2014.09.16

[書評]ツタンカーメン 死後の不思議な物語(ジョー・マーチャント)

 奇妙なという表現も適切ではないが、なんとも不思議な読後感を残す本がある。なんというのだろうか、その視点に立つと現前の風景やメディアを通して見る映像が微妙に揺らぎ出す。『ツタンカーメン 死後の不思議な物語(ジョー・マーチャント)』(参照)の読後、そうした感覚を持った。

cover
ツタンカーメン 死後の奇妙な物語
 書籍は、帯に「最新DNA鑑定は3000歳のミイラをどこまで解明したか」とあるように、古代エジプト学の科学的探求について、総合的な意味合いから最新の知見が披露されている。ツタンカーメンを巡る各種の珍説はきれいに批判されていると言ってもよい。本書はいわば「破邪」の書ともいえるだろう。
 あるいはもっと素直に、ツタンカーメンと限らず、古代エジプト学について関心のある人や、『ツタンカーメン展 黄金の秘宝と少年王の真実』などを楽しまれた人には、必読書としてもよいだろう。
 一般の読者からすると、悪い意味ではないがそこは少しずれる。不思議な違和感が残るだろうし、その違和感のありかたに、筆者の独自の思い入れが感じらる。そこをどう言い表してよいかもどかしい。まあ、読んでみてくださいとしか言えないものかもしれない。
 私の読書の焦点がその違和感に置かれたせいもあるかもしれないが、ナショナル・ジオグラフィックなどで著名な考古学者ザヒ・ハワス博士らが主導する「エジプト考古学」的なありかたへの疑念は共感した。
 少し勇み足な言い方をすれば、古代ロマンと限らず学問に仮託されたロマン、あるいは科学を道具にしつらえた正義などもそうかもしれないが、それらに本質的に関わる科学というものの問題点が謙虚にかつ描かれている。
 著者にとってもそこは執筆の動機でもあったようだ。著者は、ハワス博士らによるアメリカ医師会ジャーナル(JAMA)論文に関する、興味深い5通の投書に出会ったという。それらは、JAMA論文を否定していた。しかもそれぞれに専門家としての否定であった。著者は、遺伝子学の博士号を持っていることからも、その否定の内実に向き合っていった。
 しかしこの書籍では、その問題の焦点にパラシュート降下はしていない。一般的な読者を対象に、ツタンカーメン発見に至るエジプト考古学の歴史を、1881年から紐解くことになる。その探求自体が興味深い歴史である。
 さらに本書はその探求の背後で、多数の人々が寄せる古代ロマンの情感についても上手に掬い上げていく。この描出の手法こそ著者が前作『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』(参照)でも見せた特質だったなと安堵感も感じられる。
 私にとって本書の圧巻は、各種ツタンカーメンの真実よりも、著者の専攻であるDNA学に関連する部分だった。概要的には知っていたが、「DNAが汚染される」ということの意味合いについての解説は非常にためになった。
 私たちは、つい、科学に神のような真実性を期待しがちだし、その枠組みのなかでDNAという熟語がよく現れるが、純粋に科学的な熟語がどのように社会的関心に翻案されるかというようすが、本書では詳しく吟味され、そこで私たちがどう間違いやすいかがわかってくる。
 こうしたことは科学的知識と限らないかもしれない。知識とはそれ自体、扱いの難しいものだ。インターネットが興隆してから、わからないことがあれば「ググレ」(Googleで検索せよ)と言われる世相になった。
 しかし、本書を読んでしみじみ思うのは、本書に示された内容は、おそらくGoogleでは検索できないことだ。あるいは、いつかの断片を上手に統合すれば本書のような見解に達するかもしれないが、それが可能になるのは、本書の思索があってのことだ。
 ネットに溢れる大衆的な知識やあるいは科学的だと称させる知識、そうした知識は検索すれば集まる。だが慎重な思索の過程は検索できない。当たり前のことだが、その当たり前は、書籍でしか提示できないものだろうか。原理的にはそうではないのかもしれない。それでも、こうした思索過程を示す書籍を読むと、なんとも奇妙な思いに駆られる。
 個人的には、読みながらツタンカーメン・マスクが懐かしいなという思いもしていた。私はツタンカーメン・マスクを20分くらいだったろうか、ただ一人見とれていたことがあった。
 トランジットでカイロに立ち寄ったらアテネ便まで数時間も待つというので、カイロの博物館に行った。そのころもテロ事件で観光客が激減していた。だが私は空港で読んだ英字紙に、軍が出動して治安は確保されているというのを読んだので、意外に穴場かなと出かけていったのだった。本当にがら空きだった。
 本書では、エジプトでのいわゆる「アラブの春」とそれが世界の古代史にもたらす言及もある。あの博物館を思い出すと、今はどうなっているだろうかと不安にもなる。
 
