2017.06.25

[映画] カルテット! 人生のオペラハウス

 自分としてはまったくの偶然、『カルテット! 人生のオペラハウス』(参照)という映画を見た。最初、BBCという表示が目にとまったのでドキュメンタリー映画かなと、ふと思った。いつ制作の映画ともわからない。

 とにかくまあ、映画が始まっているなあという感じでいると、気品のある老女が乾杯の歌のピアノを流暢に弾き始め、そして身だしなみの良い老人たちの楽しそうな姿の映像が続く。場所は英国の老人ホームらしい。この時点で私は、この映画のタイトルすら知らない。そういうふうに、なんの予備知識もなくただ映画を見るという経験も面白いかもしれないと思い、見続けた。
 しばらくして主要な登場人物はこの老人だろうという4人がわかる。それからホームの自動車に記されたビーチャム・ハウス(Beecham House)という文字に目がとまり、これは音楽家専用の老人ホームなのだろうと思う。英国には軍人専用の老人ホームもあり、そこの老人たちは楽しくいていたなと思い出す。
 それから物語は美しい老女(この女優知っているはずだが)のホームへの到来を描き、ドラマが始まる。老人となった男女四人の声楽家として、人生や死の思いが交錯する。その合間、老人とは思えない演奏や歌声が諸処に入って楽しい。
 この時点で私もすっかりこの映画に取り込まれている。この老人たちは70歳から80歳くらいだろうか、この夏60歳となる私からすればそう遠くない未来であり、それまでの人生の悔恨も似たように負ってきたものである。自分はどのような最期を迎えるのだろうか。老人ホームや病院に入って人生尽きるのも、大いにありうることだ。それほど遠い未来でもない。
 あらすじは書く必要はないだろう。物語は単純と言えば単純だった。基本は主人公である男女の過去の恋と傷のいきさつが、老いの感傷とあいまって美しい英国の風景のなかで綴られていくだけである。とりわけ予想外の展開もない。きれいなヒューマンドラマとも言える。が、こうした老人を描いたドラマというのはあっただろうかという奇妙な疑問(あるはずだが)と、自分がこの老人に近いのだという困惑したような共感があった。主人公の男性(見覚えあるなあ)の懐古の思いも、またヒロイン老女の細かな女性的な感覚もディテールで痛いように伝わる。その点でいえば、あまり若い人には面白い映画ではないのかもしれない。
 自分も老人の世界に足を突っ込むとも思っていなかった。ある意味、無鉄砲な人生だったが、若い人もそう遠くなく若い時代は過ぎてしまうものだ。この映画の情景もそう遠いものでもないだろう。
 ハッピーエンドで1時間半くらいの軽い感じで終わる。エンドロールの前になって、主人公がダスティン・ホフマンで(しらばらく見てなくてかつ若い頃の記憶しかなかった)またヒロインがマギー・スミスと知る。ポーリーン・コリンズやビリー・コノリーはチャーミングだった。そして、主要登場人物以外の、あの音楽家の老人たちは本当にみなさん音楽家だったのだと驚く。英国のクラシック音楽の厚みのようなものを思い知るきっかけともなった。
 見終えてから、ビーチャム・ハウスのことを知る。2012年公開ということも知る。現在では各種、オンデマンドでも見られるようだ。
 とにかく見終えてから、しずかにずっしりと心に残るものがあるいい映画だった。人がどのように死を迎えていくのか、老年をどう生きるべきなのか、そう意識的に考えなくても、深いメッセージは伝わってくるようだった。

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2017.06.21

[書評] 自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実(スティーブ・シルバーマン)

