2019.08.18

8000万円の都心のマンションと4000万円の郊外の家

 ツイッターを見ていたら、8000万円の都心のマンションと4000万円の郊外の家という話があった。これらを買った人がいるとする。10年後、どうなっているか。4000万円の家の価格は半額に落ちている。2000万円だ。他方、8000万円の都心のマンションのほうは、7000万円。10年後の時点で、どっちがお得か? 8000万円の都心のマンションのほうだ。と、いうのである。
 詳細は違うかもしれないが、ざっくり見ればそういうものだろう。実際、そういうことで、都心のマンションが売れている、と言っていいだろう。
 そんな傾向が今後も続くのだろうか? 未来はわからないものだという大前提は扱いにくいのでとりあえず置くとする。たぶん、少子高齢化していく日本では都心集中が続くから、都心マンションの価格はそう崩れないのではないか。
 さて。これで話は終わりかというと、まあ、終わりでもいい。
 実際に、じゃあ、8000万円の都心のマンションが買いたいとしても、普通、その時点でそれだけの現金を持っているわけではないから、ローンを組むことになるが、それだけ大きな金額のローンが組めるだろうか。
 都心マンションの中古価格が崩れにくいなら、それを資産のように見なして、8000万円のローンが組めるだろうか? まあ、無理なんじゃないかと思う。どうだろう。
 さて、とまたここで一息つく。仮に、8000万円の都心のマンションが買えたとする。そして子供が二人居るとする。子供は、現在の都心の状況からすると、中学校から私立に通うことになるだろう。小学生から受験させる。郊外の家で高校まで公立に通った場合と比べると、けっこう子供の教育費もかさむだろう。どういうことか? 8000万円の都心のマンションの生活は教育費を中心にしてそれなりに付随する支出も増えるだろう。
 じゃあ、モブ的な市民は、4000万円の郊外の家で子供二人を公立高校に通わせるというのはどうか? 分相応でいいんじゃないか、と思えるのだが、これがまた現実的に考えると、郊外の公立高校から大学はMARCHに届かないのではないだろうか。もちろん、例外はあるとしても。
 さてさて、これはいったいどういう話なんだろうか。どういう現実なのだろうか。私がアイロニカルな話を弄んいるということでもないように思う。
 簡単に言えば、日本の社会は、都心居住者を中心に階層化されていくし、それが世代にわたって固定化されていくのだろうと思う。
 いい悪いでも、どうしたらいいというわけでもなく。
 人生というのはそういうものだ。都心のマンションであれ戸外の一戸建てであれ、離婚すればそれらの資産は整理することになる。離婚はそれほどまれなできごとでもない。また、けっこうな大病するというのも、珍しいことではない。そうなれば、ローンは返せない。それらもまた、現実だろう。
 現実の前に立ちすくんでいるのも、それはそれで人生の時間は過ぎていく。

 

 

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2019.08.17

「趣味は何?」

 「趣味は何?」と聞かれることはなくなった。交友関係が狭いこともあるが、そういう問いかけが必要な人の出会いというのがなくなったからだ。それは、さみしいことだとは思う。若い頃に、そう聞かれることがあったかというと、まあ、あった。それで、なんて答えていたか。思い出せる。読書、とか言っていたような気がする。あるいは、音楽鑑賞。思い出すと、苦笑するしかないな。そんなの趣味じゃないだろ。
 改めて自分の趣味ってなんだろと考えると、特にない。しいていうと、「言葉」だろうか。言葉への関心というのは、俗ラテン語における対格とか。いや、我ながら年をとったなと思うのは、そうした「言葉」への興味をあまり抑えなくなってしまったと自覚するときだ。もう少し若い頃は、そんなことに興味をもつ自分って、どっかおかしいだろうとそれなりに思っていて、ちょっと自制する感じもあったものだ。が、もう自制できないのだ。興味が抑えられない。つまり、こういうのも老いというものだろう。そして思うのだ。
 年取って趣味の対象が、「言葉」というのは、無難だ。これが、「少女」だったら、ちょっとやばいんじゃないか? やばくないか。いや、やばいだろ。違うな、やばいかやばくないかの境界は、対象じゃなくて、その関わり方だ。たとえ、年取って興味の対象が「少女」であっても、その関わり方がやばくなければ、そうやばいものでもないだろう。少女との関わりかたがやばいと、まずい。たとえば……
 と書きながら、うすうす自分の隠された趣味に気がつく。隠されてないか。いかんなあと思う。ふと、身も蓋もないアイロニーを思いついて、にやつくことだ。きもいな。でも、それもどうやら、私の趣味なのだ。
 幸い、それを眼前の人に語って困惑させるというほどの執着はない。世の中、身も蓋もないアイロニーを人前で開陳しないと気がすまないという人だっているのだ。その点、私はけっこうお行儀いい人間なんじゃないかな。でも、ツイッターはいいぞ。振り返ってみると、頻繁に身も蓋もないないアイロニーをつぶやいている。たとえば。

