ。と書いて、ふとデュルケムを思い起こすに、宿命的、自己本位的、集団本位的、アノミー的。小室直樹を持ち出すまでもなく、現代はアノミー的と論じたくなるのだが、現在の日本の状況はアノミーではなく、むしろ集団本位的なのではないか。下品な言い方をすれば、詰め腹っていうやつだ。そして、詰め腹を強いるのはたぶん家族や愛の幻想だろう。
 無連帯だから死ぬというより、システムが「死ね、死ね、死ね」というわけだ。2ちゃんねるも実に日本のシステムだから、「氏ね」「逝ってよし」とかメカニカルに言いまくる(参照)。そこまでして、日本人はシステム的に自己抹殺を薦めているわけだ。
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ぐれる!
 冗談だか議論だかわからなくなってしまったが、現代的な相貌としては、「リタリン」など向精神薬の影響があるだろう。それが原因だからやめろという短絡な話ではないが、「鬱病は心の風邪です。お薬で治しましょう」みたいなのがいつのまにか、科学的に社会的に正しい言説になってしまった。
 実際に鬱病になると、自分でもわからず「死にたくなる」という現象になる。だが、その自分でもわからない無意識を自我から乖離させずに、意識して悩むということや苦しむことに人生の意味もあるのだ、とわりきるというのはどうだろうか。なんだか、中島義道みたいになってきたが、敵は詰め腹を強いる日本の社会システムかもしれない。とすれば、それに戦うということは苦しみを伴う思想的な営為を必要としている。

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2003.09.16

幼い子供のいる家庭に必須のアセトアミノフェン

 今日は新聞休刊日。毒づくネタもなく、地震もまだなので平穏だ。書くこともなにもない…では面白くないですね。といってさして面白いネタがあるわけでもないが、最近になって漫画『ブラックジャックによろしく』をはじめて読んだので、その関連で思ったことをちょっと書いておこう。

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神罰
  知り合いの自称漫画評論家に「今一番面白い漫画は?」と訊いたら答えは『ブラックジャックによろしく』だった。『神罰』(田中圭一)ではないようだ。ま、そうかな、というわけで、評論家の蛭子能収、もとい漫画家の立花隆も薦めているので(あ、逆か)、6巻まとめて買って読んでみた。面白いと言えば面白かった。どこが一番面白かったかというと6巻目で主人公が看護婦と70年代の青春みたいな性交をしているシーン、というわけでもない。
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ブラックジャックによろしく
 『ブラックジャックによろしく』はよくできた漫画だなと思うが、率直なところ意外な事実というのもあまりなかった。「けっこうフツーで、学習漫画みたいだな」とも思った。特に批判もないが、どうせなら、ドラマティックな効果よりも、悲劇をできるだけ回避できるための、ちょっとした知恵のような話を盛り込んだらよかったのに。
 気になったのは小児科医療の話のところで、夜間に駆け込む子供の話だ。実態が、あーであることは知っているが、それにしても、なぜ日本の家庭にはアセアミノフェン100mgがないのだろうか。
 アセトアミノフェンときいてぴんと来こない人もいるかもしれない。欧米では標準的な解熱鎮痛剤だ。が、日本人はほんとこれを使ってないね。アスピリンもそれほど使わない。代わりにけっこう変なといっては語弊があるが鎮痛剤のOTCを飲んでいる。家庭の常備薬っていうのは昭和40年代からあまり変わっていないのではないか。しかも、家庭の文化で定着しているようでもある。ま、薬などあまり使わないに超したことはないのだが、有効性のあるものを選んで常備しておけば、いざというときの助けにはなる。特に、アセトアミノフェンだ。子供のいる家庭なら座薬タイプ100mgが2つあればいい。大人向けの沈痛解熱用には、別に宣伝するわけでもないが、タイレノールがスタンダード。でも、やや量が多めなので、アスピリンを含まないアセトアミノフェン成分の小児用バッファリンを大人が多めに飲んでいいだろう(くれぐれも成分を確認のこと)。
 とま、アセトアミノフェンについてこれ以上、こんな不正確な情報提供のブログに書くべき内容でもないので、小さい子供のいる人はこちらの「解熱剤とひきつけ止めの使い方」(参照)をご覧下さい。というか、大人というのは子供を守るべき存在なので、誰でもこのことは常識で知っておいて欲しい。米国の育児書などには記載されている(日本の育児書や妊婦向けの書物は実用的ではない)。こうした知識で子供の夜間の救急患者が救えるというものではない(参照)。が、緊急の状況によっては役立つこともあるはずだ。
 ついでに『ブラックジャックによろしく』でも小児科医療の問題が取り上げられていたが、問題は構造的だ。医者の卵の負担を重くするのは必ずしもいいとはいえないが、WHOでは小児学科の学習時間は300時間が提唱されているのに、日本の現状はその半分。日本の医学は小児科を重視していない。それを放置している日本の構造自体、実は子供を大切なんかしていないという証拠でもある。

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2003.09.15

スウェーデンはユーロを拒否

 休日。老人の日らしい。労働日数を欧米並にして、しかも個人の選択を奪うという目的で、日本のカレンダーはボコボコに休日が多い。新聞各紙の社説は今日もつまらない。WHOの混乱などなにがニュースなのだ。というわけで、気になったニュースとして、スウェーデンが国民投票でユーロ導入を否決した話を書く。別にこの問題に斬新な知見があるわけではないが、気になるからというだけのことだ。
 今回の国民投票の動向は予想がつかなかった。11日にユーロ導入賛成陣営筆頭のリンド外相が刺殺されたため、その反動の同情票が増えるという予測もあった。フランスのル・ペン登場みたいに、大衆レベルでは右派が多いくせに、一時期の現象で世論の流れが一気に変わるということがある。だが、結果は、反対56%、賛成42%。世論を分けたとは言えるが、投票率が81%とであることを考えに入れると僅差とは言えない。むしろ、同情票の上乗せがあってもこの程度だったということだ。
 これをもって「なるほどスウェーデンは反ユーロなのか」という結論になるだろうか。雑駁な言い方だが、国民の動向が割れているのだろう。推進派はエリクソンなど国際企業やIT関連ではないかと思われる。EUが発展すればスウェーデン国内への投資は減るだろう。とはいえ、これもものは考えようで、エリクソンなどさっさと経営の形態上スウェーデンを離れればいい。ソニーと同じだ。ソニーはもはや日本の企業とは言えない。
 そう考えると、スウェーデンの国民、というか国家の幻想性を支える大衆の意識は反ユーロなのだろう。もともと王国の伝統を持つ国なので、バイキングの歴史や前近代時代の血なまぐささはあるものの、近代化に伴い、市民が荒れ狂うフランスやドイツみたいな歴史の国とはなじまないのかもしれない。私自身の印象でもフランスっていう国は未だにボナパルト幻想を持っているのだという感じがする。
 加えて、スウェーデンでは国の福祉行政がそれなりに国民から支持を受けているのだろう。国民経済がそこそこに行けば、税法式による現状の高齢者福祉に問題はない(参照)。少子化については一時期2.0を越えたものの長期には減少気味に見える。だが、先進国には珍しい回復事例は興味深い(参照)。
 スウェーデンの人口は800万人ほど。東京都より少ないが、小国でもない。すでにデンマークはユーロから離反しているし、もはやイギリスもユーロ参入の目は当分はないと見ていい。これだけでもユーロの初期の幻想は終わったと結論していいだろう。ヨーロッパなどというやっかいな概念を持ち出さずにギリシアも入れたのだから(という言い方は嫌われるだろうが)、トルコも入れればいい。トルコをうまく取り入れれば対米戦略もばっちりだ、というのは、ちと放言過ぎるか。
 スイスの国民投票は2008年だったかと記憶している。そのころまでに、EUの動向は変わるかもしれないが、これから小国化していく日本も含めて世界経済のなかに平和に静かに沈没していく国が増えるのは悪くないように思える。

