2018.02.20

[アニメ] BEATLESS その0

 今期アニメ視聴途中で原作未読でなんとなく語ってみるの第三弾、BEATLESS。のっけからどうでもいい話かもしれないけど、このタイトル、最後の一文字のSがないと、 BEATLESで、つまり、「ビートルズ」になる。偶然ではない駄洒落なんだろうと思うけど、その意図はよくわからない。視聴現在地点は、途中総集編のintermission_0で、つまり、実質5回目まで。壮大なテーマがあれば、この時点ではまだわからないともいえるが、逆に言えば、この時点で視聴者を掴んでいないとこの先は難しい。というのが、このintermission_0の意味かもしれない。

 物語について。私がここまで見た範囲だけど。世界の設定は、22世紀の日本。ITC技術とその応用を除くとテクノロジーの基本的な風景は現在の日本と同じ。あまりに同じなんで少しがっかりもする。すでにシンギュラリティを超え、人間の知能を超えた超高度AIが存在する。人口減少を補うため、サービス労働さえもhIEという人型のロボットに任せている。最上位機種はレイシア級と呼ばれる。事件は、hIE行動管理企業「ミームフレーム」の研究所が爆破され、5体のレイシア級美少女hIEが逃亡するなか、事件に巻き込まれた主人公の少年・遠藤アラトはその1体レイシアに出会い(モーイ・ミーツ・ガール物語)、救われ、それをきっかけに彼女のオーナー契約を結ぶ。物語は、その5体とそれを巻き込む勢力の構想と、アラトとレイシアの交流で描かれていく、ようだが、まだ3体が登場したところ。
 当初の感想だが、世界観は難しくない。物語を修飾している用語については、私はどちらかというと人工知能やICT技術に詳しいほうなので、問題なくわかるつもりでいるが、逆にこれはちょっと一般にはレベル高すぎるのではないだろうかとは疑問に思った。
 物語の展開は、ここまではだるい。物語テーマの全体構造が現れていないのでしかたないとは思う。テーマの予感でひっぱるしかないが、現状では、その面ではレイシアと紅霞の2体のhIEに集中している。おそらく、この物語は、レイシアの存在そのものに掛かっているし、レイシアとアラトの関係(信頼、つまり愛)がキーではあるのだろう。が、現状でのその関わりの描写は、やはり既視感溢れて、だるい。美少女戦闘も同。友情シーンも同。お子様作品かなとも思うが、違うだろうという予感はまだある。
 物語の全体テーマは、AIの哲学的な側面よりも、その神話構造的な部分に持ち込んでいくのかなという感じはする。5体がそもそも神話的。

  type-001・紅霞:「人間との競争に勝つため」の道具
  type-002・スノウドロップ:「進化の委託先」としての道具
  type-003・サトゥルヌス:「環境をつくるため」の道具
  type-004・メトーデ:「人間を拡張するもの」としての道具
  type-005・レイシア:「人間に未だ明かされざる」道具

 神話の基本類型のキャラとしては、『ニーベルングの指環』のブリュンヒルデと、『ファウスト』のグレートヒェンとメフィストフェレスあたりが思いつく。基本的には、道具というより、導く者のギリシア的神として、『イリアス』の構造があるだろう。
 こうした神話的構成があれば、物語は必然的な悲劇を要求してくるだろうし、現状のだるい感じがその悲劇の仕込みなのではないかと期待している。
 というか、原作があるんで、読めよ、ではあるなとは思うが、アニメ見てから読むだろうと思う。

 

