2019.04.25

[書評] パスタぎらい(ヤマザキマリ)

 食について書かれたエッセイというのは、概ねおもしろいものである。それが本になっているということは、編集者という他者が、これはおもしろいんじゃないかという意識を介していることだ。それなりに見識のある他者の目を介した食の話なら自然に他者の広がりへと共感を産むものだ。そのことは、本書『パスタぎらい』にも当てはまる。食のエッセイとしてとてもおもしろい。だが、この本、なんか、度を越しているぞ。
 なんというのだろう、揶揄の含みはないが、イカレている、というのだろうか、昔の言葉でいうなら、ぶっ飛んでいる、のである。読み進めるに、ヤマザキマリという人はこんなにも変な人なんだというのが、ぐいぐい迫ってくる。脳がしびれてくるような感じがする。本書だけにつけられた彼女のイラストの表紙のあるイカレた感じも、じわじわとくる。

Pasutagirai  

 カバー絵の女はなんのパスタを食べているのか? ナポリタンである。ヤマザキマリは35年もイタリアに関わって、パスタが嫌いになったと言う。でも、パスタが全部嫌いかというと、そうでもない。ナポリタンは好きだという。ケチャップの、あの。もともと日本食が好きというのもあるが。
 いったいどういうことなんだろうか。もちろん、ヤマザキマリという人の魅力でもあるのだろうし、このイカレた魅力は、彼女の、もしかすると代表作となる『プリニウス』にも通じるものだ。プリニウスも、相当に、イカレている。
 こうした、なんとも変な人間を見つめていていつも思うのは、こういう人たちは、「他者というもの」の存在感を上手に伝えてくれることだ。私たちの多くは、たいていは心の底で他者に怯えている。自分というものをさらけ出す、というか、さらざんまいするというか、そういう自己開示に怯えている。でも、それをさらっと出す人を見るとき、他者とはなにか、自分とは何かと考えることになる。
 おそらく誰でもこういう思いがあるだろう。親友でも恋人でもいい、この人は自分に近い人だという人と一緒に食事をしていると、ふと、その人の食の嗜好が自分と全然違うということに気づいてしまう。あれ、なんでこの人、刺身の醤油皿に一生懸命わさびを溶かしているんだろうか、とか。カレーを食べる前にそんなにも念入りに混ぜ合わせるんだろうとか。『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』的な話でもあるが、その先に、私はこの人と気が合うんだろうか、好きなんだろうか、こんな人とやっていけるんだろうか……おっと、「こんな人?」って思っちゃったよ私、と。

 

 これは、同棲生活や結婚生活でさらに露呈してくる。10年くらい前だったか、ネットで嫁の飯がまずいという話題があった。そんなのどうでもいいじゃないか。嫁さんが作る飯がまずかったら、自分で作ればいいじゃないか、買って食ってもいいじゃないか、と言えそうで、おそらく現在はそう言えて、安定したんだろうが、あの話題で浮かんできたのも、他者というのはなんかおかしいという変な感覚だっただろう。
 本書はそれがてんこ盛りである。お前の味覚どうなってるんだというの思いが、マシンガンで全身貫かれるように、来る来る。しかしも、読めばわかるが、実は、ヤマザキマリという人はとんでもない食通である。この人は自身を味覚が鋭くない、雑食だというふうに言っているが、いやいや、相当に美食家だ。これはガチだなと強烈に思ったのは、白子の話だ。私は白子というのが嫌いだが、あるとき偶然、美味しい白子を食べたことがある。これっておいしいものなんじゃないかと思い直すほどだった。が、以降、もっと白子を食べたいとは思わなかった。概ね、まずいし気持ち悪い。
 そうなのだ、概ね、まずいしきもち悪いという食べ物が、この世界に、なんとも理解不可能な他者の味覚と一緒に存在論的に存在しているのである。しかも、それらは満ち満ちている。というところで、なんだろう、世界というものの相貌が変わる。博物学の怪しさのように。

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2019.04.24

スリランカ連続テロは新しい時代のテロだろうか?