 

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2014.09.15

なぜ従順に殺害されてしまったのだろうか

 イスラム教過激派組織ISIS(イラク・シリア・イスラム国)が、人道支援団体メンバーのスコットランド人デービッド・ヘインズ(David Haines)さんを殺害した。13日の報道である。首をナイフで切断するという残酷な殺害である。同種の殺害として3人目になる。
 一人目は、8月19日、米国人ジャーナリストのジェームズ・フォーリー(James Foley)さん、二人目は、9月2日米国人ジャーナリストのスティーブン・ソトロフ(Steven Sotloff)さんである。
 私はフォーリーさんが殺害されたおり、残酷性が弱められたとされる動画をたまたまネットで見た。実際の殺害シーンはボカされていた。断頭後の死体も見なかった。あの動画はあくまで処理されたものだろうと私は思っていた。
 その後、「あれは本当に処刑の映像なのか」という疑問を投げかける報道を見かけた。もしかすると私が見た映像はISISが流した映像そのものであったのかもしれない。つまり最初から残酷性は弱められるように処理されていた映像だったのだろうか。
 疑問を解明したいとは思わなかった。リアルに首を切り裂いて殺害されるようすを見たいとは思わなかったからだ。
 あとの二人についても同様である。なんとなく、海外報道が取り上げる一部の映像を見ただけだった。
 私は、ある衝撃的な映像報道がなされたとき、当然持つべきはずの印象とは別の印象を持つことがある。疑問と言ってもよい。映像が想定する印象を多くの人が想定どおりに抱いて感情的になっているとき、そこからずれて、些細なことに、なぜなんだろうかと一人考え込んでしまう。
 今回の事態で思ったことは、殺害者はなんでオレンジ色の服を着せられているのか、ということだった。なにか特別な意味があるのだろうか?
 自分なりに調べてみたが、わからなかった。すごく基本的なことで、こんなことも私はわからないのかというような知識が背景にあるように思えたが、わからないものはわからない。報道では、"orange jumpsuit"(オレンジ色のつなぎ服)と表現されていることが多いが、あれはつなぎ服ではない。
 いや、そうじゃない。最初の殺害映像でわかっていたともいえる。囚人服である。グアンタナモ湾収容キャンプの囚人はオレンジ色のつなぎ服を着せられていた。また、米国では"Orange Is the New Black"というドラマがあるが、ここでいう「オレンジ」は囚人服のことである。
 これはさらなる困惑を私に引き起こした。ISISがやっていることは米国民にわかりやすいビジュアル表現としてオレンジ色の囚人服を着せている、ということのだろうか? すると、ISISの行動というのは、広義にアメリカ文化なのだろうか。
 かくしてわからない。しかし、それはもしかすると些細なことかもしれない。
 もう一つの疑問は、なぜ従順に殺害されてしまったのだろうか、ということだった。
 どうせ殺されるのである。頭突きでも歯で噛みつくでもなんでもして殺害者にわずかな痛みくらい与えて死んでもいいのではないか。あるいはあらん限りの呪いの言葉を残して死ぬことはなかったのだろうか。サムソンのように。


サムソンは主に呼ばわって言った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう一度、わたしを強くして、わたしの二つの目の一つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください」。

 いや、状況はそうじゃないのだろう。これは断頭台に立つ人とは違う。最後の自由は実際には与えられていないのだ。
 自分が彼らの立場に立ったとき、どうするだろうか。
 自分が愛する人に、自分の死の真相と、最後の姿を伝えたいと思うのではないだろうか。
 おそらくそうだろう。確信はないが。
 あるいはこうしたとき、欧米文化でのなにか基本的な対応というのもあるのかもしれない。
 もしかすると、最後のあがきをした人間が他にいたかもしれないが、ただ殺されて闇に消え、映像として使えるのがこの三人だったということかもしれない。
 もう暫く考える。
 三人の死は、死の威厳というものかもしれないと思う。最期に愛を伝えることができる確信が私には感じ取れたから。
 彼らにはその処刑の理由はない。彼らは無罪である。無罪であるものに死を与えることは不正義である。
 彼らは不正義を、静かに最後に、威厳をもって、訴えていた。
 
 

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