 かつての漫画家というべきなのかためらうが、私がよく馴染み、また難病を抱え込んでいるという点でも共感をもってきた漫画家さかもと未明さんが、もう数年前になるが、精神科医から発達障害だと診断され、『まさか発達障害だったなんて』(参照)や『奥さまは発達障害』(参照)という書籍で、いわばカミングアウトに近い形でそうした障害を抱えた自分を受け止めて表現しているのを知り、率直、その点、よかったねさかもとさんという思いと、他方、もにょんとした思いもあった。
 まず、難病というのは経験者の側になるととんでもない弱者として世界に置かれたようないいようのない不安に陥る。この感覚はできるだけ自著にも書いたが難しいものだった(自著への揶揄を受けるたびに書かないほうがよかったかとも悔やんだ)。そして一人ではもう生きられないという弱者自覚は、もう自分は他者からの慈愛を請うしかないのだ、もう一人孤独に悪ぶっては生きられないのだ、という奇妙な、生き方の制約と回心に迫られるようになる。そして当然ながら、この一連の内面の過程は心の問題でもあり、この心の問題は別なる心の問題と共鳴して、よりつらい状況に陥る。そこで天を見上げて、この病気をわかってほしい、せめてこの心のつらさだけでもわかってほしいと呻くようになる。その過程で、心のほうも病気なんだと社会が認めてくれたら落ち着くのに、といった奇妙な心理が働く。
 悪意はまったくないのだが、さかもとさんの作品を読んできた私は彼女が境界性パーソナリティ障害に近いのではないかという推測は了解の上でのことだった。そしてそのことが彼女のクリエイターとしての魅力でもあり、女性としての魅力であるとも思っていた。ただ、専門的に見て境界性パーソナリティ障害なのかはわからない。広汎性発達障害に近いのかもしれない。そもそもそうした診断とは関連なののかもしれない。私自身についていえば、これも自著に記したが解離性同一性障害に近い感覚が常にあり、一時期は離人症的な症状を起こした。他方自分はDSM-Vの自閉スペクトラム症ではないかとも内心は思うが、現実の私は意外に快活で社交的な人に見えるだろうとも思っている。何が言いたいかというと、発達障害と自閉スペクトラム症については、その内面での受容の意味合いが難しいという例で自分を引き合いにしているのであって、それ以上の意味はない。
 なので、さかもとさんが専門医から発達障害と診断されそれを難病と合わせて受け入れ、新しい生活を始めたことには祝福を送りたいと思う半面、自分を省みて、それは「本当」だろうかとも思った。この「本当」という日常の言葉の意味合いは、しかし考えていくとかなり難しい。
 もうすこし一般論的な話に移りたいがさかもとさんに関連して、その判断を下した医師にも私は興味をもったことに少しだけ触れたい。医師は、先の彼女の著書も共著・監修的な位置にある星野仁彦医師である。ああ、ゲルソン療法の先生かと思い、自分の偏見のようなものが惹起され、以降この件にはさかもとさんの現状を含め、どこかしら関心を持つのをやめた。
 さて、発達障害や自閉スペクトラム症というのはなんなのだろうか。内省するにどうも自分にも関連していとしか思えないし、その点からこの分野に関心を持ちながら、いつも違和感で引っかかるのは、「診断」というものの意味だった。DSMという体系自体の疑義にも思えたこともあるが、現在の私はそこに大きな比重を置いていない。いずれこうした障害を抱えた人に対して社会的な援助が必要なことはあきらかであり、そのために社会のマジョリティにも可視な妥当な基準は必要だと思われるからである。しかし、その「診断」が「治療」という枠組みに置かれるとき、以上、無駄口のように縷々書いてきた私は身構えてしまうものがある。
 たとえば、以前ネットで「自閉症の人が見る世界」といった話題が少し盛り上がったことがある。ためしにググってみるとハフィントンポストの記事がヒットする(参照)。たぶんこう書かれているだろうなという懸念の予想は見事にあたる。


「この研究は、診断告知に最も有効となるでしょう」とアドルフ氏は声明で述べた。「自閉症というのは多種多様です。我々の研究は、自閉症が実際にはどれほどの種類存在するのかを解き明かす、最初の第一歩なのです。そういった亜類型を特定できたら、それぞれの型には違った種類の治療法が最適なのかどうかを問い始めることができるのです」。

自閉症には全ての診断結果に合う画一的なアプローチができないということを、我々が目にすることはますます多くなっている。この研究を続ければ、この症状が持つ多くの微妙な差異に狙いを絞り、適合した治療法を考案する上で役立つかもしれない。