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2003.09.14

コーラン(クルアーン)の背景を考える

 今週のニューズウィーク日本語版「神の啓示につけた疑問符」関連を書く。
 ニューズウィークは所詮米国系の雑誌なのであおりは「殉教者に与えられるのは『美女』ではなく『ブドウ』、コーランの誤りを大胆に指摘した新著が呼ぶ波紋」ということになる。著書は"Die Syro- Aramaeische Lesart des Koran. Ein Beitrag zur Entschluesselung der Koransprache(Christoph Luxenberg)"である。記事のオリジナルタイトルはこうだ。


"Challenging the Qur'an: A German scholar contends that the Islamic text has been mistranscribed and promises raisins, not virgins"

 というわけで、「コーランの誤り」というのは日本語版ニューズウィークの物騒なタイトルは悪意ある誤訳なのか、編集者の見識が低いのか。もともと英文のほうは、7月28日の掲載だったので、日本版ではもう掲載されないのかと思っていたが、今頃出てきた。なぜだろう。ただのボケ?
 話は、現在のコーラン(クルアーン)は、マホメット(ムハンマド)死後150年後に編纂されたもので、元になった資料はアラム語で書かれていたとするドイツ人学者クリストフ・ルクセンブルグ(Christoph Luxenberg)が5月にドイツで出した新著を、「だからぁコーランは誤訳だよ」というトリビアの泉的なおちゃらけにしている。とはいえ、コーランの起源がキリスト教であるという指摘は見落としていないので、ま、よく書けた記事だろう。
 この話題、日本人にはどう受け止められているだろうか? 「52へぇ~」くらいだろうか。日本人の他宗教への意識を考えればその程度だろう。反面、日本は反欧米意識からイスラムに荷担する知識人が多いから、この手の話題は無視を決め込むだろうか。そんなあたりが日本人らしい奥ゆかしさかもしれない。
 多少キリスト教の見識のある人なら、イエス・キリスト(ナザレのイエス)が話していた言葉がアラム語であることを知っているはずだ。というあたりで、中近東の文化だなぁっていうくらいの感慨は持つかもしれない。だが、少し推論してもわかるはずだが、新約聖書やギリシア語で書かれている。だが、このギリシア語はコイネー・グリークと呼ばれるギリシア語なのでプラトンなどの古典ギリシア語とは多少(あるいはかなり)違う。ヘレニズム側ではパウロ(タルソのサウロ)の拠点だったアナトリア側はコイネー・グリーク圏なのだが、アラビア半島側はアラマイック(アラム語)圏だった。という話をすると長くなりそうなので、急ごう。
 新約聖書の共観福音書には聖書学仮説で通称Qという原資料があるとされ、これはアラム語だろうということは定説になっている。そのわりに、Qを完全にアラマイックに復元する作業はなぜか聖書学的には中断されているようだが、それでもかなりの知見はヨアヒム・イェレミアスによって明らかにされているが、彼のアラム語研究に比して神学がけっこうポンコツなので今日あまり顧みられていない。という話をすると長くなりそうなので、急ごう。
 いずれにせよ、アラビア半島側ではその後もキリスト教は生き延びるわけで、そうした一旦は現在のエジプトのコプト教会(コプティック)5に残っている。現在のなぁなぁ的なエキュメニズム*6がキリスト教を覆った現在では、東方教会にも分類されない部分は事実上無視されているが、こうした性格を持つ初期教会の一つネストウリウス派はアラム語をベースにペルシア側に拠点を置き、チンギス・ハーン時代にはユーラシア全域を覆っているのだから、歴史学的にはアラム語ベースのキリスト教はかなり大きな意味を持つ。ちなみに、チンギス・ハーン本人もキリスト教徒であると強弁してもそれほどトンデモ説にはならない。彼の主君オン・ハーンは明白にキリスト教徒だったし、チンギスの「天」意識はこのタイプのキリスト教と同系かもしれない。ちなみに、フビライ・ハーンの母ソルカクタニ・ベギはオン・ハーンの姪でキリスト教徒である。
 ムハンマドも非ヨーロッパ・キリスト教でかつ非ユダヤ教的なアラム語圏のキリスト教の流れに位置していたのだろう。非イスラム教徒は「アラーの神」という言い方をするが、これは誤解に近く、単にアラマイックの神呼称だ。ナザレのイエスの神も「アラー」でもあったわけだ。
 さて、興味の尽きない話題だが、こうした歴史の議論はイスラム教徒には受け入れられないことだろう。
 宗教の問題は難しいものだ。争いのネタになる。日本人は、「各宗教がそれぞれを尊重し合って仲良くするのがよい」という他の宗教者が受け入れられない聖徳太子憲法的な絶対的な宗教観をのんきに普遍だと思っている。日本人は1991年、『悪魔の詩』の邦訳者筑波大学五十嵐一助教授が大学構内で惨殺されたことの意味も考えないし、もう済んだことになっている。というふうに日本人の宗教観に毒づいても「しかたがない」と思う私もただの日本人でしかない。

