2019.05.19

[書評] 「ル・マンジュ・トゥー」谷 昇のおいしい理由。フレンチのきほん、完全レシピ

 僕は料理が好きだし、おいしいものというより、変わったものが食べたいということもあって、よくレシピ本を買ったものだった。それがけっこうな数にもなり、ある種、飽和というのか飽きた。もう数年もレシピ本は買ってなかった。しかも、最近、利用している定額サービス、Kindle Unlimitedのレシピ本が充実しているのである。Kindle Unlimitedと言えば、クズ本ばかりと割り切っていたが、少なくともレシピ本はそうでもない。というか、このサービスでレシピ本を読むくらいでいいやと思っていた。この本、『「ル・マンジュ・トゥー」谷 昇のおいしい理由。フレンチのきほん、完全レシピ』もそうした一冊だった。定額サービスとはいえ、無料の感覚で読んでいたつもりだったが、衝撃だった。これはぜひ、手元に欲しい。ポチった。
 何が衝撃的だったのか。料理で知りたいことが、全部書いてある、という感じだった。もし、料理を習うということがあるなら、こういうことを習わなくていけないということが、きちんと書いてある。というか、自分の料理なんて、所詮、ど素人だなと痛感した。玉ねぎの皮の剥き方も知らなかったのである。この本の「最後に、この本で使う料理以前の大切なことを教えます」という見開きに載っている。
 もちろん、その、玉ねぎの皮の剥き方が、本当に正しいかというのはわからない。どう剥いたっていいじゃないかとも言えるだろう。ふとYouTubeを覗いたら、いくつか動画解説もあった。でも、まあ、本書を読んで、僕は、本当の、玉ねぎの皮の剥き方がわかった、というか、なぜこれが本当の玉ねぎの皮の剥き方なのかがわかった。
 で、本書の料理なのだが、変わった料理は何もないというか、それなりにフランス料理を知っている人ならごくおなじみの42レシピだけ。でも、それがどういう料理なのかというのが、本当によくわかる。なんというのだろう、素人とプロの差のコツがわかると言うのも違う。料理を作るというのはこういうプロセスなのだというのが、わかるのである。
 そして、自分の料理の最大の欠陥に直面することになった。僕の料理の持論だが(というのも恥ずかしいのだが)、一番難しい調理器具は、フライパンである、ということ。だから、僕みたいな素人はできるだけ、フライパンを使わないほうがいい。じゃあ、なにを使うか? まずオーブンの使い方を覚える、次に、スロークッカーと下ごしらえの方法を覚える、まあ、そういうふうに考えていた。これだけ、確かにびっくりするくらい、おいしい料理ができる。ちょっとした料理店よりおいしいじゃないかと思ってもいた。当然といえば、当然だ。手はかけていないが、きちんと時間はかけている。料理店はあまり時間をかけていないことが多い。
 とはいえ、僕もフライパンは使う。というか、実際のところ、よく使っている。鉄のタイプだ。だいぶ使い込んでいるので、焦げつきもない。テフロンのフライパンとか使うなよ、とも思っていた。
 が、本書は、すべての料理(例外もあり)を、テフロンのフライパンで作っているのである。ブフ・ブルギニオンから、あろうことか、ローストチキンまで。いや、率直に言って、このローストチキンはやり過ぎじゃないかとは思った。
 調理法はきちんと書かれている。YouTubeの動画なんかじゃわからない料理の微妙なところが正確に写真と解説でわかる。でも、率直に言って、超絶技巧という感じもしないではない。これは、真似できない料理なんじゃないか。
 それでも、真似はする。試してみる。ことごとく本書が正しい。
 昨晩も一品作った。唯一の例外となっているオーブン料理だ。魚のローストである。本書では、メバルだが、たままたおいしそうな黒鯛を見かけたのでやってみた。食べた。我ながら大げさな言い方になるが、こんなにうまい魚料理は食べたことないぞと泣けるほど、おいしかった。塩釜よりうまい。もちろん、魚料理にはいろいろあるのは知っている。干し魚を焼いただけのがおいしいというのもある。でも、魚の料理というのの本質を突き詰めたら、こういうものになるんだという味がそこにあった。
 とまあ、大げさに書いてしまったが、つまり、それだけ衝撃を受けた、僕は。

