2018.01.20

[書評] ユーミンとフランスの秘密の関係(松任谷由実)

 時の経つのは速いなと思うのは悲しいかな老化の一種。しかたないけど、ユーミンがアルバム『宇宙図書館』(参照)を出したのは年号だけ見ると2016年。一年半は経っていないのだけど。そして、書籍『ユーミンとフランスの秘密の関係(松任谷由実)』(参照)が出たのが2017年2月。ということで1年位前の本。元は『フィガロジャポン』の連載をまとめたもので、最初の連載は2015年。今頃、読む。

 書籍の形をしているけど、実際にユーミン(松任谷由実)が書いた原稿は三分の一くらいだろうか。それもたぶん口述の編集ではないかな。最初に簡単な紹介的な記事があって、そこから三分の二くらいはインタビュー。ユーミンとフランスになんとなく焦点を合わせた、おフランスっぽい対談。つまらないわけではないけど、うまく仕上げてしまったため、ありがちな雑誌記事という感じ。そのあとはユーミンのフランスのアートを巡る旅で、なぜかその半分はフランスではなく、金沢。ここもユーミンらしい感性で書かれていて楽しいには楽しい。
 まあ、こういう感じかな。と私は思う。昨日がユーミンの誕生日なので彼女は64歳になった。フランス語的には64年を持った。私のほうは今年の夏61歳。こうなるともう同世代のように見えるかもしれないけど、思春期のころの三年半の年差はすごく大きかった。ユーミンはすっごい年上のお姉さんに思えたものだった。
 そして本書でユーミン自身が触れているけれど、彼女はおませっ子さんなので三年くらい年上のカルチャーに憧れていた。あの時代、1970年代前半ころである。彼女の歌に、72年10月9日、というのがあるが、ほんと今でもあの日を思い出せる。
 そのおませっ子ユーミンが中学生から高校生のころ憧れていた文化が、基本はアメリカなのだけど、あの当時のアメリカ経由のおフランス文化。あれです、『X-MEN: フューチャー&パスト』で笑える仕上がりになっているけど、アメリカがおフランスに憧れた時代だ。ユーミンとか私とかもアメリカ経由でおフランス文化に憧れて、そのままなんとか若者文化になった時代だった。もうちょっと言うと、ベ平連とか全学連とか、だっせーわきたねーわの若者文化がいやだなという感じでもあった。ただ正確に言うと、『二十歳の原点』とかでも伺えるけど、その二者に交わる部分はある。そしてこれがもうちょっと大衆化してくると、布施明の『カルチェラタンの雪』みたいになる。話がずれまくるけど、あの布施明の、今から見ると、うへぇだっせーみたいのは意外にもおフランス的で、ミシェル・サルドゥとかあんな感じなのな。
 話をちょっとまとめると、70年代から80年代の、アメリカや日本を覆っていたおフランスなカルチャーへのノスタルジーに、年食ったユーミンとか私とか向き合うわけで、この本とかのフランス文化というのは、そういう部分がこってこってに出ている。ちょっと意地悪に言うみたいだけど、これ、幻想のフランス文化で、現実のフランス文化ってこういうもんじゃないとは思う。
 このあたりの自覚はユーミンにはきっちりあって、この本でも語られている。その上で、なかでも彼女が影響を受けたというか、そんな4人のフランス女性があって、イザベル・ユペール、フランスワーズ・サガン、エディット・ピアフ、ココ・シャネル。まあ、推して知るべしな感じはある。あと、後半の絵画を巡る旅では印象派が中心。
 ふと思ったが、こうしたファッションや大衆文化のなかでのおフランス的なものは、70年代のサルトルやカミュの実存主義(これにはマルクス主義の行き詰まりとフランス帝国主義の行き詰まりの反動もある)と並走していて、これが80年代になってニューアカの、おフランス現代哲学になってきた。遅れたおフランス志向ではあるのだろう。少し時代を前に戻すと、森有正とか辻邦生なんかもそうしたおフランス趣味からそう逸脱するものでもないだろう。
 自分に寄せてみると、この齢こいて僕なんかもフランス語を学びに行くと、少なからず、このユーミンとかその上くらいのおば様を見かける。若い頃おフランス文化に憧れたり、実際フランスで暮らしたりして、今でもフランス文化を日常生活で維持していて、フランス語を学びつ続けるのも楽しいという感じのおば様たちである。
 それもいいんじゃないかと自分も思うようになった。この本もそういう傾向とはあっているだろうけど、読者対象はいわゆるユーミン世代、つまり、0年代にユーミンソングを聞いていたファンあたりかもしれない。そうした世代が「おフランス」を再発見するには意外といい本になっている。
 とま、「おフランス」という言葉を連発してしまったが、こうしたフランス像はまさにパリ中心の「おフランス」としか言いようがないなという思いを込めてだ。実際のフランスはそれとはけっこう違うとも言えるのだけど、さらに総合した感じで言うなら、「おフランス」もフランス文化のうちでいいんだろうし、日本人のフランス好きがそこに特化していてもそれはそれで、かまわないように思う。
 どの国の文化も少し踏み込むとちょっと変わった面白さが見つかるものだが、米国や中国の多様性、韓国やアジアの擬古性(戦後創作された伝統文化的なもの)、そうしたものとフランスは微妙に違う。どこかにある中心性が、その言語の統制も含めて微妙に意識されている。それはナショナリズムとも言えるだろうけど、市民革命を経て市民国家を築き上げるときにはそうした中心性は重要になる。市民社会にナショナリズムは欠かせないのかもしれない。逆にそこで脱骨したような日本だがフランスと似ている面もある。日本の場合、市民社会はナショナリズムに対立しているようでいながら、リベラル派の反米感情などはナショナリズムでしかない。ただ、日本だとそのナショナリズムが市民社会を形成するものとしての統合性を促す力はない。そもそも日本には基本的に社会契約の観念がないから、日本国憲法は不磨の大典になってしまったのだろう。


