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2003.08.31

イラク人統治を急いで進めても解決にはならない

 イラクのシーア派が爆弾テロを受け、イラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)の指導者ハキムを筆頭に100人近い犠牲者が出た。シーア派に敵対する勢力であることは間違いないが、親米的なハキムへの反発と見れば、先日の国連事務所テロと同じく反米テロとも考えられる。
 先日の国連事務所へのテロはイランのシーア派によるものではないかと私は推理した。だとすると今回のテロの説明は多少難しくなる。事態の推移を見ていきたい。
 一点書き加えたいことは、戦時下でシーア派ナジャフ在住のシーア派指導者サイード・アル・セスタニはイラク国民に、米英軍への抵抗を呼び掛ける宗教令を出したことがある。シーア派が親米ということはなく、フィセイン統治下で主勢力だったスンニ派と対立している。
 さて、朝日新聞社説「モスク・テロ――統治を早くイラク人へ」はまたしても悪質な誘導なのかただの間抜けなのか。


ここは米英両国が占領政策の失敗を認め、イラク人による新政府樹立へのプロセスを加速すべきである。このプロセスに並行してイラク人自身の警察や軍を再編し、治安の回復にあたるのが得策だろう。

 「んなわけねーだろ」と突っ込みを入れて済む冗談なのだろうか。ちなみに毎日社説も同じようなものだ。
 当のイラク国民のなかが割れているのだから、イラク人統治が早急に進むわけがない。むしろ、朝日新聞社説のようなら論者の誘導に図に乗って、米英軍が撤退すれば、イラクは内戦状態になるだろう。
 朝日新聞社説のブラックジョークはさておき、問題はなにか。より治安の強化を図るべきだという大筋に加え、イラクの都市民のライフライン整備を急ぐべきだろう。むしろ、復興はいったんあきらめて、代替的な市民生活の可能性を求めるべきではないか。露骨に言えば、テロがイラク国民の敵であることを認識させるようなシカケを都市部に施すことだろう。

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2003.08.30

6か国協議のポイントは中国の動向だ

 北朝鮮の核開発問題をめぐる6か国協議が終わった。各紙社説がこぞってこれをとりあげるのはしかたがないが、予想外の展開はなかったため、各紙とも毎度ながらの路線で書き飛ばしただけだった。
 もううんざりという気分もあるが、北朝鮮関連の朝日新聞の社説には開いた口がふさがらない。冗談として笑い飛ばすにはあまりにひどすぎる。朝日新聞社説の話の展開はこうだ。


  1. 日本は北朝鮮への経済援助国でもあり米国ともつながりが深い。
  2. だから、米朝関係の改善を助けることができる。
  3. 米朝関係が改善すれば核問題は解決する。
  4. 改善の障害になっているのは拉致問題だ。
  5. 拉致問題の解決には限界がある。
  6. 拉致問題に手間取っていると核問題が深刻になる。

 ようするに、この展開では拉致問題は後回しにしろということになる。しかし、この後にこう続く。

これを打破し、日本が主張するような核と拉致の包括的な解決に向けて日本自身が役割を果たすには、結局、拉致問題打開の糸口を一日も早くつかむことしかあるまい。まず被害者の家族の帰国を実現させ、それを手がかりに日朝の対話を開くことに、政府は全力をあげてもらいたい。核問題と拉致問題が絡み合った知恵の輪を解くには、確固とした外交戦略とそれに対する国民の理解を得る努力が要る。

 この結論だけみればまっとうなのだが、全体は支離滅裂。ようするに朝日新聞社社内で意見が割れたためにこんなキメラができたのだろう。好意的に見るなら、「被害者の家族の帰国を実現」でお茶をにごそうとする田中均の路線の補強だが、冗談ではない。表面的な「被害者の家族の」の裏には膨大な拉致問題が隠れているのだ。朝日新聞のこの問題についての論説は愚劣極まる。
 各紙社説のなかで今回は日経だけが、中国の動向に僅かにふれていた。

中国は議長国として冷静に振る舞ったが、北朝鮮の言動へのいら立ちが漏れ伝わってきた。日米の強固な姿勢にもかかわらず北朝鮮が協議をボイコットしなかったのも、一段の孤立を恐れたからとみられる。

 この点が重要だ。おそらく、当初の北朝鮮の夜郎自大な態度を抑えさせたのは中国だ。背景は2つ考えられる。中国の対日政策の一環、それと、北朝鮮と中国の問題だ。
 なぜか日本のジャーナリズムでは言及されていないが、北朝鮮国境地帯の中国での治安の悪化はかなりのもののようだ。国境を接しているがゆえにうける中国の被害がある限界を超える可能性もある。このあたりの情勢が、実は、全体の構図を変える要因になりうる。
 たわいない余談を付け加えたい。歴史に悪名高い随の煬帝だが、その帝国の統治が悪かったわけではない。その滅亡原因は高句麗攻めの失敗だった。古代史においては、高句麗の背景に突厥が潜んでいるのだが、いずれにせよ、北朝鮮の地は中国の統治を揺るがす呪いが感じられる。

