2020.02.21

あなたの時間を吸い取る「果てしないプール」

 世の中がおかしなことになってきた気がする。というとき、おかしいのは自分のほうかもしれない、とも思う。が、とりあえず自分にとっては、世の中がおかしいという感じはする。
 具体的には、2つ思う。1つは、新型コロナウイルス騒ぎである。感染症自体より経済的な波及や社会心理の側面が大きな問題になってしまった。もう1つは、ネットである。端的な例でいうと、Twitterが気持ち悪い。
 とかいうと、おまゆう、の類だが、これもそう感じる自分がいる。これに関連していることだと自分では思うのだが、街なかで中年から初老スマホゾンビが増えたと思えることも、気持ち悪い。なんでこんな爺さんがスマホ見ながらぼんやり歩いているのだろう、危ないなあと。スマホ見るのはいいけど、立ち止まるか、座れよ。
 この2つをあえて1つの問題意識にまとめる必要はないのだが、それらの根にあるのは、情報のありかたではないだろうか。スマホ経由で入ってくる情報というもの自体が大きな問題なんじゃないか。
 というあたりで、自分を振り返ってみて、「Twitterが気持ち悪い」ということはどういうことか考えてみた。いや、考えてみようとして、なにか思考がぼんやりとする。一体全体、これはどういうことなのだろうか? この状態がけっこう長く続いていた。
 その出口のヒントのように思えたのは、『時間術大全――人生が本当に変わる「87の時間ワザ」』という本だった。
 これは、一昔前のGTD、Getting Things Done(仕事を完遂)の本だろうと思って敬遠したのだが、読んでみたら、読み方にもよるのだろうけど、その正反対な内容だった。この本については、別途書評を書きたいと思っているのだが、まず印象的だったのは、SNSアプリをやめなさいということだ。ここまでの文脈でいうなら、 Twitterをやめなさいということだ。気持ち悪いなら見ることないじゃないか。とも言えるのだが、現実そういかないでいたのはなぜか? そしてどうしたら、やめられるのか?
 同書の答えは、前者についてはそれが「無限の泉」だからというものだ。無限に人の時間(人の関心といってもいいだろう)を食っているものだというのだ。だらだらとSNSをすることで一日の時間とエネルギーが消費されている。ああ、それだね。
 やめかたについては、同書は的確に示唆していた。意志でやめるのは無理だ、というのが大前提。であれば、その先は、システム的に対応する。簡単にいえば、スマホからTWitterを削除する、である。え?!と思ったが、まさにそれだ。スマホの電源は通常切っておくという提言もあった。
 ただ、同書は、こうした一見極端な提言をしつつ、極端にこだわることもないとしている。要は、こうしたものは意志でやめるのは無理なので、簡単にやらないようにする仕組みが必要ということだ。
 「無限の泉」はTwitterと限らない。SNSツールは全部それだし、ネットサーフィンもそうだろう。同書には触れていないが、Amazonのショッピングもそうだろう。そして、同書では、Netflixも「無限の泉」に入れていた。
 ところで、「無限の泉」というのは変な日本語である。原語はどうなっているのか、原書にあたったら、”Infinity pool” だった。「インフィニティ・プール」である。日本ではそれほど普及していないのではないかと思うけど、ビルの屋上とかにある縁が見えないプールである。そのプールのなかにいると、まるで端のない海でもいるような錯覚をもたらす。井の中の蛙、大海を幻視する。
 つまり、そういう錯覚をもたらす仕組みが”Infinity pool”であり、『時間術大全』がこの言葉で言っていることは、時間の縁が見えないようにする仕組みとしてのSNSアプリやオンライン動画である。こうしたアプリは、時間的に終わりがわからないような錯覚をもたらすのであ る。
 さて、Twitterをやめるかな? と考えてみた。
 まず、インフィニティ・プールとしての使用はやめることにした。同書が勧めるように、スマホの画面から外した。ついでにいろいろアプリを削除した。通知を重要な連絡以外はオフにした。やってみてわかったのだが、電池の保ちが改善した。そろそろスマホも買い替えかと思ったが、使う頻度が下がれば買い換える必要もないな。
 同書の提言は、インフィニティ・プールを排除することで、気力のある時間を作る点にあるが、実際に、インフィニティ・プールを減らしてみて思ったことは、退屈だった。我ながら、スマホやiPadをいじらないと退屈なのである。
 で、どうしたか?
 本を読んだり、音楽をまとめて聞いたりした。散歩もした。そして、「ああ、高校生時代とかこうだったな」と思い出した。40年以上も昔、スマホとかなかったしな。
 情報やコミュニケーションを自分の主体の側に取り戻していく必要があると思う。どう取り戻すかは難しいが、奪うものの阻止には着手できた気がした。