 スリランカで大規模なテロの一報があったとき、まず思ったのは、奇妙なある矛盾した思いだった。矛盾というのは、2つの方向がある。一つは、スリランカの近年の歴史を振り返ると大規模な内戦があり、その余波が連想されることだ。しかし狙われたのは、キリスト教会でありまた欧風の高級ホテルであった。内戦の延長の文脈は自然には考えにくい。もう一つは、もし、その爆破テロの手口から自爆テロであるなら、死を賭してもかまわない狂信が背景にあるはずだ……とすれば、そうした狂信を持つことができるのは、過激なイスラム教だろうか……という矛盾した思いである。そして、それがイスラム教だろうかという疑問が浮かんだところで私は思考を止めた。自分の心なかでイスラム教に対する差別意識のようなものがないだろうかと不安になったのである。
 報道を追ってみた。恐らく日本のメディアは被害者に邦人が含まれるか、外務省がどのような対応するかということが焦点になり、もし邦人被害がなければ、他の悲惨な国際ニュースのように、どちらかというとよそよそしく、日本と関係のないニュースとなっていくだろう。結果的には邦人が含まれていた。
 ここで奇妙な思いが浮かんだ。邦人が含まれていたことは、客観的に見れば、偶然だと言えるだろうか。厳密に言えば偶然と言えるだろう。だが、偶然と言えるほどの確率だろうかというところで、奇妙な連想が続いた。もし仮に、現代先進世界に一定のテロを与えたいなら、その人々が集まるところとして高級ホテルに大規模の爆破テロを仕掛けるのはむしろ自然だ。それなりの影響が出る。その規模の拡大で邦人被害の確率は比例的に高まるだろう。今回のテロで邦人が狙われたわけではないだろうが、邦人が含まれることは、かなり必然に近い偶然だったのではないか。そしてそれがテロの本当の目的だったしたらどうだろうか? つまり、「私たちはあなたちを殺したいのだ」という強いメッセージである。そしてその強いメッセージには、それを裏付け、天国を確証するだけの正義の確信が伴うはずである。
 もしそうなら、それは恐ろしく強いメッセージ性をもっているはずだ。それなら、犯行グループが声明を発表しているはずだ。通常、この手の大規模テロが発生すれば、あとづけで直接関係のない過激なグループが関心を得るために適当なメッセージを出すものだ。が、それらが報道に上がってこないのはなぜか。しかし、報道の比較的初期の時点でスリランカ政府にはメッセージが届いていたらしいことがわかった。ある組織がスリランカ政府に通知していたらしい。スリランカ政府としてもまた通知した団体もこれほどのテロが想定できなかったことになる。
 ニューヨーク・タイムズの「Sri Lanka Bombings Live Updates」を追うと、その予想された便乗メッセージが連想されるメッセージは「イスラム国」から出たようだ。が、現状では今回のテロと直接のつながりは判明していない。他方、スリランカ政府側は、この3月にニュージーランドのモスクで起きた銃乱射テロ事件に対する報復だっと発表した。これも裏付けはまだないようだ。このシナリオは魅力的だが、これほどの大規模なテロを1ヶ月で仕込むとする想定は不自然だからだ。
 とはいえ、このシナリオには怪しい魅力がある。常識的に考えるなら、「江戸のかたきを長崎が討つ」といった荒唐無稽さが漂うのだが、情報ネットワークによって緊密となりさらに高度に概念化した正義というものは、このような形で露出しえるものなのではないかという思いである。
 多数の人には、どのような正義心にかられても無差別なテロを行うことはないと思いたいが、現実はそうではなくなりつつある。私たち日本人にしてみると、日本人であることでなにか微妙に世界のテロから守られているような曖昧な、そして呪術的な心性をもっているようにも思われる。あるいは、日本人が過去に行った残虐をひたすら後悔する素振りを国際的に示せば、その恩恵で無差別テロから免れるといったような呪術的心理もあるようにも思う。
 今回のテロの真相はまだわからないが、連想されるシナリオが暗示するものは、もはや日本的な呪術的倫理性は世界には届かないことだ。つまり、テロはようやく本格的にグローバル化したのかもしれない。

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