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2003.09.13

国体からクレアチンを排除すべきだ

 今朝の新聞各社の社説も概ね退屈だった。朝日新聞社説の「石原知事 ― テロ容認そのものだ」の執拗さは醜悪を通り過ぎて酸鼻。今回の石原都知事発言の是非は高校生でもわかる。それに、これだけ報道されているわりに話の前後がわからない。いずれにせよ話題とするような内容じゃない。
 そんななか、今朝の読売新聞社説「ドーピング 静岡国体を排除の契機にしたい」 は、着想だけは悪くなかった。しかし、新聞記者っていうのはこうも無知なのか。知っていて書かないのか。問題の切り出しはこうだ。
 十三日開幕する静岡国体からドーピング検査が、国体としては初めて実施される。これを、外国での話、と考えがちな日本のスポーツ界の意識を改める契機にしたい。
 今まで検査していなかったのが非常識だし、今回の検査もどのレベルなのか疑われる。ただ、高校の体育の顧問レベルではそれほど医学・薬学の知識はないのでそれほど厳密な検査の必要はないかもしれない。
 読売新聞社説のまとめは素朴なものだ。
 一般のスポーツ愛好者への広がりも懸念されている。体格改造効果をうたったサプリメント(栄養補助食品)の宣伝がインターネットや雑誌に氾濫(はんらん)し、安易に手を出して副作用に苦しむ例もある。
 「正しい食事があればサプリメントは不要」という戦後の栄養学が女の権力よる蛸壺になっているから、日本に事実上栄養学はないに等しい。現状ですら、栄養士はビタミンB6の計算すらしていない。この問題は今回はさておくとして、サプリメントは不要、インターネットは害、といった思い込みで大衆に通じると思うあたりが読売新聞らしいところだ。
 前振りが長かったが、問題はクレアチンだ。国体選手を含め、多くの高校生アスリートがクレアチンを摂らされている。なのに、その実態が知られていない。
 クレアチンについては簡単に説明したほうがいいだろう。クレアチンは、アミノ酸の一種で筋肉(随意筋)内にクレアチン燐酸の形態として存在し、運動の際にATP(アデノシン三燐酸)と反応してエネルギーを放出する。まさに、スポーツサプリメントの面目躍如というところだが、機序はわかっているものの、実際的な効果についてはそれほど明確になっていない。
 クレアチンは米国のスポーツサプリメントでBCAAと並んで定番商品になっている。FDA(日本の厚労省の医薬局に相当)が認可しているように、食品として有毒性もない(ADI未設定)。短期の服用では問題ないことがわかっているが、長期服用の安全性については疑問の声もある。
 クレアチンは概ね安全な物質だが、摂取によっては、発汗や水分代謝の機序に関わるため、脱水やそれに伴う心筋梗塞を起こす危険性がある。腎臓にも負担がかかる。製造品質の基準もないので、安価な製品には汚染の問題も潜む。日本人は日本が引き超したトリプトファン事件(参照)に無関心だが、総じてアミノ酸サプリメントには潜在的な危険性伴う。
 クレアチンは、日本では1998年、法的根拠を持たない通達によって、食品区分となった。日本でもあちこちで販売されている。先進国中では、フランスが規制している。フランス食物安全局はクレアチンの長期服用に発癌の恐れがあるとして、スポーツでの使用を1999年に禁止した。
 日本の国体選手の大半はクレアチンを服用しているはずだ。しかもそれは体育の教官から指導されてだ。曖昧なソースでそんなことを言うんじゃないよと批判されそうだが、現場をのぞき見た感じからこのことは確信できる。
 クレアチンはアナボリックステロイドのようなドーピングには相当しない。教官達もそんな意識はもっていない。フランスの例を無視するとして、短期使用なら健康に害はなそうだ。何が問題なのか?
 問題は、「クレアチンの利用はスポーツなのか?」ということだ。スポーツというものはルールに則って行うことに意味がある。健康な人間が競うというのがアマチュアスポーツ理念ではないか。それがなによりも前提となるルールであるはずだ。プロレスや野球のような興行ではない。そう考えてみれば、一般人に身体改造的なクレアチンの摂取させることは即刻やめさせるべきだ。特に高校生への適用は禁止すべきだ。
 BCAA(分岐鎖アミノ酸)の利用も、同じ理屈でやめさせたほうがいい。BCAAも有害ではないが、その一時的な摂取は血中のセロトニンの代謝を変えてしまう。興奮剤とまではいかないものの、身体な自然なセロトニンサイクルを人為的に変更する作用があるのだ。
 日本の子供の学力低下も問題だが、体力も問題だ。日本では、子供の身体の畸形化まで教育に組み込まれてしまっている。

資料
フランス食品衛生安全庁(AFSSA)による栄養関連意見書2件(参照
資料日付 2005(平成17)年5月11日

[諮問番号] 第2004-SA-0173号
[諮問機関] 競争消費不正抑止総局
[案件]特にスポーツをする人に向けた過度の筋肉疲労者用食品に関する指令案評価
[概要]本指令案は、欧州委員会が基本指令89/398/CEEに基づき作成したもので、過度の筋肉消耗者用食品を4つのカテゴリー(①エネルギーを豊富に含む糖質供給食品、②糖質及び電解質の溶液、③濃縮たん白、④たん白質強化食品)に分類している。AFSSAは、これらの食品の詳細な規定、当該カテゴリー及びクレアチンについて意見を求められた。糖質の最小含有量が製品のカロリー供給量の75%とする案については、65%にするのが望ましいとする(カテゴリー①)など、いくつか見解が出された。クレアチンについては本指令案で1日3g程度の使用が定められているが、当該物質は肉などの食品から摂取されており、また摂取リスクが十分に評価されていないことなどから、当該物質の記載は正当化されないとする。
 
 

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2003.09.12

地震が来るのか?

 今日も新聞各紙の社説はつまらないので、ちょっとどうかとは思うが、地震の噂について書く。自分なりの結論を先に言うと、まるでわからない。ナンセンスなことを書きそうだが、この問題に関心がないわけでもないので書き散らしてみる。
 ことの発端については、民営の八ヶ岳南麓天文台の民間研究者串田嘉男による発表だ。社会的な影響の発端はこれをネタにした週刊朝日(2003年9月19日号)。一部、ネタの出所が2ちゃんねるとの噂もあるようで、案外週刊朝日が2ちぇねんるからネタをめっけたのかもしれない。
 社会的な影響も目に付くようになってきた。アシストのビルトッテン社長はまともに受け止めている(参照)。そういうのもありだろう。株などにも影響があるようだ。この動向は16日までピークがくるだろう。多少冗談を込めて言えば、株には人間の集合的な直感の予知能力が表出するから、休み明け16日の株価の状況を眺めてみたいものだと思う。出だしに騒ぎがあるかもしれないが、昼にどたばたのゲームが終われば、地震の目は少ないのではないか。余談だが、阪神大震災のおり、国内の報道機関が腰抜けでまともな取材をしていないように思えたので海外の特派員記事をよく読んだものだが、彼らは関東大震災の可能性についても言及していた。日本の証券市場は時事上外人の場だから、今回の噂がからどのくらい影響が出るのかも、ちょっとした見ものだ。
 正直なところ気にはなるので、元になる串田嘉男の発表を雑見してみた。率直な印象として、こうした騒ぎにありがちなエキセントリックなものではなかった。現在この分野の主流の学者の研究傾向とは当然違うのだが、だからといってそれが非科学というわけでもない。ばっくれて言えば、今回の予想が外れることで、串田嘉男の研究の社会的な評価が決まってしまうことだろう。
 当の震災予想だが、東京を含む南関東で9月16日、17日の(プラスマイナス2日)とのことだが、14日から19日ということだろうか。発表によると発生の確率は60%。皮肉な言い方をすれが、ビミョーにハズレが織り込まれているのが面白い。
 私自身はこの問題はどう思うか。正直、内心は来るんじゃないかとおびえている。そのことがブログ的に面白いなと思っている。予想が外れてあとから今回の事態をくさして恰好付けるよりは、今の自分の状態を記しておこう。
 予想の時間帯、私は都心中心にいるので、巻き込まれて死ぬという幻想も浮かぶ。恐怖とともに甘美な思いがあるが、いずれ誰も人間は死ぬのだが、死についてはどうしても幻想が伴ってしまう。哲学者大森荘蔵は死についての言及を人間に避けられない比喩として議論していたが、分析的哲学的に考えても、我意識というのもはそういう死の比喩の言語ゲームで成り立っているのだろう。
 生きていたら、今日のブログに愉快な追記ができそうだ。

追記
 追記は9月25日にまとめた。

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2003.09.11

麻薬問題は思考停止では解決できない

 今日は9.11。日経新聞を除き新聞各紙、お約束ということで無意味な社説を掲げていた。あとは話題にする価値のない総裁選。朝日新聞が石原都知事発言をネタに息巻いていたが醜い。というわけで、ネタのない平和な一日だ。私にとってニュースはない…と思っていたら意外なところにあった。
 Wired(日本語)で「ドラッグ『エクスタシー』が脳損傷を引き起こすという研究結果は間違いと判明」(参照)というニュースが上がっていた。やっぱしなという思いと、MDMAについて複雑な印象を覚えた。
 日本でも麻薬扱いになっている「エクスタシー」、つまりMDMAについて、今さら基本的な説明が必要だろうか。通称「エクスタシー」は、日本の警察ではMDMA成分を含まない錠剤も雑駁にMDMA等錠剤型麻薬としている。2CBなどもごちゃまぜになっているようだ。それでも、その名称は、一応社会に広く知られてはいるのだろう。先日のクローズアップ現代(参照)では、「若者をむしばむ新型麻薬」として扱われていた。映像はベタに蝕まれていく若者の一例を挙げていたが、あの所見は医学的に間違いではないかという印象を持った。
 Wiredのニュースの事実関係はこうだ。