 甲子園は、炎天下苦痛を与えて、48校の敗者を生み出すしくみ。

 どう?
 大丈夫。わかっている。こんなの別に、人を困惑させるほどの、身も蓋もないアイロニーじゃない。ひねりも毒気も足りない。ちょっと、趣味がよろしくない。悪趣味という趣味ではあるが。正確に言うと、苦痛しのぎの悪たれである。
 こう延々と甲子園大会なるものが開催されているのは、自分にとって苦痛だ。なぜ? 私は、NHKのテレビ番組を録画して見るという人なのだが、これが、あれだ、甲子園大会によって、devastated という感じになる。録画壊滅。それも些細なことではあるが。さっさと終われ、甲子園大会。どこが勝とうが、沖縄県以外関心ねーから。
 と思いつつ、録画ミスされた甲子園大会の断片をちら見しつつ、この子たち、なんで炎天下で苦痛を与えられているんだろうか。運動したければエアコンの効いた体育館でフットサルでやったほうがいいぜ。とか思う。それに、君、負けるから。あー、君も君も。負ける。なんのためにこんな試合をしているかというと、負けるためにやっているんだろ。甲子園は、炎天下苦痛を与えて、48校の敗者を生み出すしくみなんだ。と。
 自分がいやになるな。どうでもいいじゃんそんなこと。
 そして、それはそれでどうでもいいやと思いつつ。そもそもコンテストというのは、100人参加したら99人の敗者を生み出すしくみだよなと思う。なんでこんなことするんだろうか。愚かしいな人間というものは、と思うが。それでも、上位6位くらいになればいいんじゃないか。まあ、このくらい負けたけど、このくらい勝ちましたという、心理的な報酬がある。その報酬感が微妙に敗者を救っているのだろう。
 そして、私は美人コンテストの二位という人のことを思い浮かべる。一位の人がいなければ、その人が一位になれたはず。勝者だ。それに美人コンテストで二位ならそれはそれですごい美人じゃないか。二位でもいいぞ。そして思うのだ。一位はどんな人だっただろうか?
 ああ、ゲスい。
 なんてゲスいことを考えるのか。ゲスいついでに言うと、美人コンテストの結果発表を見るたびに(見るのか?)、一位、間違ってんじゃね、この五位の子のほうが美人じゃね、それなら、わかるからね、五位の娘、彼女が一番美人だって。き・も・す・ぎ。
 そういえば、昔、AKBで誰が好きという大喜利にちょい参加した。もちろん、僕はAKBの女の子の区別がつかない。最近の乃木坂なんらとかなんたらなんたらとか、女の子の顔の区別がつかない。うーん、エミリア・クラークに似た子とかエマ・ワトソンとかに似た子はいないの。いねーよ。
 ということで、そのおり、「この子、かわいいんじゃね」とポイントしたのが、「板野友美」。
 そして、その、なんだろ、その場の白け感。え? え? なんかまずいこと言ったか? 私の趣味は身も蓋もないないアイロニーをつぶやくことだが、意図してやって、自分でにやつくのがいいのであって、たくまざるというのは、ちょっとな。
 まあ、そういうことだ。どういうこと? これでオチなの? まあね。

 

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