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2018.01.19

引退を幸せな第二の人生の始まりに

 小室哲哉さんが引退するという話題をツイッターで見かけて、いくつか複数のニュース・ソースで確認した。「不倫騒動のけじめ」と題したものもあり、また引退の契機がいわゆる「文春砲」ということもわかった。で、まあ、なんというのか、もにょんとした感情に襲われた。
 ツイッターでの関連話題を追っていくと、私のタイムラインでは概ね、人の不倫を暴いて追い込むのなんかもうやめろよ、という意見が多い。私もどちらかというと、そういう思いがする。関連して、コラムニストの小田嶋隆氏は「文春砲」について、「仕置人気取りなわけか?」とまず述べ、「不倫をしている人間より、他人の不倫を暴き立てて商売にしている人間の方がずっと卑しいと思っています」とツイートしていた。それもそうだろうとは思うが、彼は該当の記事を読んでからそう述べたのか、「文春砲」なるツイートに反射的にそう思ったのかはわからない。
 私は週刊文春のデジタル版を購読しているので該当記事を読んでみた。読んだ印象をいうと、どうもこのネタは文春が独自に発掘したというより、すでに関係者で知られていたように思えた。もっとも、ぐうの根も出ないように現場を抑えたのはまいどながら文春ではあるだろうし、そこは、そこまでするかなあ感はある。で、その時点での小室さんの話が記事に引用されているのだが、そこで彼自身「引き時」を強調しれているし、そのことは「文春砲」も注目していた。小室さんも文春も、小室さんの引退が突然というものでもない含みがそこにはあった。
 文春を擁護するつもりはさらさらないが、文春がやらなくてもどこかのメディアがやったか、あるいは文春がいつかやるなあと関係者が思っていたか。小室さん自身もそんなわけである程度覚悟していたような印象はもった。
 さて、私自身のこの件についての感想だが、経緯はなんであれ、引退してよかったとは言えないにせよ、小室さんはこれからの第二の人生を心機一転進めるきっかけになればいいのではないかとは思った。そう思う理由の一つが、彼と私がほとんど同じ世代(彼が一歳下)で、60歳という年齢を迎えようとしているからで、世代的な共感があるからだ。高齢化が進む現在、人はできるだけ早い時期に引退したほうがいいと私は思う。
 私がそう思うようになったのは、ドラッカーの影響である。ドラッカーは先進国では現在、組織より人間の寿命が長くなったという前提認識を示した。長寿企業というのもあるにせよ、概ね企業には人間のように寿命がある。そしてその寿命が人間より長いとなるとどうなるか。端的にいえば、老害になる。組織を自身のために使うようになる。あるいは、高齢時まで企業は存在していない、ということになる。ドラッカーはなにより、一つの仕事をするのに飽きてくるだろうとも述べていた。
 ドラッカーはさらに、60歳で突然引退するのでは遅すぎるともしていた。40歳くらいに、第二の人生の基礎を作るべきだというのである。ここで説教臭いことを自分が言うのもなんだが、このブログを始めたころ私はまだ45歳だったが、あっという間の15年間である。40歳から先は速い速い。
 ここまではドラッカーの考えは彼らしい楽観論的なポジティブな示唆に富むのだが、その先にはずばりと冷酷な真実を告げている。「知的労働者にとって、第二の人生をもつことが重要であることには、もう一つ理由がある。誰でも、仕事や人生で挫折することがあるからである。」と。人はみな老いて挫折するのである。
 世の中にあふれる啓発書の類は、成功が基本になっている。そもそも出版される本というのが文学(あるいは私が書いた本)でもなければ、成功に飾られているものだ。しかし、実際の人生成功する人がごくまれなのである。パーセントはわからないが、9割がたは失敗するか、ぼちぼちでんなというあたりを自分なりの成功に換算しなおすかくらいではないだろうか。
 ドラッカーはそうした失敗の人生を補うものとして、社会貢献可能な第二の人生を描くが、私は社会的な価値や承認より、もっと自分を大切にした第二の人生を構想してもいいように思う。特に、子離れの時期からは。
 第二の人生がどうあるべきかについて、それ以上は自分はわからないが、難病とかが背を押してくれたこともあって、私についてはそうした人生を歩み出すしかなかった。
 しかし、第二の人生では、なにより、第一の人生とは大きく価値観を変えてよいのだと思う。


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