 科学雑誌『サイエンス』の2002年9月27日号で発表された研究では、娯楽目的で使う場合の1回分の通常投薬量でも、MDMAが重度の脳の損傷を引き起こす恐れがあるとされていた。米国の科学界は研究を称賛し、エクスタシーに手を出さないよう若者に警告した。だが今回、リコート教授は薬瓶の中身が違っていたことを明らかにした。

 Wiredはちゃんと笑いのツボもある程度抑えていて、「ヒロポン」みたいなルビは振らない。歴史を考えてもしかたないということかもしれないが。

 研究を行なったジョンズ・ホプキンズ大学医学部のジョージ・リコート教授は、実験で霊長類の動物に投与されたのはエクスタシーではなく『メタンフェタミン』だったと述べた。

 やはりお約束で、そんなの間違えるわけねーだろ、と突っ込みを入れておくのが礼儀だろう。こんなボケをサイエンスに載せるあたり、サイエンスの一流科学誌ならではのユーモアを感じさせる。経口薬として非合法に流通している薬物に対して注射の実験というのも「いかがなものか」的だ。
 ことはお笑いではすまない。サイエンスもフライングしてしまうほど、我々の社会は麻薬をとにかく科学的・医学的に葬りたいわけだ。日本の場合は「麻薬」というだけで、キョンシーの額に貼るお札(比喩が古すぎ)のようになる。
 面白いことに日本では麻薬は、マックス・ウェーバーの目的合理性の議論のようだが、非合理的には流通しない。システマティックになっている。そしてそのブラックマーケットのシステムは依然スピードしか流していない。暴力団自体が厚労省の外郭団体であるかのようだ。これは流通としてみれば他の流通システムの老骨化と同じだ。警察も昔のままでいられるわけだ。
 MDMAが問題なのは、先日のクローズアップ現代にあったように、その流通が従来の麻薬と違うことだろう。これは、どこかでブラックマーケットに収斂されるのか、そのまま警察の現状のままで撲滅できるのか。はっきりとはわからないが、どこかで入力側の物量が増せば警察側の対応は破綻するだろう。副次的に暴力団関係のブラックマーケットも破綻するかもしれない。SFチックだが不思議な光景が出現する可能性もある。
 現状の社会問題としては、「麻薬は悪い、悪いものは悪い」でとりあえず収まっている。芸能人の大麻狩りなどその業界の提供するエンタテイメントと見る方がましだろう。
 その意味で、現状の日本には麻薬問題はないといってもいい。あるとしてもその業界の55年体制が正常に運行しているだけだ。しかし、それが破綻したとき、麻薬に対して社会はどう取り組むのだろうか。
 麻薬の社会浸透は欧米がその先端を行っているともいえるが(規制の方向はヨーロッパと米国では違うが)、そういう事態に日本もなるだろうか。直感的にいうのだが、直接的な麻薬問題より、それを宗教的に忌避するために、日本社会に根の深い強烈な差別意識のようなものが突然惹起してしまうのではないか。
 その可能性があるなら、現状の麻薬患者をどう現在の社会と接合させるかという新しい社会のビジョンが必要になる。「更正」というような理念はたぶん、ダメだろう。

追記
 再考するに、「麻薬患者が」というより、日本の場合、アルコール依存症なども同類。アルコール依存症が現状日本社会にある程度受容されているような具合になるのかもしれない。
 自分では大麻には関心ないし吸ったこともないが、大麻についてはもはや麻薬ではないというのがEUの認識のようだ。

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2003.09.10

裁判員は多いほうがいい

 今朝は朝日新聞を除いてみなブリヂストン工場の火災を扱っていたが、つまらない内容だった。新聞社なのだから本質を現場で探ってから書けよ。その点、朝日新聞の「裁判員――お飾りにしてはならぬ」は重要な問題提起だ。
 司法制度改革の検討会で裁判員制度の集中審議が始まるにあたり、市民による裁判員の参加の比率をどうするかという問題だ。朝日新聞社説は、下手くそな文章でこう書いている。


 自民党内でも論議が活発だが、ここでは有力な意見として、裁判官2、3人、裁判員6人程度の案が出ている。
 このくらいの組み合わせが、市民にとっては気後れしないで論議しやすいのかもしれない。政府の検討会では、こうした案を軸に議論を進めてはどうか。

 私もこのくらいの構成がいいのではないかと思う。ただし、朝日新聞の次の意見は気にくわない。

 一方で、裁判員はただ多ければいい、というわけでもあるまい。大切なのは、プロと実のある対話ができるかどうかだ。

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逆転
 あえて粗暴に言いたい。裁判官というプロと実のある対話ではなく、裁判官という非常識な人たちに真正面からぶつかる気構えのある市民が重要なのだ。その意味では、市民の数が多いほうがいいと思う。だが、伊佐千尋『逆転』を読んで感動を覚えた者として言うのだが、本来なら市民は数が問題ではない。プロと張り合う市民でもない。たった一人の良心だけでもいいのだ。その意味で、市民の良心ができるだけ発現できる環境になればなんでもいい。
 くさすわけではないが、朝日新聞の人道ぶった基本認識は間違っている。

 狭い司法の世界に、市民参加という風を吹き込み、より信頼できるものに変えるのが改革の狙いだ。人の命運を分ける決定に責任を持ってかかわる。お上依存の社会を変えていく起爆剤にもなる。

 日本の場合陪審員制度にはならないが、裁判員は陪審員に近い。陪審員というのは、旧約聖書にあるように共同体の構成員が一人一人石を手にして、仲間を撲殺する責務を負うと言うことだ。私たちが自らの手で特定の人間を殺すという決意を表している。そういう基本的な正義と責務の感覚を養うための起爆剤でなくてはならない。
 話が散漫になるが、裁判員の問題は、朝日新聞社説があえて看過しているのかもしれないが、現状の日本社会ではたぶん無意味になるだろうと予想する。金にもならない裁判員に市民が嫌々気分なしに参加するだろうか(参照)。しないと思う。
 我ながらそう考えていやになるが、実際は、裁判員は2名程度。日本の裁判制度は対して変わらないというオチになるのだろう(ああ、憂鬱になる)。

追記

憂鬱になっていてもしかたない。とにかく実質的に機能できる制度ができれば、あとは裁判員を支援する各種の団体の活動に期待するしかないだろう。

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2003.09.09

パレスチナ自治政府アッバス首相辞任はしかたがない

 今朝の朝日新聞社説と読売新聞社説はどちらも、総裁選と、イラク復興へ他国貢献を呼びかけるブッシュ演説を扱っていた。バカみたいだなと思う。また、バカの壁だ。なぜ2紙はこんなつまらないテーマなのかと思う自分を反省すべきなのだが、捨て置く。日経新聞社説と毎日新聞社説はパレスチナ自治政府アッバス首相辞任を扱っていた。こちらのほうが問題だ。
 アッバス首相辞任経緯についての解説は省略する*1。日経新聞社説も毎日新聞社説も和平の雲行きを怪しくする今回の事態を問題視し、なんとか和平を求めるという立場をとっている。2紙ではトーンが少し違う。毎日新聞社説「パレスチナ 和平の枠組みをこわすな」ではようするに米国がイスラエルに圧力を掛けろということだ。