[コメント]
# 鴨緑亭 『今回は中国・ロシアはメンツ潰されたんじゃないですかね。』

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2003.08.29

池田小事件をどう考えるか

 新聞社説は今朝もこぞって同じだった。テーマは池田小事件である。日経までこのテーマを扱う理由もわからない。社説ごとの主張の違いはほぼない。微細な違いはあるのかもしれないし、行間にくぐもる思いのようなものや、継ぎ接ぎした編集の後が見えないでもない。だが、それらは読み込むほどの意味もない。
 私がまず疑問に思ったことであり、新聞社説が触れなくてはならないはずだと思ったのは、「死刑」の妥当性と死刑制度への表明だ。産経は当然としているが、朝日も「争点だった被告の責任能力が認められた以上、死刑以外に選択の余地はなかった。 結果の重大さを見れば、死刑であっても、とうてい罪を償えるものではない。」としていた。おい、どうした朝日新聞、という感じだ。ここで死刑廃止を縷説してみせてこそ、朝日新聞ではないのか。皮肉ではない。朝日新聞に期待するのはそれだ。日本の社会の、こうした状況だからこそ、死刑廃止の提起が求められる。
 次に疑問に思ったのは、各紙ともに、惨事を避けられなかったのか、という修辞的な疑問を投げかけているが、実際的にこの疑問は問えないものなのだろうか。率直に思うのだが、命をはった先生が少なかった(かろうじて一人だろうか)。子供の命のために殉職するのが先生ではないか。そう問うべきではないのかもしれない。だが、警察官や消防士もその使命のために殉死することがありうる職業だ。人の命を預かる先生となる以上、同じ覚悟をもつべきではないか。
 社説への疑問から離れて、今回の最終の裁判で私が思ったことがある。宅間守被告は「最後に言わせろ。どうせ死刑なんやから」と言って裁判長から退廷を命ぜられた。当然、法廷では適切ではないのだが、その最後の言葉は聞いてみたい。不謹慎のように思われるかもしれない。だが、それを表面的に避けてよしとするのは偽善だ。宅間守被告の声は我々の内面にくすぶる悪魔的な心の声の代弁だろう。我々の心の悪魔的な一面は彼に共感している。そのことは、彼に向ける社会の関心から伺える。我々はこうした悪魔的な心から離れている存在ではない。国立付属に通うエリート小学生が象徴する社会のありかた、それをねたむ気持ちは多数が持っている。もちろん、その気持ちを今回の事件のように出していいわけではない。人はその暗黒の思いをどうにか緩和して生きる知恵と社会的な装置を必要とするものだ。
 その装置の具体的な実現に向けては、池田小を含むコミュニティの社会学的な解析がまず必要なのではないか。

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2003.08.28

冷夏でうまい米が急騰する

 産経新聞社説「冷夏の影響 便乗値上げに監視の目を」のテーマはよかった。今年は冷夏のため、いわく「十五年度産の早場米の入札取引では、コメの価格は、二-四割以上高騰している銘柄もある。」とのこと。
 生活者の実感としてもこの問題の深刻さが感じられるようになってきている。現状、報道機関からの詳細なニュースを聞いたことはないのだが、大手卸業者は個別に農家をしらみつぶしに回ってうまい米の買いあさりをやっているようだ。
 問題を少し整理しておくと、ようは冷夏で米不足になる、ということではない。不作は不作だが、十年前のコメの不作と違い、ゲロまずい政府備蓄米が年間消費量の二割もある。だから米がなくなることはない。食料不足に悩む世界の大半の状況を思えば、米なんか食えりゃいいだろうとなるのかもしれない。問題は、銘柄米の急騰だ。
 産経新聞の結論はというと、ポイントがずれている。


政府がやるべきことは、まず、コメの買い占めや便乗値上げに目を光らせることだ。こういうときこそ九千人近くもいる食糧事務所員を、実需でないコメの値上がりの監視に投入すべきだろう。

 産経新聞社説は勘違いしているようだが、銘柄米の急騰自体は便乗値上げとは違う。正常の市場メカニズムの一端だ。
 こう考えるべきかもしれない。うまい米を食いたいと思えば、高くてもしかたがない、と。通販生活やスキップなどうまい米を市場価格より高く売る通販業が人気だ。農業というのも才覚さえあれば、けっこういい商売になってきているとも言える。
 それはそれでしかたないのだろう。ただ、すでに旧来の意味での農業政策は転換したほうがいいようにも思える。それでも、実際国家が米の備蓄を減らせば、日本人はまたパニックになってしまうという国民なのだ。

