池田小事件をどう考えるか
新聞社説は今朝もこぞって同じだった。テーマは池田小事件である。日経までこのテーマを扱う理由もわからない。社説ごとの主張の違いはほぼない。微細な違いはあるのかもしれないし、行間にくぐもる思いのようなものや、継ぎ接ぎした編集の後が見えないでもない。だが、それらは読み込むほどの意味もない。
私がまず疑問に思ったことであり、新聞社説が触れなくてはならないはずだと思ったのは、「死刑」の妥当性と死刑制度への表明だ。産経は当然としているが、朝日も「争点だった被告の責任能力が認められた以上、死刑以外に選択の余地はなかった。 結果の重大さを見れば、死刑であっても、とうてい罪を償えるものではない。」としていた。おい、どうした朝日新聞、という感じだ。ここで死刑廃止を縷説してみせてこそ、朝日新聞ではないのか。皮肉ではない。朝日新聞に期待するのはそれだ。日本の社会の、こうした状況だからこそ、死刑廃止の提起が求められる。
次に疑問に思ったのは、各紙ともに、惨事を避けられなかったのか、という修辞的な疑問を投げかけているが、実際的にこの疑問は問えないものなのだろうか。率直に思うのだが、命をはった先生が少なかった(かろうじて一人だろうか)。子供の命のために殉職するのが先生ではないか。そう問うべきではないのかもしれない。だが、警察官や消防士もその使命のために殉死することがありうる職業だ。人の命を預かる先生となる以上、同じ覚悟をもつべきではないか。
社説への疑問から離れて、今回の最終の裁判で私が思ったことがある。宅間守被告は「最後に言わせろ。どうせ死刑なんやから」と言って裁判長から退廷を命ぜられた。当然、法廷では適切ではないのだが、その最後の言葉は聞いてみたい。不謹慎のように思われるかもしれない。だが、それを表面的に避けてよしとするのは偽善だ。宅間守被告の声は我々の内面にくすぶる悪魔的な心の声の代弁だろう。我々の心の悪魔的な一面は彼に共感している。そのことは、彼に向ける社会の関心から伺える。我々はこうした悪魔的な心から離れている存在ではない。国立付属に通うエリート小学生が象徴する社会のありかた、それをねたむ気持ちは多数が持っている。もちろん、その気持ちを今回の事件のように出していいわけではない。人はその暗黒の思いをどうにか緩和して生きる知恵と社会的な装置を必要とするものだ。
その装置の具体的な実現に向けては、池田小を含むコミュニティの社会学的な解析がまず必要なのではないか。
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コメント
今日増えている学校の安全対策には、憲法の精神が抜け落ちています。
平和憲法の9条では、武器を持たず対話で危険を回避すると言う崇高な精神があるのに、
日常生活でこれを忘れてしまっています。
学校にサスマタなどの武器があるのが犯罪などの危険の元になるのです。
自衛隊があるから戦争になるのと同じです。
憲法に明記されたような非武装中立、そして対話こそが我が子を守る最高にして最良の方法なのです。
皆さん、なぜ日本が周りの国から嫌われているかご存知ですか?
それは答えるまでもありませんね。
日本が過去に周りの国に酷いことをたくさんしてきたからです。
では子供達はどうでしょうか?
ごく一部の親バカにはわからないことかもしれませんが、
子供達は悪戯といったちょっとしたことから、万引きといった凶悪な犯罪まで、
地域社会に対して大変酷い行いを繰り返してきました。
これが子供達が狙われる根本的な要因なのです。
武器を持つと平和は崩れます。
こちらに原因があるのに武器を持つと言うのは言語道断です。
武器を持たずに対話で解決するという崇高な精神を大切にしましょう。
憲法9条を守ろう。そして日常に広げよう。
皆さん、この書き込みをいろんなところにしましょう。日本の未来がかかっています。
投稿: 朝少なし | 2006.07.20 18:36
↑ではあなたは、誰かが、どこかの軍隊が攻めてきたら、抵抗せずに死ぬのですね?みんなで死のうと呼びかけているのですね?きちんとそこまで言わないと、良くないと思いますよ。
私は、そういう死に方に賛成です。
投稿: marco11 | 2006.12.19 03:46