 中東和平においてイスラエル、パレスチナ双方に影響力を行使できるのは米国だけである。しかし、シャロン政権の過剰すぎる程の軍事攻撃やイスラエルによる分離壁建設問題などでブッシュ政権はイスラエルの行動を黙認した。このことがアッバス首相を窮地に追い込んだことは否定できない。和平を結実させるために米国がもっとイスラエルに自制を迫ることはできなかったのか。

 日経新聞社説では米国によるイスラエルの圧力もだが、もう一歩踏み出して、アラファト側のクレイを見直せとしている。ようするに、米国のロードマップを再建したいというわけだ。

 だが、イスラエルとパレスチナの暴力の連鎖の再開を避けるには、クレイ首相の指名見直しは不可欠だ。今こそアラファト議長の平和への意思が問われている。

 私の考えはまるで違う。私の考えは正しくないのかもしれないと思うが、こうだ。そもそも米国側がアッバスを立てたのが間違いだったし、パレスチナを舐めてかかったバチだろう、と。アラファトの実権が戻ることを前提に今後の事態を考えるべきだ。
 露骨な言い方になるが、表層的な「和平」を目先の目標にしてもこの泥沼はどうしようもないのではないか。フセイン下のイラクがイスラエルを刺激するという最悪の想定が消えた今、殺戮の悲惨は悲惨だが、つまるところ当事者の問題だ。イスラエルが和平に目を覚ます可能性は少ない。狡猾なアラファトが平和を求めることはない。とすれば、アラファトがもうろくして自滅するか、寿命がきてパレスチナが音を上げるころ、国際社会がアッバスのような人材を引き立てるしかないだろう。
 時を待つべきでろう。その時がくるまでじっと悲惨に耐えられる平和の人材を国際社会は密かに育てていくべきだろう(若いパレスチナ人を亡命させるべきだ)。

追記:

朝日新聞は翌日の社説でこの問題を扱っていた。主張は、総選挙をしたらどうかというものだ。ウマイ!笑いのツボをおさえている。

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2003.09.08

子供の性教育をどう考えるか

 産経新聞社説は「過激な性教育 調査と是正指導の徹底を」として、またまた性教育問題についてイデオロギーと古色蒼然の道徳を書き散らしていた。産経新聞の読者層がこういう話を好むのだから、エンタテイメントでいいじゃないか、と言えないことはない。それにこの手の話は床屋談義の最たるもので、口を突っ込むとろくなことがない。とはいえ、この機に少し書いておこう。
 産経新聞の問題意識は性教育を借りた左翼イデオロギーへの反発だ。そのこと自体はそれほど的が外れてはないのではないかと思う。すでに右より雑誌でネタにされているが、その実態はもっと暴露されていいだろう。


過激な性教育は特定の思想をもった教師が行っている疑いがあり、校長らの監視も必要である。

 左翼思想と性教育の問題についてはここでは扱わない。もともと左翼が性解放の先陣を切っていたことは各国共産党の初期の歴史を見ればわかるだろう。
 性教育について思想問題など、どうでもいいことだ。実際のところ、そうした思想背景をもった性教育であれ、社会的な結果がそれに準じてもたらされるわけではない。それよりも現状の日本社会の性教育の必要性を大人たちが認識すべきだろう。
 まず正確な知識が必要になるのだが、産経新聞のこのようなお粗末な説明では困る。

避妊教育についても、正確な知識を教えるべきだ。コンドームは性感染症の予防と避妊に有効とされ、ピルはコンドームよりも避妊効果があるとされる。だが、どちらも万全な避妊具や避妊薬ではない。ピルには、副作用の報告もある。

 だからどーなんだと突っ込みを入れても産経新聞社説にはこの先の展開はない。確かにピルもコンドームも万全な避妊具ではない。だが、使い方を正確に知れば、かなり万全に近い。ピルには副作用もあるが、その副作用を喧伝するのは、医学的な無知を表明しているようなものだ。すでに欧米ではモーニングアフター(事後避妊薬)(参照)すらOTC(市販薬扱い)になってきている。こうした情報を正確に与えないから、少女達は口コミルートで情報を得ることになる。ついでの話になるが、小学生対象にしたプチなレディコミについて大人の社会はなにも問題視しないのだろうか。
 性教育についての意見を大上段に振りかざすことは愚かしいがおそらく、現状の最大の混乱原因は、性というものを教育の場できちんと「快楽」として捕らえていないことだろう。「快楽」を「愛情」と関連付けることが教育だとする強迫自体が問題だ。現実は、性は愛情でもあり快楽でもある。そして大人は愛情という点で見れば、性について倫理的に行動はしていない。
 「こうあるべきだ」という倫理ではなく、大人達の現実を認識させるべきだろう。具体的には、現実の大人の性の問題をケーススタディとした教科書を作ればどうだろうか。だが、そうした教科書を結局活かせるのは、性についてある程度覚悟のできた大人の教師でなくてはならない。
 話をちゃらにしてしまいそうだが、性教育の問題は性的に未熟な大人たちが担いがちという点にあるのかもしれない。学校という場より別の場所で、快楽という点を熟知している大人が必要になるのではないか。

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2003.09.07

沖縄航空自衛隊員の事故死を悼む

 この問題はあまり触れたくない。だが、触れたくないことだからこそ、少し触れておこうかと思う。産経新聞社説で「空自隊員爆死 個人の武器市場の壊滅を」としてこの問題を扱っていた。


 平成七年のオウム事件では、陸上自衛隊第一空挺(くうてい)団のオウム隊員が、空挺団長誘拐を計画していたが、自衛隊は警察から通知されるまでまったく知らなかった。その時の教訓が生かされていなかったことになる。納税者はモラルも緊張感も高い自衛隊を求めている。自衛隊は事件を機にこの点を再度確認してもらいたい。

 というふうに右よりな道徳論だけで、沖縄という背景をすっぱりと切り落としていた。産経新聞が無知なのか、そこに触れるのをびびったのか。おそらく無知なのだろう。当の問題の背景には、沖縄の問題が潜んでいる。
 ある程度沖縄に詳しくなった人間なら誰でも知っていると思うのだが、沖縄では米軍の流出品は街中でも路上でも売られている。つい最近までひめゆりの塔の前の店ですら販売されていて、さすがにそりゃないだろうということで自粛の対象になった。のんきな話でもある。建前と本音(実態)の分離の激しい沖縄だが、こういうことは日常に組み込まれていて、もはやどっていうことでもないのだ。この「どってことない」という奇妙な生活感はわからりづらいかもしれない。沖縄では「しっちゅう」街中で不発弾処理を今でもやっていることすら知らない人は多い。米軍の演習場もけっこう簡単に出入りできる。
 個人的な話だが、私はほとんどの軍事品には関心はないが、米兵の携帯食(参照)には関心があった。なかなかのものである。まずいという人もいるし、お世辞にもうまくはないが、誰も一度はあれを食ってみるべきだろう。と、つい余談が多くなってしまったが、この手のものを販売している店のなかで、彼のお店はあれだったかなと思い巡らした。国道沿いの小さなポンコツ品マーケット。もっとも、そんなものはたくさんある。誤解ないように強調すれば、このような危険物が販売されていることは例外だ。店頭に銃弾が飾ってあっても誰もそこに爆薬が入っているとは思っていない。
 現状まだ十分に調べが進んでいるわけではないので、奇っ怪な背後関係が出てくる可能性はある。だが、航空自衛隊那覇基地所属の田村多喜男空曹長(享年53歳)にしてみれば、退職後を意識した金儲けがメインだろうが、けっこう楽しみのコレクションでもあったことだろう。彼がコレクションを開始したのは20年も前になるという。すでにその楽しみが日常になっていた。なにより、北海道出身の彼はこの20年を沖縄で過ごしていたわけだ。沖縄が気に入っていたのだろう。あるいは沖縄から出られなくなっていたかもしれない。仲間とのつながりもその兵器だったようだ。自衛隊にいられる期間はもう長くはないだろうし、実際帰るべき故郷ももうなくなっていたことだろう。
 勝手な思い込みで同情しても始まらないと批判されそうだが、私は田村多喜男空曹長の運命を残念に思う。その人生は、我々が本当は理解しなくてはいけない日本の戦後史でもあるはずだからだ。