 

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2019.05.18

詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人

 今朝、Googleを見たら、ウマル・ハイヤームみたいな人の絵がある。

Screenshot20190518

 右手で幾何学、左手にぶどう。数学者でもあり詩人でもありということの表現だろうか。そもそもウマル・ハイヤームかなと、リンク先を見たらWikipediaの「ウマル・ハイヤーム」の項目に飛んだ。読むと、詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人という記載はなかったように思う。日本だけ知識が遅れているのかと、自分が理解できそうないくつかの言語の項目も見たが同様だった。もしかしてペルシャ語のならと、自動翻訳で見ただけだが、やはり詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人という話はないようだった。通説ではないんですかね。とか言うと、とんでも歴史を素人が書くんじゃないと歴史学者に知られてしまうだろうか。
 詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人という話は以前、このブログにも書いた。放送大学で数学史を学んだとき、講座で注意するように指摘があって、知らなかったので驚いたのだった。というわけで、ソースについては、そっちを見てほしいが……。
 ネットで確認できるソースはないかなと少し探してみた。調べかたが悪いのかもしれない。あまりないのだなと思ったが、東アジア人訊醜報學萌究センターの『伝ウマル・ハイヤーム著ノウルーズの書』という文書に関連の指摘があった。

ウマル・ハイヤームは、厭世観あふれる『四行詩集(ルバーイーヤート)』の作者として名高く、またセルジューク朝のスルターン、マリクシャーに仕え、数学や天文学の著作が多数残されている。しかし最近の研究では、詩人のハイヤームと、数学や天文学に秀でた科学者としてのハイヤームは別人と捉えられるようになった。数学や天文学に秀で、セルジューク朝のマリクシャーに要請されて天文表作成に携わり、ニザーミーの『四つの講話 (Čahār Maqāla)』(12世紀)などに名前の挙がる人物は、正しくは、ウマル・ブン・イブラーヒーム・ハイヤーミー (‘Umar b. Ibrāhīm al-Xayyāmī) という名前であり、ニーシャープール出身であった。もう1人、同時代に、詩人として知られるウマル・ブン・アリー・ブン・ハラフ・ハイヤーム (‘Umarb. ‘Alī b. Xalaf Xayyām) という人物が存在し、若干の詩が伝えられているという。ヒジュラ暦8世紀(西暦14世紀)ごろには、このふたりの人物が同一視され、新たに「ウマル・ハイヤーム」という、詩人にして自然科学者である人物が産み出されたのだ、と近年では主張されている (Ṭabaṭabā’ī 1991参照)。

 正確には、通説ということには至ってないだろうが、異説や個人研究言及の多いWikipediaなんだからというわけでもないが、というか、きちんとそれなりに最新の学説なのだから、注釈でも入れておいていいのではないだろうか。「おまえがやれ」とか言われそうだが、私はWikipediaを使って嫌がらせを受けたとこがあり、このプロジェクトにはあまり関わりたくないなと思っている。
 まあ、こういう考えは、現状では異説なのかもしれないし、私のような素人は異説好きと片付けられてしまうかもしれないが、それでも若い頃はアカデミズムを志しその訓練も受けてきたわけで、異説について鵜呑みをするものでもないと思うのだが、そうは言っても、アカデミズムの内部にいるわけでもなく、素人して多種の分野の知識に関心をもって、それを一種の趣味にしているわけで、つまりは、それが素人というものだろう。
 Wikipediaを使って知識をまとめれば、素人でも何か言えるような時代になった。そう言ってしまえば悪口のようだが、いいことなのかもしれない。というか、それをいいことにしていくには、どうしたらいいんだろうか。学術論文にも指摘があり、専門筋では通説化していることがあれば、学問好きの素人が、とりあえず受け取ってブログに書いてみるというのもいいのかもしれない。ネット全体がWikipedia のように機能するかもしれないから。そう思いたい。

 

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