法教育の基本は民事の理解を中心とせよ
朝日新聞の社説「法教育――可能性を秘めている」はよい意味で朝日新聞らしい視点だった。司法制度改革の一環として法務省内に7月末、法教育についての研究会が発足したことを受け、子供達に法教育の必要性を説いている。ただ、社説の展開はだらけてしまった。だらけたというのは、毎度ながら道徳論になってしまったためだ。
自分の頭で考え、決断し、そのことに責任を負う。そうした自立した個人が自由で公正な社会をつくっていく。法教育はそのための土台になる。
こうしたまじめ腐った物言いによる擬似的な道徳観は法教育と対極にあるものだ。
法教育でなにがもっとも重要か。私は2点あると思う。一つは民事の理解だ。民事とはなにか?傲慢な言い方に聞こえるかもしれないが、大半の市民が民事を理解していないように思われる。話をはしょってしまうが、日本人が民事を理解できないのは、社会正義を理解していないためでもある。日本人は水戸黄門のような超越的な正義を社会に幻想してしまう。この傾向を新聞が推進してもいるだが。
社会正義という概念は相対化されないが、現実の生身の生活の場面では抽象化されすぎて、実際的な用途はない。むしろ、それは個人の内面の倫理に近い。実際の生活の場面で重要なことは、法という道具を使って市民社会に不利益を問う姿勢だ。この前提には、市民社会が法の依存する国家と対立しているという重要な問題があるが、簡単にいえば、市民を現実場で苦しめているのは市民社会の現実の闘争であり、市民はこれに法で申し立てをしくてなくならない。
話が難しくなってしまったが、「誰もあなたを守ってくれない」だから「あなたは法で自分を守らなくてならない」そして、「守るというのは不利益を金銭に算出し直すこと」だ。話が短絡してわかりづらいと思うが、民事とは一見正義に見えるものを経済に変換することだ。ずばりいえば、「私の社会不利益に対して社会は金銭で補え」ということだ。
二つ目の問題は刑事の理解だ。だが、これは残念ながらほとんど絶望的だ。理由は簡単に言えば日本の警察が機能していないためだ。この問題は笑い飛ばすには根が深すぎる。
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