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2003.08.27

憲法改正は無意味

 日経を除いて大手新聞の社説が今朝はこぞって自民党の憲法改正案の動向を扱っていた。産経は右よりというだけで内容はない。朝日は「首相自身の過去の発言や最近の自民党の動きを見れば、主眼が9条の改正に置かれていることがはっきり見える。 」と悪文の上、またこの話かよ、だ。読売はナベツネの意向で大はしゃぎが醜悪。毎日は「経済打開が最大課題の時に、国論を二分するような論議に首をかしげる人々も多いことを、首相は直視しなくてはいけない。」というが、そのあたりが一般の人の感覚だろう。

cover
痛快!憲法学
 日本の憲法は小室直樹の考えをうのみにするわけではないが、成文法としてみれば「死んでいる」。そもそも憲法は成文法だけをさすわけではない。憲法は本質的には慣習法であり、実際戦後の歴史で解釈改憲を行っているので、いまさら成文法に手を付けるとすれば、解釈改憲の歴史推移を明文化するしかない。しかし、その必要すらない。解釈推移の便覧があればこと足りる。
 憲法の問題といえば、朝日が条件反射するように戦争放棄だと九条だのということになるが、この手の条文はオセアニアの島々の小国なら盛り込まれている。もともと米国は日本をオセアニアの小国のようにおとしめたかったのだろう。
 国家と市民は本質的に対立するのだが、その際、国家から市民を守るための装置が憲法だ。国際平和などは二次的な意味しかない。日本における憲法の問題は、その装置が明確に機能できないことだ。さらに、日本の憲法は最初から国民的な統合ができないようにしくまれている。例えば、大統領制度と国民投票は事実上不可能だ。いかんともしがたい。現状の日本国憲法は日本国民の意思を明確にさせない装置であり、その運用の歴史を見れば国民はそれを是認している。日本人は国家としての意思はもたないというのが憲法以前の原則であり、実状でもある。
cover
うるさい日本の私
 否定的に響くだろうが、この状況で日本国だの国家だのという問題は考えるだけナンセンスだ。具体的な日本の市民社会を充実するための、小さな装置を作っていくほうがいいだろう。他国の憲法を見ればわかるように、憲法は市民生活に密着した規則の根拠となる原則だ。市民の健康なども重視されている。本来憲法とはそういうものであって、理念だの平和だのといった抽象的な問題ではない。日本では、そうした本来の憲法が機能できないのだから、機能的に等価な疑似システムを作り、市民社会の質を高めるしかない。
 単純な例でいえば、中島義道がいうように、うるさい日本を静かにすべきだし、公共の空間に美的な秩序を求めることだ。自転車の放置やその無法な運転(軽車両が歩道を走るなよ)といった具体的な問題を解決する装置を作り出すことが、生活に密着しているという点で本来の憲法の代替たりうる。

追記:日経は翌日このテーマを扱っていたが、つまらなかった。

[コメントを書く]
# shibu 『そうですよね。なんも最高裁判所の判例がどうたら議論する以前に、行政の単なる一部門の内閣法制”局”なんてところが勝手なこと言ってるだけなんで、見の程知ってねと首相が「はい!今日からこれこれでいきます。」ってなことで、あんたの役目はこの方針を格好よく飾り立てることですからね、できないなら他の人にやらせます、でいいんじゃないですかね。それについても「国会の承認を得たい」なんて安倍さんいってるようですけど、不要でしょう。』

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2003.08.26

照射食品導入には食品ラベル明記を

 読売新聞社説「食品と放射線 タブー視せずに議論を始めよう」の内容な陳腐なものだったが、この問題を広く社会問うという意味では有意義なものだった。主張は簡単だ。現在日本ではじゃがいもの発芽抑制を除いて照射食品は禁止されているが、これを緩和せよということだ。


照射食品の導入に慎重な日本とは対照的に、国際的には照射食品の規格をさらに緩和する動きもある。日本だけがタブー視して済む問題ではない。

 照射食品がタブー視されるのは、食品の安全性として問題点をあげつらう団体が多いからだ。だが、その批判点は大半が「買ってはいけない」レベルの低次元なものであることは、照射食品がWHOで認可されていることでわかる。きちんとしたルールで実施するなら、食品の安全性にはまったく問題がない。
 では諸手をあげて賛成するべきだろうか。私はそうは思わない。また本当の食の可能性が奪われる機会を増やしたくはないからだ。食は人間が生きる上で必要であるとともに、芸術的な感動をもたらす喜びの源泉でもある。飢えを満たすのでなければ、そこには繊細さが求められる可能性を残しておくべきだ。照射食品が一律に認可され、食品ラベルに明記されなければ、その繊細さを求めることはまた一層困難なことになってしまう。
 照射食品におけるビタミンB1の破壊など、冷蔵によるビタミンCの減少と変わらないとするような、食を餌と見る視点こそ拒絶したい。
 特に照射食品推進派の語りで気にくわないのは、読売新聞社説の修辞的な誘導だ。

香辛料の産地は衛生管理が不十分な途上国が多い。付着している多数の微生物を除去するのに放射線は効果的だ。一方、日本では加熱処理が続けられている。これでも殺菌・殺虫はできるが、香辛料の香りや色は劣化してしまう。

 こうした修辞にだまされてはいけない。香辛料は大量に人間が摂取する可能性は少ないのだから、照射食品とする適正が高い。だが、この例だけから他の食品も右にならえ、とはいえない。
 求められるのは、照射食品の段階的な解禁と食品ラベルの詳細化だ。

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2003.08.25

教員の高齢化は止まるのか

 読売新聞社説「教員採用増 世代交代を人事に生かす好機だ」は奇妙な感じがした。


(前略)教員採用者数は二〇〇〇年度を底に、全国的に増えつつある。とくに今年は、採用枠の拡大傾向が顕著だ。

 端から間違っているんじゃないかと疑念を挟むことは控えたいのだが、読売新聞社説を読むかぎり、数値の裏がなかった。よくこんなものが社説になるなとも思う。読売新聞社説の理屈はこうだ。