追記

翌日朝日新聞社説は「武器隠匿――米軍ルートの徹底解明を」はこの問題を扱っていた。内容は、ようは規制を強化することと米軍非難。朝日新聞は欺瞞で狡猾だ。沖縄の米軍問題とは沖縄の問題でありその根は本土(日本国)の問題である。そこを避けるために沖縄だけではないというようなことを言う。朝日新聞は沖縄との関わりが深く、その内実に実は詳しい。ちゃんと自前で調査した内容を書け、と言いたい。

最初「アパート暮らしということだから、独り者だったのかもしれない。」と書いたが、家族はいた。

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日本は自由貿易協定(FTA)を推進できないだろう

 今朝の朝日新聞の社説は少し意外な感じがした。「新ラウンドとFTA――戦略なき漂流を憂える」というタイトルで、日本が自由貿易協定(FTA)を推進するようにけしかけているのだが、なぜ朝日新聞がという思いと、なぜ今頃かという思いが交錯する。反米ならなんでもありの朝日新聞という冗談でもないようだ。朝日新聞の思想的な偏向は経済面では単に旧来の左翼という枠から抜けて、なにか奇妙なものになりつつある。


 世界貿易機関(WTO)の多角的貿易自由化交渉(新ラウンド)は、10日からメキシコ・カンクンで閣僚会議を開く。05年初めの交渉期限までに完了できるかどうかを左右する重要な会議である。
 日本とメキシコの自由貿易協定(FTA)の交渉も、10月半ばの合意をめざして詰めの協議に入る。日本がWTO重視からFTAも推進する方針に転換したのは90年代の終わりだ。欧米に比べ周回遅れである。中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)もFTA交渉を進めている。このままでは、日本は置き去りにされかねない

 すらっと読むとあまりに古くさい日本孤児論の焼き直しに過ぎないのだが、背景はもう少し複雑だ。まず、中国の世界経済戦略としてのFTAに朝日新聞は対抗しようとしているか、それとも中国の戦略に乗っかれというのか、よくわらない。恐らく、そういう単純な政治的な読みの問題だけでもなさそうだ。
 すでに日経新聞では8月25日に「『FTA大競争』に後れをとるな」として、経済界サイドからの推進を主張している。社説としては、朝日新聞より明快だし、結論も単純だ(参照)。

 東南アジア諸国は先進技術を持つ日本企業の誘致も念頭に日本との協定を強く望んでいるといわれる。日本にとってそれは景気回復や国際競争を通じた構造改革に役立つだけでなくアジアでの発言力向上にもつながる。ひと握りの人々を手厚く守るため国益を犠牲にしてはならない。

 これに比べると、朝日新聞の結論は高校生の作文でしかない。

 日本にとっては願ってもないチャンスなのだ。内にこもるだけの姿勢から脱し、自由化によって新たな市場を獲得するとともに、それを国内改革にも結びつける。海外からの直接投資を増やし、雇用の増加やデフレ不況の克服にも役立てる。
 そうした構想力に裏打ちされた通商戦略が、いま求められている。

 だが、日本社会の現状から考えて、朝日新聞の意図とは違うが、実はこのFTAがもたらす「国内改革」が問題になるだろう。というのも、東アジアにおけるFTAの影響は、経済活性・雇用増加・デフレ克服といった脳天気なことではない。なお、ここでは、日本の農業の問題については触れない。表面的に愚劣極まるということもあるが、子細に考えると難し過ぎるからだ。
 FTAを日本は推進すべきだろうか? 思想的に考えていけば、あるいは世界の情勢を見ていけば、推進以外の答えはない。だが、そのときの日本の光景が見えてこない。
 すでに日本ではシンガポールとの間でFTAを締結している。そのサービスの貿易についての子細な内容はなかなかの代物だ(参照)。大学の間で単位交換を認めることや医療の看護業務の認可なども含まれている。本当かと思うような内容だ。
 その「本当か?」と感じる自分の日本人の感性がまさに問題なのだ。現状では国民の少ないシンガポールが対象だが、これがフィリピンに拡大されれば、福祉関連で多くのフィリピン人の受け入れが可能になる(余談だがフィリピン人の大学教育の普及率は高い)。そういう社会を我々はすんなりと受け入れているのだろうか。
 もちろん、良い悪いといった問題ではない。古くさい日本の国際化議論だの、海外労働者の認可という3K的なイメージの問題でもない。我々の社会において、特定の技能を必要とするサービスをアジアの人に向けて、さらっと開放できるのか、という問題だ。
 理詰めで考えればできそうなものだが、そういう状況を我々は受け入れるのだろうか。すでに日本の国際結婚は22組に1組、東京都では10組に1組になっている。我々の身近に国際結婚の家族が数字の上では露出しているのだが、それをおそらく我々は実感していない。奇妙な形で不可視にしているのだ。差別といった単純な問題ですらない。
 日本は日本社会の感性に受け入れられない物を暗黙に不可視にしてしまう。この奇妙な力が日本のFTAもまた不可視に追い込んでいるのだろう。

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2003.09.05

年金改革には必然的に痛みが伴う

 坂口厚生労働相が年金改革の試案を出したことを受けて、朝日新聞と読売新聞が社説で触れていた。視点は違うがどちらも外してはいない。基本的に年金問題はわかりやすいようでいてわかりづらい。理由はごく簡単で、問題の矛先を国民からそらす修辞がいくらでも可能だがそれが問題の本質を誤らせるからだ。厚労省官僚の実態・年金基金の運用の批判は必要だが、構造的な改革には結びつかないし、身近な点では国民年金未納者の状況を変える手だてにもならない。
 朝日新聞社説「年金改革――坂口試案も物足りない」は曖昧なトーンだが、国民年金未納者を糾弾しない以外、議論の筋道は間違っていない。


 若い世代が信頼できる年金制度にするためには、やはり制度そのものを全面的に改革する必要がある。
 4日に出された社会保障審議会・年金部会の意見書案は、現行方式の改善案のほか、将来の方向として全国民が加入する所得比例年金に切りかえるスウェーデン方式と、基礎年金を全額税で賄う税方式の二つの案を併記したにとどまった。それだけ利害の調整が難しいということなのだろう。

 ここをもっとしっかり展開すべきだ。

  1. 「所得比例年金」つまり、金持ちに国の年金を負担してもらう。潤沢な老人の年金は減らす。
  2. 「基礎年金を全額税で賄う税方式」つまり、消費税を20%近くまで引き上げる。