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2018.02.19

ためらいながらではあるけど

 日本人と限らず多くの人がフィギュアスケートの羽生結弦選手の活躍を賞賛しているなか、こういう意見を述べるのも、悪意のように取られるのではないかと恐れるが、自分としては若い選手の将来を思ってこういう意見もあるという、一つの小さな例として、ためらいながらではあるけど、書いておきたい。繰り返すが、こう思う人もいるというくらいの些細なブログ記事であり、強く望むという大それた主張ではないし、私はたぶん間違っているのだろうという疑念もあるので、そこは理解していただきたいと願う……私は羽生結弦選手は平昌冬季オリンピックに出場しないほうがよかったと考えていた。
 理由は、NHKスペシャル『羽生結弦 五輪連覇への道』を見たおり、昨年11月の怪我が深刻なものに思えたからだ。同番組では「自らの限界を超えて五輪に挑もうとする羽生結弦」というトーンで推していたが、そしてそれ自体はスポーツ選手として素晴らしいことではあるのは当然だが、ここでの「限界」がこの怪我の克服を意味するなら、怪我という身体的な損傷が癒えるまでの十分な時間とその後のリハビリであるはずだと私は思った。仮にではあるが、怪我が十分に治ってなく、痛みを堪える、あるいはさらなる悪化を招く危険のある演技なら、選手の生活全体を考えるなら好ましくはないのではないかと思っていた。これはけして、十分な演技ができない、という勝ち負けの問題ではない。勝ち負けという点でいうなら、オリンピック競技は誰かは必ず勝つ。フィギュアスケートでもその世界の時点でもっとも優れた演技を見ることができる。私のような人にしてみれば、それが日本人であるという重要性は少ない。
 良かったことは、彼の演技を見ると、怪我の影響はそれほどは大きくなく(しかし、それは私のようなものでも影響ははっきりと見て取ることはできた)、オリンピック参加にあたっては、一定水準の怪我の回復があったのだろうと思えたことだ。であれば、怪我を押してでのオリンピック参加はしないほうがいい、というのは懸念だっただろうか。
 あまり良くなかったかもしれないことは、昨日のNHK7時のニュースで本人の次の言葉を聞いたことだ。以下はその産経新聞での書き起こしから引用(参照)。

 「足首次第です。本当に、痛み止め飲んで(演技をした)。注射が打てればよかったんですけど、打てない部位だったので。本当に、痛み止め飲んで飲んで、という感じだったので。はっきり言って、状態が分からない」
 「ただ、はっきり言えることは、痛み止めを飲まない状態では、到底ジャンプが降りられる状態でも、飛べる状態でもない。だから治療の機会がほしい、と思うが、それがどれくらい長引くのか。アイスショーの関連もありますし」
 「せっかく金メダルを取ったので、いろんな方々に伝えたい、笑顔になってもらいたいという気持ちもある。競技として考えると、治療の期間が必要だなとは思う」

 どうやら身体の回復を第一に考えるなら、今回のオリンピックの演技でもまだ治療の期間が必要な段階にあったと見なせそうだ。その意味でという限定ではあるが、選手の身体を第一に考えるなら参加すべきではなかったという当初の私の考えも、私自身としては、変更することもないように思えた。
 しかし、問題は身体だけではない。心の問題がある。オリンピックでの演技は羽生選手の夢でもあった。そして、その夢の実現のためには、怪我の痛みや回復途中のリスクもすべて了解して、本人の意思で夢にチャレンジしたのだ、と。本人だけなく、支援者もそれを認めたのだから、それ以外の人が、参加すべきではないと言うべきではない、とも言えるだろう。私としては、そこは、半分くらいそうだろうと思う。あとの半分は、オリンピックの機関が、選手の怪我の状態を客観的に検査して参加の認可をする過程が必要だったのではないかということだ。
 私の些細な意見は以上だったのだが、少し追加したい。羽生選手から、「ほんとのほんとの気持ちは、嫌われたくない」という言葉を聞いて(参照)、少し痛みのような感覚を覚えたからだ。誰からも好かれたという思うのは、特に若い人なら自然な感情だろうと思う。ただ、人の期待に答えようとすると自分を見失いがちだ。特に、身体的な限界を超えるような他者からの期待には沿わないほうがいいくらいだ。
 ここからはもう怪我を押しての羽生選手のオリンピック参加ということから離れて、特に若い人の、期待に答えようとする真摯な生き方への、ある痛みのような思いに触れたい。
 具体的には若い人の過労死のことを思った。過労死の理由は、劣悪な労働環境にある。それはゆるぎないことだ。だが、以前、外国人記者が関連の記者会見で問うたことが心にひっかかっている。記者はこう疑問を投げた。「なぜ厳しい状況で働く社員が会社を辞めないのか」。これに対してその場では、他社も同じくらい長時間労働であり、日本全体がそういう状況になっている、というような答えがあった。つまり、どこに言っても過労死を強いるような労働環境だから、逃げ場はないのだ、というのである。質問した外国人記者は納得しただろうか。
 これ以上長時間仕事をしたら身体が壊れるというとき、なぜ逃げ出せないのか。逃げ場がないからなのか。私の考えでは、そういう精神状態に陥ったときは、すでにもう逃げることの意識は働かなくなっているだろう、すでにもう精神的に押し詰められている、というもので、であれば、誰か別の人が、やめなさい、逃げなさいと言うべきではないかというものだ。
 私の考えが正しいかどうかはわからない。間違っているんじゃないかとも思う。でも、自分が見て、誰かがそういう状況にあるなら、そしてもし私がそこで小さな声を上げることができるなら、ためらいながらではあるけど、そうするだろうと思う。

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