第二次ベビーブーム世代が学齢期を迎えるのに備え、一九七〇年代に大量採用された教員が、退職の時期を迎えつつある。文部科学省が掲げる少人数教育実現のためにも、教員が必要となった。

 だが、実際どの程度増えるのかわからない。増やすというだけの側面を見るなら、実際はどういう意味があるのかも漠然としている。
 文部科学省発表「平成13年度学校教員統計調査中間報告」によれば、小学校教員は40代以上が66%、高校教員では63%とのこと。誰も学生生活の経験があるのだから、そんな職員室の扉を開けたところを想像してみるといい。村役場という感じだろうか。ただし、半数以上が女性だ。
 教育現場で事件が起こると、関係者の談話のようなものがニュースに出るが、どれも判で押したようなくだらない内容なのは、こうした現場を想像するとわからないでもない。
 ついで話になりそうだが、知らなかったのだが、同社説に興味深い事実があった。

硬直した人事構成は、採用数で、正規の教員より常勤講師などの『臨時教員』の方が多いという状況も生んできた。

 現状では生徒の授業をしている先生はバイトの講師だというのだ。間違いでもないだろう。学校は今どうなっているのだろうか。教育面ですでに民間の塾との違いはないようだ。
 こうした問題はよくわからない。読売新聞が期待するように、若い優秀な先生が学校に増えることで問題は解決なだろうか。とうていそうは思えない。

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2003.08.24

国立大学法人化は当然のことだ

 毎日新聞社説「国立大学法人 力尽くして『良き法人』に」は、なんだか間抜けなトーンが漂っていた。


大学関係者は力を尽くしてほしい。文科省には自制を求めたい。

 呆れて脱力するしかない。制度と運用の違いがまるでわかっていない。問題は制度であって、運用で改善するということではない。
 国立大学法人化について簡単に触れておきたい。ちょっと変わった意見に聞こえるかもしれないが、まず重要なことは、国立大学法人化が日本の市民社会にとってはまるで問題になっていないということだ。騒いでいるのは関係者たちだけ。つまり、国立大学関係の人たちだけだ。ちょっと下品な言い方をすれば、「そーゆーあんたらが問題なんだよ」ということだ。
 なぜ日本人は大学制度に関心をもたないのか。そういうと嘘のように聞こえるかもしれないが、日本人は、大学名で識別され社会グループを形成するための学歴だけにしか関心を持っていない。社会が脱知性化されているという特殊な社会だからもしれない。実際のところ、現状、これだけ大学制度が機能していないのに、社会に弊害はなく大半の市民も知性のありかたになんの関心をもっていない。
 大学関係者たちが一番知っているはずだが、現在の大学生の知的レベルは低い。もっとも、まともな知的教育を受けていない全共闘世代が社会の中心的な位置を占めている現在、問題にならないのも当然なのだろう。あまり高踏的に言うのもよくないのかもしれないが、国際社会である程度の知的レベルが必要とされる場を覗いた人間なら日本の大学教育が知的な人間を育成するという点でまったく意味をなしていないことを痛感しているはずだ。単純な話、日本の大学では国際的にある大学との単位の交換すらできない。最近民族系の大学の入試資格がさも問題になったが、実態はくだらないイデオロギー闘争だった。誰もSATやACTについて触れていないことからでもわかる。
 言いづらいことだが、現在の大学の経営が教授会によっている現体制には大きな問題がある。その点だけでも、今回の国立大学法人化には意味がある。
 日本はこれから少子化に向かう。すでに現状の日本では多くの私大の大学入試は実質廃棄されている。そんなものが大学なんだろうかという惨状だ。
 エリート教育という意味ではないが、国際的に意味のある知的な層を作り出す社会システムは社会にとっても必要だ。国立大学にその可能性を与える契機として国立大学法人化は悪くない。
 さらに言えば、本来は歴史的に見れば大学とは私学であるべきだ。諸外国の現状ではアメリカですら私学は少ないという意見もあるが、知的なレベルで大学を見ていないからだ。私学こそが知的な独立の伝統をもちえている。

[コメント]
# shibu 『実学って分類がいいのかは知りませんが、例えば経営の経験ない人が経営学教えるとか、刑務の実際知らない人が刑事政策教えたりはまずいでしょ。同じく軍事や外交の知識の無い人が憲法論じちゃったんで変なことになっている。やっぱり実業界との人事交流(行き来)がないとダメだし、一旦教授になっても10年同じノート読んで時間潰してんじゃねぇ。』

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2003.08.23

薬剤師の社会的な重要性は市販薬についてではない

 今朝の朝日新聞社説「薬の売り方――薬剤師を生かすには」は、問題のポイントがずれまくっていて困惑した。そこで薬剤師について問題とされているのは、ドン・キホーテがテレビ電話を使った医薬品販売しようとしたところ、厚生労働省や東京都の規制によっての中止に追い込れた点だ。
 朝日新聞の主張はこの規制が間違っているといいたいのか文章が下手くそなのでいま一つわからないが、方向としてはそういうことらしい。


