2019.05.26

[映画] gifted/ギフテッド

 『gifted/ギフテッド』は2年前の映画だったらしい。知らなかった。まいど、お勧めで知り、見た。よくできた映画なので、おそらく誰が見ても満足がいくだろう。さらっと見ると、映画のお手本のような映画でもある。基本は人間ドラマで感動するといった類ものである。が、その主題は深刻というか重たいものだった。シリアスというのとも違うし、解釈が難しいというのとも違う。中核にあるのは、わかる人にしかわからないと言えないでもないのでは。微妙と言えば、それも逃げになってしまうだろう。
 物語の筋立てはある意味、単純である。天才数学者の悲劇というのは、アメリカ映画のジャンルと言ってもいいくらいだ。表題のgiftedとは天与の才が贈与されているということで、天才という意味である。
 物語の背景は、アメリカの沖縄ともいえるリゾート地域フロリダ。そこで、中年男のフレッドと7歳の少女メアリーが片目の拾い猫と貧しく暮らしている。メアリーは数学の天才である。物語は彼女が小学校に通うようになるところから始まる。当然、学校で齟齬が起きる。フレッドは父ではなく、メアリーの叔父である。母は自殺した天才女性数学者であり、フレッドにとっては姉だ。そして家庭でも齟齬が起き始める。数学者だった祖母エヴリンが孫娘の才能を見込んで引き取りたいとする。物語は、法廷闘争にも転じる。エヴリンにしてみると、自殺した娘ダイアンが取り組んだ世紀の難問「ナビエ–ストークス方程式の解の存在と滑らかさ(Navier–Stokes existence and smoothness)」を孫娘のメアリーに解かせたいのである。
 と、いかにも問題への関心としてはわかりやすいし、天才美少女というのも興味を引きやすい。そして、中年男と天才少女の心温まる愛の物語も展開される。大衆受けしやすい要素もきっちり含まれている。

 以下、ネタバレを含む。


 フレッドの姉である自殺したダイアンとその母エヴリンには、確執があった。数学者でもあるエヴリンにしてみれば、自分よりも娘が天才であり、数学史・人類史に名を残す偉業が達成できると期待して、娘の自由な人生を結果的に奪ってしまった。
 エヴリンは、娘ダイアンが、難問が解けずに挫折して自殺したのだと思っている。物語もそう進むのだが、最後にどんでん返しのように、ダイアンはすでにその難問を解き終えていたことが明かされる。母の死後に公開するように弟のフレッドに、生まれたばかりのメアリーとともに託していた。
 映画では明確には示されていないが、ダイアンが自殺したのは、母親への面当てや自身のプライベート生活の破綻というより、偉業を達成したことで、自分が無になってしまったと思えたためだろう。そこで人生の意味が崩壊してしまった。
 エヴリンにとっては、愛する娘が難問に屈したとしてその才能にしか目を向けていないが、最後にダイアンの残したメモで初めて娘への愛情に気がつく。つまり、この映画は、母と娘の悲劇の物語なのである。
 あえてかなり雑駁に言えば、女というもののある本質がもたらす必然的とも言える悲劇がこうした仮構によって露出させれらている。天才幼女や中年男の生き方、その隣人女性や恋人という人間劇的な要素は、その露出の緩衝材である。
 おそらくこれはフェミニズムというものが取り組まなくていけない難問なのではないかと思うが、そういう認識は共感されはしないだろう。
 中年男フレッドはそうした物語の構図のなかで、天才幼女と同じく、一種の人間的ではあるが狂言回しでしかない。が、こうした物語が露出するのは、男の契機によってだろう。女の本質の一つとしての天才を継いだメアリーはいずれそうした男を忘れていくか、男をある凡庸な相のなかで受け止めることになるだろう(このことの暗喩はエヴリンの二番目の夫に象徴されている)。
 女性のある種の天才性というものは、それに巻き込まれるように遭遇しなければ、その悲劇性自体注意されにくい。それが誰の目にとって可視であり、国家幻想の中核で生じていても、存外に気づかれることはない性質のものなのだ。