 どっちかの解答しかないし、どっちも採用せざるを得ない。そういうことなのだ。
 さらに、実際はこれからの日本社会からは事実上年金受給年齢が高齢化する。すでにドイツではそういう転換が進んでいる。長寿国日本では70歳になるだろう。

 人間が実社会での仕事ができるピークはせいぜい60歳くらいだから、そこからの10年とその後の余命の10年をどうやって食っていくかが、これからの日本人の大きな課題になる。とはいえ、これも結論としては、大半の人間は貧しくなる以外ないのだ。
 今回の坂口厚生労働相が年金改革の試案にはよくわからない点もある。約147兆円の年金積立金を95年間かけて取り崩し給付に回すということはどういう影響を国民経済にもたらすのだろうか? 累積赤字3兆円といった官僚の失態を帳消しにするといったことはさておき、95年という期間が数値の上の議論だけで生活上の実感が伴わない。
 この問題、つまり、年金積立金の切り崩しにはなにか裏があると思うが、わからない。陰謀論的な推論をしてもしかたがないので、今日はここまで。

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日中軍事交流には中国国内の権力闘争的な意味があるのだろう

 朝日新聞社説「防衛交流――日中の信頼を深めよ」では日中の防衛担当者会談について、好意的な評価を加えているのだが、単純な反米意識の裏から薄気味悪いトーンを漂わせている。
 朝日新聞によれば、途絶えていた交流が再開されたのは、中国側の推進要因としては、胡錦涛主席のプラクティカルな政治意識(歴史問題をヒステリックにこだわらない)、米中関係の安定、北朝鮮の核武装化を挙げている。また、日本側では中国の承認を必要としたと朝日新聞臭いことを挙げているが、これはご愛敬の部類だ。


日本側にも、北朝鮮に対する脅威感を背景にしたミサイル防衛や情報衛星の導入、有事法制の成立などの最近の政策転換について中国の理解を求める必要があった。

 表層的には朝日新聞は日中友好が大切という小学生(大学生?)のようなことしか言えないので、次のような話に堕してしまう。

 日本国内の安全保障上の関心は、目下北朝鮮に集中している。だが、長い目で見れば、中国との間で信頼の醸成に努めることが日本の安全や東アジアの平和のためにいかに重要かは言うまでもない。日中間の信頼が強まることは、北朝鮮問題への多国間の取り組みにもいい影響を与えうる。

 だが、ことはそんな単純ではないことは、日本の軍事が米国の軍事の末端に組み込まれていることからでもわかる。田中宇的に見るとこれも米国の差し金になるだろうといった冗談はさておき、実際的に日中の軍事交流はなにを意味しているのか気になる。
 状況的に問題を解釈するなら、北朝鮮の暴発対応が裏で議論されていたという線もありえる。だが、そういう解釈はたぶん間違っているだろう。実際のところ、この件で日本が米国を出し抜いてできることなど皆無だ。
 別の補助線を引こう。報道的にはあまり触れられていないが、日中の軍人レベルの交流はこの間も悪い状態ではない。基本的に現代の軍人というものの大半はたんなるテクノクラートなので、その交流は他分野の自然科学と似たり寄ったりということになる。そこから得られた情報と状況分析も自然科学的なものになる。現代的な軍人同士の視点からすれば、日米間の摩擦は実質不可能な均衡状態にあることは理解されているはずだ。だとすると、この均衡の意味を考える必要がある。
 中国側の軍事的な課題は、従来なら、私の認識では、移動式ミサイルの開発だったはずだ。核弾頭や大陸弾道弾を持っていても、移動式のシステムが確立されていない限り、米軍の敵ではない。恐らく、その事態に備えるように日本の自衛隊もシステム化されている。単純に日本のミサイル防衛(MD)がそれに該当するのかもしれない。
 こうした旧来の軍事的な視点から見るなら、中国の移動式ミサイルの有効性を早めるために政治に中国が手を伸ばしてきたとも推測できないこともない。
 だが、私の杜撰な直感でいえば、胡錦涛は大陸弾道弾など冷戦的な軍事をナンセンスだと思っているのではないか。移動式ミサイル開発といった方向性を中国内部で方向転換させ、より局所的な軍事力を強化しようする一環として今回の動向があるのではないだろうか(局所的な軍事力は実際のところ、帝国化した中国内部の統制に行使されるのだろう)。
 歴史のお荷物となりつつある人民解放軍の軍事長老達を実質的に権力から抹殺するための布石なのかもしれない(とはいっても人民解放軍自体が解体されるわけではないだろう)。

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2003.09.04

長期金利上昇は避けられない

 朝日新聞社説と日経新聞社説が長期金利上昇の問題を扱っていた。朝日は国債急落面を強調。表題を「国債急落――市場の警鐘を聞け」として国の対応を説き、日経は金利面で「『悪い長期金利上昇』に警戒を怠るな」とし銀行側への対応を説いている。が、主張に大きな差異はない。この状況のシグナルに警戒感を表明しているといった程度だ。
 おそらく、現状ではそこまでの言及しかできないだろう。今回の朝日新聞の指摘は財務省寄りなのはなぜか、とは疑問に思うものの、大筋で間違ってはいない。


 今回の値下がりは、余りに高すぎた国債相場の修正という面もある。株価が回復し明るい経済指標が出始めたことで、資金の流れが株式市場に向かった。基本的には、その結果と見るべきだろう。いたずらに動揺することはない。

 ただ、朝日新聞表現で「いたずらに動揺することはない。」というときは、実際にはもっと危機感を認識していることを表している。
 「資金の流れが株式市場に向かった」というのは、ようは、銀行がババ抜きのババ(国債)を手放したということだ。それが可能なのは、株価が上昇の局面にあるときに限られる。株価の上昇は政治的な制御がうまくいけば、日米共にもうしらばらく続くから、この作戦は悪くはない。だがその後、ババをひくのは国債を担う国民になるのだが、日本国民なのだから余裕のある人は国を支えるのも悪くはないだろう、と皮肉めいた気持ちになる。
 現状ではまだ危機ではないとしても、長期金利上昇が2%を越えるのはシナリオではなくスケジュールとして見ていい。そうなったとき、問題の局面が変わるのだが、実際の問題は財務省の狼狽だろうか。増税をしかける政治への介入が強まるだろう。小泉続投となっても続投不能でも、実施時期の差異がある程度で、増税は避けられない。民社党政権ができても、本質的な問題可決にはならないのだから、同じことかもしれない。いずれ、増税問題が明確に国民に突きつけられる。
 あるいは、日銀を抑えて、いよいよ政府主導のインフレにアクセルを踏み出すのだろうか。奇っ怪な想像だが、アメリカがそのためにもっと具体的なシナリオを日本に提示するかもしれない、といったらまるで田中宇なみの陰謀論になってしまうか。

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2003.09.03

医師の名義貸し問題は単純ではない

 朝日新聞社説「名義貸し――医師の倫理はどこに」は読んでいて不快になった。無知な正義は小さな悪よりたちが悪い。当の問題は、勤務していない医師なのに病院から報酬を受け取る名義貸しだ。時事的には、北海道でこの実態が発覚し、文部科学省が全国的な実態調査を指示したという背景がある。
 朝日新聞社説はこう糾弾する。