政府は、どういう薬を売れるようにするか、今年中にまとめることにしている。新たに浮上した『テレビ電話問題』についても、前向きに検討してもらいたい。

 この社説を読んだときの率直な印象は「バカだな」である。いきなりバカの壁を作ってしまう私にも問題があるので、説明しなくてはならない気持ちになる。
 朝日新聞社説が壁の向こうに見えたのは、「OTC(市販薬)と薬剤全体」をごっちゃにしていたためだ。多少なり薬学の知識のある人間なら、OTCなど薬ではないくらいのことは知っている。もちろん、そう言ってしまえば不正確きわまりないし、OTCでも重篤な副作用が発生することがある。とはいえ、おおざっぱにいえば、OTCは効かない。では、OTCの市場はどうなっているか、そしてその市場ではどういう利権が働いているのかを、ジャーナリズムは検証しなくてはいけない。
 薬剤師の問題については、もっと問題の根が深い。朝日新聞のようにのんきなことを言って笑いを取っていてもしかたない。

薬との付き合い方は難しい。地域密着型の薬局・薬店には、普段から気軽に相談でき、時間外でも無理を聞いてもらえるという良さがあることも忘れてはならない。目指すべきは、薬剤師がもっと身近で頼りにされる存在になることだろう。

 冗談だろうか。朝日新聞は薬剤師の仕事をまったく理解していないのではないか。
 日本の薬剤の状況において早急の課題は、代替調剤制度(参照)の導入だ。細かい問題点はあるが医者は薬を一般名で処方できなくてはいけない。なぜそれができなのかという問題の根ははっきりしているが、この社会問題を根治することはむずかしい。であれば、市民はなにをすべきかといと、薬剤について自分をまもるための最低限の知識をもつべきなのだ。残念なことにそのガイドラインは見あたらない。

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2003.08.22

温暖化への取り組みは技術を進める以外ない

 地球温暖化騒ぎはあまり気乗りしない。今朝の朝日新聞社説「異常気象――天の声に耳をすまそう」はくだらな過ぎて話にならないから他の話題をとも思ったが、株価の動向や国内政局などもっとくだらないので、先の社説を読み直すと、これは意外に念の入った作文であることに感心した。
 まず感心したのは、どこにも地球温暖化の原因について言及せず、またしても反米の政治誘導をやっていることだ。こういう作文の能力っていうのはすごいものだなと思うが、ジャーナリズムじゃ全然ないね。それにしても、原因について触れないというのは狡猾なものだ。ちょっと科学がわかる人間なら、単純に原因について触れたとたんナンセンスになってしまう*1。
 朝日新聞社説のこのくだりは目が点になった。


東西対立が緩和しつつあった88年の国連総会で、当時のシェワルナゼ・ソ連外相は「地球環境への脅威は、核や宇宙の脅威と変わらぬ緊急性をもってきている。軍事に基づいた国家の安全保障は今や時代遅れになった」と演説した。地球規模の生態学的な安全保障を訴えたのだ。

 おいおい、時代が違うよ、それに旧ソ連の思惑の背景から外したらこの言及にはまったく意味がない。まさかと思うが、朝日新聞は旧ソ連の状況なのか。
 さらにこう続く。

その後、国際的な温暖化への取り組みは進んだ。だが、米国の京都議定書からの離脱や9・11テロ、イラク戦争といった最近の激動の中で、せっかく高まった環境の安全保障という考え方は後退している。

 まったく何が言いたいのやら。激動なんかどうでもいいから環境問題に取り組めというのならそれはそれであっぱれというか白装束でも着てもらいものだが、そうでもないだろう。ようは、米国非難なのだ。
 米国の地球環境の取り組みがいいとは私も思わないが、京都議定書からの離脱はしかたないのではないか(参照)。他の国の対米的な政治戦略としては面白いが、当の地球環境にはまるで関係ない。およそ地球環境なんか人間がどうこうできるわけじゃない。氷河期だって来たのだ。
 できることは、技術を進め、適切な技術を評価して、環境を整備していくだけのことだ。単純な話、さっさと昔のエアコンを使っている工場や事務所に環境課税をかければいい。国際的な問題でいうなら、中国政府が中央権力を維持できるうちに、最新の環境対応の工業技術を日本から導入させることだ。

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2003.08.21

イラク混乱中の国連事務所爆破テロ

 バグダッドの国連事務所が爆弾テロを受け、国連職員が20人以上死亡、負傷者も多く出た。日本は、社会的な思惑とは裏腹に、公務員の出向以外、大国に比せず国連職員が少ない。この恥ずかしい現状を思うと、今回の死者を悼む思いが強くなる。
 事件についての朝日新聞の社説は笑いのめすには暗すぎた。悪魔的なトーンも感じられる。


恐れていた通りになった。政権の転覆をイラクの民衆の多くが歓迎したところまでは、ブッシュ政権の読み通りだったろう。だが、戦争の大義だった大量破壊兵器は見つからず、続いて起きたことを見れば、きわめて残念ではあるが、私たちの指摘は間違っていなかった。