 

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2019.05.25

「アセクシャル」というものを知らなかった

 「アセクシャル」というものを知らなかった。というか、知識として知らないわけではないが、関心がないせいか、さして考えたこともなかった。というか、性的な関心がない人、というくらいに考えていた。どうやら、そーゆーものではないらしい。たまたまNHKの『ノーナレ 恋愛圏外』という番組を見たが、そこにアセクシャルの若い人が取り上げられていた。番組の概要を引用しておく。

 恋とは何なのか?どこからどこまでが愛なのか?中村健・通称なかけんは22歳。恋愛的感情の有無に関わらず、他者に性的にひかれない「アセクシュアル」だ。キスを粘膜接触と呼び、町に流れるラブソングは意味不明。大人のビデオをみれば寒そうだと思ってしまう。そんななかけんは、大切なパートナーや友だち、家族に支えられて今日も生きる。それは、愛とか恋とかを超えた不思議な感情。名前はないけど、大切な人間関係の物語。

 これだけ読んでみてもわからないのではないか。番組を見ながら、へー、こういう人が本当にいるのかと考えさせられた(失礼な感想である)。恋愛の感情がないらしい。性的な関心もあまりないようだ。が、他者への関係性がわからないというものでもない。ネタバレというほどでもないだろうから書くが、番組では、なかけんさんは友だちの女性と同棲するという話になっていった。
 『さらざんまい』ではないが、他者とのつながりは、欲望か愛情かと考えやすい。すると、アセクシャルな人は、愛情がないわけではないから、むしろ、純粋な愛情かとも言えないでもない。が、性的な欲望を除いた強い愛情の関係欲求というものがありえるのかというと、私にはとんとわからない。
 あるいは、世間でよく言われるような、結婚したが性的な関係はない夫婦というのも、実際上は、そうしたアセクシャルと言えないでもないのではないか。
 これはなんだろうか、とついググってみると、LGBTから、LGBTQ、そして、LGBTQ+として、IAがあるらしい。まず、QはQuestioning、性的な指向が不明、で、IはIntersex性的未分化、そして、AはAsexualで、「無性愛者」とも訳されるようだが、つまり、冒頭に戻るではないが、アセクシャルは性的な感覚がない人とされがちだ。が、先の番組から受けた印象は、それとは微妙に違うものだった。どちらかというと、性的な欲望の人間関係の構築ができないということに思えた。
 そういうタイプの人間がいるのだというのは、知らなかったし、想像もできなかった。自分は、性的な指向は凡庸極まりないというか、どちらかというと、西洋人型の恋愛至上みたいな人のため、無性的な人間関係が理解できないのだと理解した。
 番組でのなかけんさんについて、高校時の自殺未遂の話がとりわけ興味深かった。死にたいというより、そうしたアセクシャルな自分の社会からの疎外のようには思えた。
 また、番組では、「アセクシャル」な人々での集会の映像もあり、そうしたある種の自己アイデンティティが社会的に共有されているようすも伺えた。
 医学あるいは心理学的には、アセクシャルについては、まだあまり研究が進んでいるふうはないようだが、人口の1%から2%には及ぶらしい。性的なマイノリティとして社会的な連帯を結びやすくする対応は必要なのだろう。
 と、なんとなく心に引っかかることを書いているが、うまくまとまってこない。
 なんだろうか、と再び問い直して、「アセクシャル」というのは、程度の問題と言えるだろうかとも仮に考えてみる。世の中、強烈な恋愛感情というものを知らないという人は少なくない。むしろ、強烈な恋愛感情にとらわれるタイプの人のほうが少ないのかもしれないとも思うというか、恥ずかしながら、私は強烈の側なので、そう思う。
 恋愛感情の強度というものがある種、スペクトラム的なもので、また、婚姻後のセックスレスの関係という実態を含めると、外的には、アセクシャルと区別がつかないという人は、社会でかなりの人口に及ぶのかもしれない。そういうふうに社会を捉えるとどうなるだろうか。これもあまり考えたことがなかった。

 

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