 

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2020.02.20

坪内祐三とまついなつきの死のこと

 坪内祐三とまついなつきの死のことが、ちょっと、でもずっと、喉に引っかかるような感じがしていて、これはブログに書いておくことだろうと思いつつも、どことなくブログを書くことの重さのようなものにも沈んでいた。でも、まあ、少し書いてみよう。二人について個人的に知ることも会ったこともない。熱心な読者というわけでもない。同時代人ではあるが、と、そういうあたりの思いである。
 「つぼうちゆーぞーが亡くなった」と、1月13日、人づてで聞いたとき、一瞬、誰?と思った。伝えてくれた人は、私がその人をよく知っているではないかという感じだったので、誰?の間抜け感は際立った。私の脳裏には、一瞬、「壺内」という漢字が浮かび、それから、「坪内逍遥」が浮かんで、そんなわけねーじゃんとツッコミながらプチパニックっていた。もちろん、ほどなく「坪内祐三」という文字になり、それから、え?!と、あらためてパニっくった。同い年か、一つ年上だったはずで、死因は何?という思いと、神蔵美子の『たまもの』の表紙とその写真を思い出した。
 死因はNHKの報道では急性心不全だった。もう少し死んだときの状況が知りたいと調べて、生年は1958年と確認する。私より、一歳年下であった。死因については、今報道を見返してもそれ以上の情報はなさそうなので、これも特に書くべきでもないだろう。
 雑誌SPAに連載されていた福田和也との世相放談「これでいいのだ!」は、いつ頃まで読んでいただろうか。定期的に読まなくなっても折に触れて目を通していたと思う。そして、いつも思ったことは、坪内さんの感覚は私に近いこと、福田の感覚は私の下の世代であり世代的なズレをそこで確認すること、だった。
 振り返ってみるに、坪内さんの感覚は私に近かったと思う。性格はかなり違うだろうから、そこでの共感はなかったし、文芸についての感性も根幹で異なっていたこともあり、あまり著作を読んだわけではない。ただ、同時代人が死んだという思いは強い。
 まついなつきが死んだのは、1月21日。入院したのは人づてで知っていた。というか、そのおり、重篤なのではないかとも聞いたが、私は、大丈夫じゃないか、中村うさぎも神足裕司も日垣隆ももちなおしたしと添えた。が、死んだ。死因はよくわからない。糖尿病は抱えていたような気がする。1960年の生まれで福田和也と同じ、つまり、世代感覚としては私とは異なるのだが、『笑う出産』の1994年は、私の初子が妊娠した時期で、そもそもそれがきっかけで同書を読んだものだったので、その同時代感はある。面白いし、よい本だった。読みつがれるとよいと思うが。その後も、彼女の出産・育児本はよく読んだ。彼女は3人産み、私は4人の子持ちにもなった。彼女の死で思ったのは、残された子どもたちの思いだった。
 まついなつきが離婚したときは、少し驚き、占い師に転身してからは、関心を失ったが、いつか、彼女に占いでもしてもらう気でいたので、死なれてみて、奇妙な空白感はある。
 坪内祐三が満年齢で享年61、まついなつきが59。私の父が亡くなったのは62歳。昨年は自分の生の終わり感を思ったがそこを超えてのうのうと生きている(でもないか)なか、不意を疲れたように、この年代で死んでいく人を見る。直接の知り合いでも、入れ込んで読んだ著作家でもないが、同時代の経験者が死者となっていく後ろ姿なのようなものが哀しい。

 

   

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