 そうだろうか。全然違うと思う。さらに朝日新聞はこう述べる。

たとえ圧倒的な軍事力でフセイン政権を屈服させたとしても、その後、複雑な民族と宗教事情をかかえたイラクを安定させることがいかに難しいか。異教徒の一方的な占領がイスラム世界全体に屈辱感を与え、『聖戦』という名のテロを拡散させる可能性がいかに大きいか。

 イラクのような歴史性のない多民族国家をその国家の枠組みで安定させることは原理的に難しい。朝日新聞の主張が正しければ、独裁こそが解決となってしまう。また、今回の爆弾テロは「イスラム世界に屈辱を与えたゆえの聖戦なのか」というと、それは思い過ごしだろう。単に反米なのだ。
 朝日新聞は「犯人像はわからない」と言う。あたりまえすぎてくだらない。だが、その先はくだらないではすまされない。

フセイン政権の残党なのか。戦後の混乱に乗じて入り込んだアルカイダともつながる過激派集団なのか。

 ちゃんとものを考えたほうがいい。反米意識を高めることで利益を得る集団を想定したほうがいい。おそらく、イランを背景としたシーア派だろう。
 また、朝日新聞が冒頭の「とんでもない悲劇が起きた」は嘘だ。国連事務所は米軍と距離を置くために、米軍の保護が薄かった。国連の脇が甘かったのだ(参照)。今後は、日本の派兵を含め、あまりきれい事ばかり言っているわけにはいかなくなる。
 朝日新聞としては、こうした事件を梃子にして、世論を誘導したいのだ。

まずは米英両政府が、戦勝国として占領と復興を牛耳るのだという態度を改め、謙虚な姿勢で国連や欧州諸国に協力を求めることが出発点であるべきだ。

 しかし、この誘導が問題なのだ。
 ここでは詳細に論じることはできないが、イラク問題とは、フランスやロシアという偽装された国際世界のアナキズムを封じることが目的だった。これらの国は兵器商人であり、石油の国際マーケットを混乱させていた。世界はそうしたアナキズムによって根幹の不安定を抱え込めるほどの余裕はないのだ。だが、国家社会主義の亡霊はそのアナキズムこそ好機になるのだろう。

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2003.08.20

暴力団を単純に社会から排除できるのだろうか

 北九州市「倶楽部ぼおるど」店内に暴力団員が手榴弾状の爆発物を投げ、従業員9人が重軽傷を負った。店長はこの地域の暴力団追放運動の推進者なので、今回の事件は報復と見られている。こうした問題では、産経新聞と朝日新聞の社説が仲良く、暴力団に屈してはいけないという正義を声高に掲げていた。
 確かにそれはそうだし、朝日新聞社説は独自の左翼的なトーンもあるのだが、そうした些細なこと以前に、この事件はいったいどういうことなのか、漠然としている。
 というのは、フツー暴力団がそんなことするか? いや、最近の暴力団がらみの事件はフツーじゃない。
 今回の事件の容疑者33歳男性は逮捕時に舌を噛んで死んだ。奇妙な気がする。鉄砲玉ならちゃんと鉄砲玉らしい訓練と任務を受けていなかったのか。その後のムショ暮らしの指針はなかったのだろうか。暴力団を援護する気はないが、資本主義社会にあっての暴力団は一面で営利団体であり、また一面で私設警察でもある(警察は国営の暴力団)。そうした、組織としての合理性と伝統主義的な人事管理が崩壊している一端として、今回の事件があるように思える。
 日本社会の経済界の経営者や官僚のトップたちの管理能力が劣化したのと同じ現象が暴力団という組織でも起きているのだろう。また、もともと暴力団というのは中小企業レベルかあるいは、大手家電メーカーの全国展開みたいなものだったのが、そういう組織ができなくなっているのだろう。

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2003.08.19

チェチェン紛争に対処しようがない

 朝日新聞の社説に「チェチェン――この流血を見過ごすな」として、チェチェン紛争が言及されていた。今、なぜ?という思いとともに、この問題の複雑さに目をつぶりたくなる自分が想起されてなさけない。毎度ながら、朝日新聞はのんきなものだ。


プーチン大統領はこうした現実に目を向け、ロシア軍による人権侵害や過剰な武力行使を止め、違反者を厳正に処分すべきである。一方、独立派は無差別テロを完全に放棄し、過激派と絶縁することから始めなければならない。

 まったく、あんたって何様? さらに何様はこうおっしゃる。

そうした過程を経て、独立派を含むチェチェン側とロシア政府が、永続的な和平と復興について話し合う場を作り上げていくべきだろう。

 幼稚な理想論だと笑いのめして終わりにするわけにはいかないだろう。「永続的な和平」にはロシアがチェチェンの独立を認めるという含みがある。それこそがロシアが絶対に認めないものだ。朝日新聞はなぜそこまでチェチェン独立を夢みるのか、親ソ連意識がロシアへの敵意になっているのか、単に安穏とした日本に血なまぐさいコラムを投げかけたいだけなのか。
 朝日新聞のように「私は平和を求める」という偽善に陥るよりは、民族紛争は当事者が最後まで争えばいいと諦めるほうがましなのではないか。平和は望ましいが、そのために国際関係を巻き込ませるだけの利益の動機付けはもっと恐ろしい結果になるだけだ。