 率直に言ってみたい。自閉スペクトラム症と診断される人は社会的な援助が必要であることは論をまたないとして、それは「治療」という枠組みに置かれるものだろうか。
 かつては、同性愛も「治療」されていた。自閉スペクトラム症については、「治療」とはなにを意味するのか? 私が抱き続けたこうした疑問にもっとも接近したのが、本書『自閉症の世界』(参照)である。ブルーバックスにしてはかなりのボリュームがあり、訳者はこの分野で信頼のおける正高信男教授である。
 中学生時代から年季の入ったブルーバックス好きの私としては、読み始めてすぐに、ブルーバックスにしては異質な本なだと感じた。分厚さ自体は異質ではないが、こうした本は別の装幀で、昨今の例でいえば文藝春秋などから出るものじゃないかなと思ったが、その時点で、おそらく文藝春秋では売れないかなとも思った。とはいえ、それでもブルーバックスでこれを読むのは異質感はある。読み進めればわかるがこの本はまずもって歴史の本であり、言い方は悪いが、理系的な本ではない。ブルーバックスの近著でも『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理』(参照)のように理系的な歴史の書籍はあるが(この本については別途触れるかもしれない)、とにかく書籍の厚みを比べてみてほしい。もちろん、それはそれとして『自閉症の世界』は面白く、アスペルガー博士についての叙述についてなどは我を忘れて読みふけった。
 のだが、うかつにもその時点で、本書の原題がなんであるか、この書籍が米国でどう評価されていたかを知らない、ということに気がついた。答えはすぐにわかる。『The Legacy of Autism and the Future of Neurodiversity』(参照)である。かなり社会的に評価された書籍であった。そして、表題NeuroTribesという言葉を見たとき、Digital tribesを連想し、自分なりにではあるがすべてを理解した。つまり、ある精神的な特性をもったマイノリティの種族であるということだ。うかつにもこの時点であとがきを読んで確認した。
 「the Future of Neurodiversity」は、「脳多様性の未来」ということで、脳(神経構造)に起因する人々の違いを包摂する未来社会を示している。なお、Kindle版の副題は「The Legacy of Autism and How to Think Smarter About People Who Think Differently」は、「自閉症のレガシーと。異なる考え方をする人についてより賢く考える手法」である。
 「The Legacy of Autism」の「レガシー」は遺産という意味が通常だが、「a genetic legacy of depression」(遺伝的な鬱病)のような言い方もする。本書にそって言えば、本書の内容は、「自閉症」と呼ばれる概念がどのように歴史的に形成されたことと、その知見の見直しによって、マジョリティの社会は「自閉症」と呼ばれるマイノリティとどう向き合うかということである。
 結論を言えば、本書は終章へ向けて、「治療」に疑義を重ねて、そのとらえ直しを提起する。もちろん、「治療」のすべてを否定するわけでもないが、「治療」の過程で苦しめられてきた(これは同性治療の苦しみを連想させた)人々が独立した大人となって、自分の生き方を選択するという試みに焦点が当てらていれる。この点だけで言うなら、本書の次の言葉が象徴的だろう。「そう」というのは、「不適切な存在」である。

ぼくたちの存在を嘆くみなさんの声は、ぼくたちにはそう聞こえます。回復を祈るみなさんの声は、ぼくたちにはそう聞こえます。みなさんのぼくたちに対する心からの希望とう夢について聞かされると、ぼくたちはこう思うのです。ある日ぼくたちの存在が消えてなくなり、代わりにやってきた、ぼくたちの顔をした他人をあなたたちは愛する、それがみなさんの最大の望みなんだと。


みなさんが必要なのです。みなさんの支援と理解が必要なのです。そう、自閉症には悲劇がつきものなのです。僕たち自身が原因なのではなく、ぼくたちに起きていることが原因なのです……。あなたの夢が失われてしまったことについて、どうしても必要なら悲嘆に暮れなさい。でも僕たちのことを嘆かないでください。ぼくたちは生きています。ぼくたちは実在しているのです。そしてここであなた方を待っているのです。

 本書のこうした最終章は、私が長いことと内面に抱えてきた疑問に大きな光を与えてくれた。おそらく、他の、ある種の人々にとってもそうだろう。

 さて。
 本書を読みながら、ところどころ心にひっかることがあった。論説の違和感ではなく、「これ原文でどうなんだろうか?」という思いである。たとえば、先の引用のここを比較してみよう。


本書訳文
あなたの夢が失われてしまったことについて、どうしても必要なら悲嘆に暮れなさい。でも僕たちのことを嘆かないでください。ぼくたちは生きています。ぼくたちは実在しているのです。そしてここであなた方を待っているのです。

本書原文
Grieve if you must, for your own lost dreams. But don't mourn for us. We are alive. We are real. And we're here waiting for you.