 しかし、「実態を伴わない勤務で報酬をもらうのは許されないこと」(遠山文科相)だ。名義を借りた病院が診療報酬を満額受け取るのも許される話ではない。
 とくに問題なのは、教授を頂点とした医師の集まりである医局が組織的にかかわる例だ。不正を若手医師に強要するのは、教育機関としてあるまじき行いである。医師の職業倫理をどう考えているのだろう。

 稚拙な正義だが好意的に見るなら、朝日新聞社説はこの糾弾の前に実態について多少考慮はしている。

 各医療機関は医療法で、患者数に応じた医師の標準数が定められ、その6割以下の医師しかいないと診療報酬が減額される。一方、大学病院には無給や低い賃金で研究や診療を続ける若手医師が大勢いる。名義貸しで、医師不足の医療機関も大学の若手医師も経済的に助かるのである。

 つまり、社会問題はこちらだ。大学の医局員は給料だけじゃ家族も養えない。この悪弊は、医者不足の医療機関と大学医局と利害調整できた実際上の制度だ。稚拙な正義を通すことで、医者不足の地域の病院がつぶれるだろう。
 こっちの問題に対して有効な提言をしてこそ新聞社説として意味がある。制度をどう改善したらいいか、市民にわかりやすく展開すべきだろう。
 加えて、なぜ「北海道」なのについて言及しなければ、ジャーナリズムとは言えない。こうした名義貸しの問題は北海道だけではないが、都市部ではすでにそうした現象は見られない。つまり、この問題は、都市化の過程で構造的に調整されてしまう傾向がある。構造的な問題は、むしろ、非都市部の医療の社会体制にある。
 個人的な観点だが、もう一点視点を加えれば、大学の医局は医学の研究機関とし、医療はむしろ町医者のネットワークにすればいいのではないか。ここでは詳細に論じることができないので短絡的な表現になるが、いわゆる医療は20世紀の段階で収束している。社会的に必要な病気への対処は、基本的な看護の対処、通常の外科(軍医)、エッセンシャル・メディスン、加えて栄養指導でことが足りる。ただ、現代人の病気については、基本的に長寿化と非自然的な環境による免疫疾患なので、別の対処が必要になる。

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2003.09.02

大型トラック速度抑制装置規制の薄気味悪さ

 社会の話題としてはすでに織り込み済みだが、ちょうど9月1日から実施されということで、大型トラックの速度抑制装置義務付けについて産経新聞社説が触れていた。産経新聞社説は政治だの国際だのを論じなければ、なかなか繊細な社説を書くようになったと思う。
 主張は単純ではないため読みづらい。社説なので初段にまとめを述べる必要があるのだが、それ自体は曖昧だ。


スピードオーバーが原因で多発する追突事故の防止が主な狙いである。と同時にトラック中心から鉄道や船舶が一体となる新たな物流体系確立への追い風になる好機と受け止めたい。

 曖昧なのはしかたないだろう。好意的に読み込むなら、この措置が狙い通りに機能しないということを示唆している。そして重点を物流体系に置いているのだが、確かにそう考えざるをえない。
 話を原点戻して、なぜこんな規制ができたかだが、表面的には、高速道路の死亡事故の約23%が大型トラック、その約半数は法定速度80キロを越えた追突事故だったからだ。考えないで読むと、いかにも数字の裏が取れているようだが、そうか?まず、法定速度80キロを守れば追突事故の惨事が減少するということは疑わしい。仮にそれを鵜呑みにしても、全体の高速道路死亡事故の10%にしかならない。
 警察の無秩序なネズミ取りに翻弄される市民としてみると、今回の措置のウラは、警察が規制をやっても利益が上がらないことの言い訳のように思える。おそらく今回の規制では、現状を起点として大型トラックが全て80キロで走った場合の交通状態についてきちんとシミュレーションなどしていないのではないか。つまり、行き当たりばったりの規制だろう。
 私が薄気味悪く感じるのは、官僚が遵法をかざして構造的な解決を迫ることだ。市民社会を向上させるのは遵法ではなく、実態と構造的かつ段階を踏んだ解決案だ。
 産経新聞社説の主張では端から物流への影響を見ている。そのように論じるほうが実際的だ。結論も一見単純になる。

 中小の運輸会社には深刻な事態となろう。しかしこれを物流全体を見直す契機としたい。

 意図的に繊細に書いたのだろうと思うが、物流という観点に立つとき問題なのは、「中小の運輸会社」だ。現状のトラック物流はすでに奇妙なほど細分化した中小の運輸会社に頼っている。露骨にいえば、闇のマーケットに近づくことでマージンを搾取するシステムが確立している。そして、その闇は結局のところ、現状の社会の闇を吸い取る形で社会構造に寄与している。簡単にいえば、男一人トラックの運転手で人生が立て直せる。
 そう見ていけば、この規制は、結果としてこの闇のマーケットの構造をさらに悪化させることになるだろう。幸い規制は段階的に導入されるようなので、この闇のマーケット(トラック業界の末端)の構造変化に気を付けていたい。

追記

SPA10/7「大型トラック90キロスピードリミッター導入は一般ドライバーに吉か凶か!?」が面白かった。1か月後に走ってみた話だ。リミッターがほんとに効いているのか疑問ありそうだ。一般ドライバーにはひやひやものだが、90キロで追い越しが増えるのではないかと予想している。下道をがんがん走るのでは、とも。そのあたりも気にしておこう。

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2003.09.01

中国人民元の維持は世界の時限爆弾

 産経新聞社説「中国人民元 小幅上げでお茶を濁すな」はバランスが取れた主張で好感がもてた。結論は見出しのとおりだが内容はもう少し繊細に展開している。


 購買力平価を参考にする意見もあるが、これだと対ドルで14%、対円で5%しか切り上がらないし、常に為替相場を決定付けるのは競争力だ。いきなりの変動相場制移行も、資本取引を禁じてきた中国の市場対応力からみて難しい。「世界の工場」が大混乱すれば日米欧経済にも波及する。

 だが、ただ切り上げ幅を増せというのではない。

 ここは小幅切り上げでお茶を濁さず、せめて切り下げ分を戻した上で変動幅を設けるのが現実的だろう。中国にとってもそれが厳しい変動制移行圧力を避ける最善の道ではないか。
 とはいえ、こうした提言を中国が認めるわけはなく、まるで効果がない。しかも、だからといって中国を責めても改善するような国ではない。結局のところ、中国に外貨が貯まり過ぎて世界経済が音を上げるまでこの状態が続くだろう。現状の人民日報(参照)の論説はその時に笑い話として歴史の片隅に残るだろう。

 やっかいなのは、最初に音を上げるのはたぶん日本であり、しかも日本の音の上げかたは、まるで鬱病患者の自殺ようにひっそりとするだろうから、結局米国が切れるというストーリーになるだろう。印象でいうのだが、結局日本に貯めてある莫大な金を世界システム的に漏出することで最悪の事態は回避されるのではないか。偽虐史観どころじゃない話だが。
 この問題のシグナルを読む上で邱永漢(参照)が面白いことを言っている。切り上げの前に株高が起きるというのだ。経験的な視点だが、このまま世界状況が推移すれば、おそらくそうなるだろう。中国関係で小金持ちが騒ぎ出せば、災厄は近いとみるべきか。
 ただし、これも印象でいうのだが、SARS騒ぎのような事態を見ていると、中国を取り巻く世界の状況はそう淡々と推移していくとも思えない。案外、中共はそうした予感を織り込んで人民元を攻防しているのではないか。

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