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2003.08.18

法教育の基本は民事の理解を中心とせよ

 朝日新聞の社説「法教育――可能性を秘めている」はよい意味で朝日新聞らしい視点だった。司法制度改革の一環として法務省内に7月末、法教育についての研究会が発足したことを受け、子供達に法教育の必要性を説いている。ただ、社説の展開はだらけてしまった。だらけたというのは、毎度ながら道徳論になってしまったためだ。


自分の頭で考え、決断し、そのことに責任を負う。そうした自立した個人が自由で公正な社会をつくっていく。法教育はそのための土台になる。

 こうしたまじめ腐った物言いによる擬似的な道徳観は法教育と対極にあるものだ。
 法教育でなにがもっとも重要か。私は2点あると思う。一つは民事の理解だ。民事とはなにか?傲慢な言い方に聞こえるかもしれないが、大半の市民が民事を理解していないように思われる。話をはしょってしまうが、日本人が民事を理解できないのは、社会正義を理解していないためでもある。日本人は水戸黄門のような超越的な正義を社会に幻想してしまう。この傾向を新聞が推進してもいるだが。
 社会正義という概念は相対化されないが、現実の生身の生活の場面では抽象化されすぎて、実際的な用途はない。むしろ、それは個人の内面の倫理に近い。実際の生活の場面で重要なことは、法という道具を使って市民社会に不利益を問う姿勢だ。この前提には、市民社会が法の依存する国家と対立しているという重要な問題があるが、簡単にいえば、市民を現実場で苦しめているのは市民社会の現実の闘争であり、市民はこれに法で申し立てをしくてなくならない。
 話が難しくなってしまったが、「誰もあなたを守ってくれない」だから「あなたは法で自分を守らなくてならない」そして、「守るというのは不利益を金銭に算出し直すこと」だ。話が短絡してわかりづらいと思うが、民事とは一見正義に見えるものを経済に変換することだ。ずばりいえば、「私の社会不利益に対して社会は金銭で補え」ということだ。
 二つ目の問題は刑事の理解だ。だが、これは残念ながらほとんど絶望的だ。理由は簡単に言えば日本の警察が機能していないためだ。この問題は笑い飛ばすには根が深すぎる。

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2003.08.17

なぜ香港で普通選挙が認可されるのか?

 7月1日の50万人と言われる参加者の国家安全条例反対のデモに、まず董建華が腰を抜かした。董との連携なのか、閣僚の田北俊が北京に飛び、採決延期のお墨付きを得た。このままいけば、4年後の行政長官選挙とその翌年の立法会選挙が普通選挙として実現するかもしれない。もともと、香港では普通選挙があたりまえだったのだから、香港の人々には違和感がない。
 問題はなぜ北京がそれを認めたか、という点だ。毎日新聞の社説はのんきなものだ。
一党独裁体制の中国政府が、香港の民主化を望むはずはない。だが、民意の裏付けのない操り人形の行政長官では、中国政府の思うような強硬措置をとれないこともわかった。
 中国政府の建前は「一党独裁」だが、実際にはその内部の権力闘争だ。SARS騒ぎも中国内部の政争だったと評価していいだろう。簡単に言えば、香港に普通選挙という飴玉を持たせることで胡にどんなメリットがあるのだろう。あるいは、胡の追い落としができるのだろうか。
 単純に想定できる敵対勢力としての、老人クラブと一人っ子エリートの固まった人民解放軍が、なにかまたわかりやすいデモンストレーションをやってくれるかな、と期待も高まるが、SARS騒動から見るとそのあたりの情勢も変わったようだ。
 まさか、本当に中国が民主化?という笑い話で、今日は終わりしておこう。

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2003.08.16

北朝鮮をめぐる6か国協議

 北朝鮮をめぐる6か国協議が8月27日から北京で開催されることになった。素朴な疑問を投げかけてみたいのだが、なんのための協議か? 選択肢は、(1)拉致問題解決、(2)北朝鮮の核開発放棄、だ。その両方だろうか?
 答えは、(2)北朝鮮の核開発放棄だが、(1)拉致問題解決もこの場に提起される。とすれば、6か国の圧力で北朝鮮に拉致問題の解決を迫ると考えたいところだが、今朝の朝日新聞の社説だと「日本政府の意向としては具体的な協議は日朝の2者で行いたい」、とのことらしい。確かに、「具体的な協議」は日朝で行うしかないのだが、そこに強調点を持ってくるあたりがいかにも朝日新聞らしい。笑える。
 朝日新聞が、北朝鮮の核開発放棄とバーターになる不可侵条約を既決のように扱っているのも笑える。
北朝鮮が核放棄の見返りとして米国に求めている不可侵条約の締結や、経済支援などへの対応は日米韓の間でさえ乱れがある。
 国家間の対等をいうなら、日韓米の相互不可侵条約として北朝鮮が侵略することも禁止するべきなのではないか。
 余談のようだが、国家というのは領土概念だけではなく国民も含まれるのだから、日本国民が拉致されるというのは国家への侵略以外のなにものでもない。
 とはいえ、実際、今回の協議で国際的な意味で問題なのは上の2点ではなく、中国とロシアのプレザンスなのだ。中ロは米国を牽制するダシにどこまで北朝鮮が「使えるか」ということが関心だし、米国としても本音では同様にこの中ロにちょっかいを出すためのネタである北朝鮮を捨てるはずもない。