 この部分は誤訳とはいえないのだけど、Grieve、mourn for、alive、realには響きがあって、悲しむけど、死者のように追悼しないけください、まだ死んでいません。ほらここにいるのですよ、という文学的な含みがある。
 ただ、こうした誤訳ともいえないなという部分はよいとして、仔細に見ると誤訳だろうなと思える点もある。自分の英語力を顧みるとあげつらうものでもないので個別の点は指摘しない。
 が、さすがに原文対比して抄訳にはまいった感はあった。訳者あとがきには「なお全文を訳した後、主題と関連ない部分を一部割愛してあることを付記しておく」とあり、大部であり、やむをえないものと共感はするのだが、ただ、DSM-IVに関連する次の部分は、本書の重要ポイントにも関連しているので、うなった例だ。原文大括弧部分が抜けている。

本書訳文
もちろん一九九四年から二〇〇〇年のあいだにPDD-NOSと診断された子供たちすべてが誤診だったというわけではないけれども、その影響ははかりしれないものとなった。誤った表現通りにデータを再分析したフォルクマーは、「臨床医によって、障害に該当しないと判定されるべき子どもたちの約75%が、誤って該当すると認定された」ことを発見した。【……】 ロイ・リチャード・グリンカーが二〇〇八年に著書『ありのままに生きる(Unstrange MInds)』の中で誤植のことを指摘するまでは、専門家以外のほとんど誰もがそれに気がつかないまま放置されていたのだった。

原文
This certainly didn't mean that every child diagnosed with PDD-NOS in the years between 1994 and 2000 was misdiagnosed, but the impact of the botched language was potentially significant. By reanalyzing the field-test data using the erroneous wording, Volkmar found that“about 75 percent ofchildren identified by clinicians as not having the disorder (true negatives) were incorrectly identified as having it according to DSM-IV.” 【For epidemiologists gauging the DSM-IV's impact in the crucial period that would go down in history as the years a mysterious "autism epidemic”took hold, it was a statistical nightmare.】 Yet, until author Roy Richard Grinker called attention to the typo in his 2008 book 'Unstrange Minds', hardly anyone outside the usual tiny circle of experts was aware of it.


 抜け部分を試訳すると、「謎めいた『自閉症感染症』が発生している歴史に陥っていくかもしれない重大な時期、DSM-IVの影響を測定する疫学者にとって、このことは統計的な悪夢だった」となるだろうか。
 実は、この他にも先の段落ではDSM-IVの語が抜けているが、それはこの前の段落で補われているのでさほど問題はない。うなったのは、この括弧部分をなぜ省略したのだろうかということである。訳抜けならよいのだが、ある種の配慮からだとしてら困ったことである。
 何を言いたいのかというと、もはやDSM-IVは過去の物になったとはいえ、この時期のアスペルガー診断の増加は、DSM-IVの誤記によるところが多いというのは本書の観点としては強調されてよいだろうと思われるからだ。もっとも、本書全体として読めばその部分が隠されているというわけでもないとも言えるには言える。
 こうした訳上の点はいくつかあるが、別の点でうなったのは文学的ともいえる含みの割愛である。例えば第11章で、そもそも、"neurodiversity"(脳多様性)という用語を作り出したジュディ・シンガーの来歴について触れた点がある。その名前からユダヤ人かなという連想は働くかもしれないが、原文を読むと、ユダヤ教教師ラビとの関わりの挿話がある。これなども訳書からすこんと抜けている。不要と見なしたとも言えるが、本書前半のアスペルガー博士とナチズムの関連から、ユダヤ人に関連する記載はタッチー連想を招くので削ったのかもしれないなともつい思えた。
 というわけで、おそらく訳について問題点を指摘すると切りがないという印象はもった。その意味で、改訳されるか全訳されることが好ましいとは言えるだろう。英語が堪能な人なら原文を読めばいいが、私などは気になる原文を参照するくらいであり、私のような人が同書の改版を望むのであれば、まず現行の本がそれなりに日本社会で読まれる必要があるだろう。
 総合的に見るなら、訳書に問題があるとしても、本書の骨格まで変わるものでもないし、読みにくい訳書でもない。まず多く読まれ、自閉スペクトラム症について、「治療」を超えた知見が社会に広まることを望みたい。

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