[コメント]
# shibu 『そそ、あそこいつも片手落ちなんですよね。だからチョーニチとか言われるw 要するにおまえはあっち側なんでしょってことですね。はい!そうですっていっちまえばすっきりするのに、えらそに能書き垂れるから子供の教育に悪いんですね。朝鮮大学校のせんせでしたっけ、密航>徴用のことを「強制連行」とか書いたのわ。内地の日本人は徴兵されて外地の戦場に行ってたのにね。これってぬくぬく一番安全飯付き獄中10何年wにも言えるんですから、識者ははっきり言っていたっだかないと、戦後おバカ教育どっぷりの私達おぢさんはおろおろしてしまいますです。同じく人道とか甘い単語を使う前に、はっきり「国家侵略行為であ~る!」と宣言してもらいたいものです。そこから初めて、んじゃどーする?という考えも具体的に出てくるような気がします。』

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2003.08.15

終戦記念日の誤解

 ほぼ日刊イトイ新聞で8月15日。この日ついてとんちんかんなことを言って笑えた。


でも、いま生きている人にとって、いちばん大きな意味を持つ1日というのは、8月15日なんじゃないのかなぁ、と、ぼくは思います。国の憲法に、「戦争を放棄」したことをはっきり記している国は、日本しかないはずです。(もしかすると、法に詳しい方が、解釈によっては他の国の例もある、というようなことを教えてくれるかもしれませんが。ぼくは知らないので)戦争をしないと決めたことが、ぼくら日本人の考え方のみなもとに、大きく関わっています。

 国際紛争を解決する手段としての戦争放棄している国は日本以外に、イタリア、ハンガリー、アゼルバイジャン、エクアドルがある。勉強しろよ、井の中のイトイ、っていう感じだが、 実は国際的な戦争放棄に関心がなくて、関心があるのは日本だけっていうことなんだろう。ま、そんなくさしはどうでもいいのだが、いまだに8月15日が終戦記念日になっていると信じているというのは、恥ずかしことだと思う。
 沖縄の組織的な戦闘が終結したのは6月23日ということになっているが、沖縄を含めた日本の最終的な講和は9月7日だ(参照)。日本の戦争が終わったというなら、この日こそ終戦記念日なのだが、そうなっていないところにいまだに沖縄は日本に復帰していないということなのか、戦争がいまも続いているということなのか。
 また、この日がアジアでどのように記念日とされているかも、諸国民の信頼を得るためにも知っておくべきだと思うのだがね。

[コメント]
# shibu 『え~と、すみません。8月15日は、降伏勧告ポツダム宣言を受諾したこちを国家元首がレコードでラジオを通して国民に知らせた日で、9月2日はそれに基づいて全権重光葵と梅津美治郎が降伏文書に調印した日。だから45年9月2日からサンフランシスコ講和条約発効の52年4月28日までが国家主権の無い占領期間であったと理解しております。』

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2003.08.14

平和教育の残酷さ

 読売新聞の社説「平和教育、理念と方法の見直しが必要だ」で現状の平和教育の問題点の一例として、「沖縄では、残虐な写真によって子供が人間不信に陥る恐れもある、とする平和教育の手引を県教委がまとめた。」とあり、共感した。
 沖縄と限らないが、平和教育として展示される写真の大半が猟奇的な印象を与える。はっきりいって、ある程度社会が理解できる高校生以上ならこうした展示も意味があるが、中学生以下の子供に見せるようなものではない。主催側としては真実を直視せよということなのだろうが、実際には心理的な恐怖を根付かせようとしているだけだ。恐怖によって人の心を支配しようとする目論見は独裁者のそれと同じだ。米国同時多発テロでも良識ある米国民はビル崩壊の映像をテレビで垂れ流すことに違和感を覚えていた。
 もう一点、時代というものなのか、「写真=事実」という前提があるように思われる。しかし、写真は事実ではない。編集可能な偽物だ。現代のように高度な画像処理ができる時代でなくても、コラージュで思い通りの写真ができた。仏新聞ルモンドもさすがに写真を掲載しているが、それでも写真というのが事実を捕らえる思考に害をもたらす危険性は知識人には理解されている。
 ヴァーチャルリアリティが現実感を奪うといった単純な議論が多いが、およそ擬似的に見えるものは事実ではない。なにより、平和というのは生活者の実感からうまれなくてはならないのだから、残虐な展示などは控えるべきだろう。

[コメント]
# shibu 『論旨明解!主張明確。仰る通り。戦場売春婦はカットされました。どこから見ても馬賊つらの「朝鮮義兵」もいなくなるでしょう。「恐怖によって人の心を支配しようとする目論見は独裁者のそれと同じだ。」ですぐ毎日見てるCCTVでの死体映像に被疑者取調べ自白シーンを思い浮かべました。一罰百戒もあるでしょうが、あれはまさにお説どんぴしゃの「現在の」実例でありましょう。』

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