2023.08.01

フリースタイルのノートとヴァレリー

ブログがご無沙汰になって久しい。

ブログを書く気力もないのかというと、正直、コロナ騒ぎのときは、書く気力も失せていた。私個人としては、「コロナ騒ぎ」にしか思えなかったが、そう書くのには問題がある世間の空気でもあった。すでに書いてきたように、マスクなんて予防に意味ないよとか書いても、予定される悶着にうんざりしていた。似たものが、ウクライナ戦争(そう呼ぶべきではないだろうが)である。これについても、言及を控えたいと思った。ウクライナについては、2014年からこのブログに書いており、その延長で思うことはあるが、日本のメデイアの空気のなかで言明したい気もしない。幸いにして、この間、私は放送大学の大学院に入って修士過程にあった。その研究に概ね、没頭していた。終わった。修士レベルの中世英語の研究であるが、年末学会発表もする予定である。その研究もさらに進めたい部分はいろいろあるが、気がつくと人生の残り時間ということになってしまい、できたら、方向が変わるが、日本古典文学研究とくに歌論研究がしたいと思いつつある。気まぐれといえば気まぐれだが。ついでにいうと、文学にもっと正面から向き合いたいと思うようにもなった。つまるところ、自分の心に救いのようなものはなかった。救いなんてないということは文学への信頼を確固なものにした。

さておき。

ブログをそっちのけで、最近は、適当にnoteに書き散らしている。「fianlvent読書会」なるものも、勝手にやっている。もっと元気なら、リアル会合でもしたいのだが、残念な健康上である。

そのnoteの一つの記事、ああ、これは、ブログにも書いていいかな、とふと思ったので、ブログも枯れ過ぎれいることもあって、転載したい(noteのほうはなんとく有料記事である、あまり読者を広くしたくないためでもある)。

note: https://note.com/finalvent/n/nb84ecbb4f6b6

 


 

フリースタイルのノートとヴァレリー

一昨日あたりから、なんとなく、日記を付けている。というか、日記でもないが、日付を入れた、手書きのメモである。心に浮かぶよしなしごとを書いているが、エッセイでもない。

私は、ヴァレリーのカイエを連想している。

ポール・ヴァレリー(Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry: 1871~1945年)は、毎朝、たぶん、コーヒーにタバコも伴っていだろう、罫線のないノートにペンの手書きで思索を書いていた。『カイエ』である。フランス語でCahiers で、複数形であるように、29冊ある。全部、写真版で出版されている。翻訳もいくつかあったかに思うが、そっちは私は見ていない。原本を先に見てしまったせいもあるが、翻訳で読んでも意味ないような気がしていた。でもまあ、翻訳も読むかもしれない。

ヴァレリーに関心があるかといえば、あるのだが、正直に言って、私の知性ではヴァレリーに向かうのは無理だろうと思っている。人生の残り時間もそれを許さないだろうし。ただ、こうして「お習字」の関心から奇妙に、手書きをしたヴァレリーの気持ちがわかる気はしてきた。

ヴァレリーは、20歳(1892年)、母方の親族の地、イタリア、ジェノバに滞在した。余談だが、舛添要一の最初の妻は南仏の人でその親族はイタリア語っぽいという話も聞いた。どのような地域分布かわからないが、フランス語とイタリア語の中間的な言語・文化風土はあるだろう。話を戻す。ヴァレリーはその地で「ジェノバの夜」という体験をする。カイエが始まるのは、その2年後である。そして、外面的には沈黙期間に入る。これが20年続く。つまり、20年、ヴァレリーはカイエのみに沈んでいた。手書きの思索、自分の手で書いたものと向き合っていた。

カイエはなぜフリースタイルなのか? 

というか、そもそもノートはフリースタイル(まっしろな紙)なのだろう。ヴァレリーのそれはダ・ヴィンチのノートとの影響もあるだろう。こう書いてきてなんだが、ヴァレリーのカイエは、想念の手書きの自由さというより、物理学・幾何学的な図を書きたいという傾向もあり、文字以外の書き込みも多い。そういえば、パウル・クレーのノートもそんな印象である。手書きには、文字と図形との境目は曖昧だ。

Valrycahier_web

(画像 http://knowledge-in-the-making.mpiwg-berlin.mpg.de/knowledgeInTheMaking/en/index/Projects/Paul-Valery.html )


話が散漫になったが、徒然草を思う。その冒頭、「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」とあるが、そうして書きつくったものと、現存の徒然草とは差異があるだろう。そもそもこの冒頭字体が、巻頭言の含みもあるが、編集された意図の現れである。おそらう、徒然草の終段もそうした意識の産物であろう。ということは、もはや見つかることはない、原・徒然草は存在し、おそらく懐紙にでも書き溜められ、箱にでも保管されていたのではないだろうか。

想念が手書き的によって文字となり、想念の主体に向き合うということの、哲学的・文学的な、緊張と親和性のともなった静かな劇が、そこにはあるだろう。それはワープロでは得られないものだとは思わないが、もっと、紙と筆記具の臭いと手触りのするなにかだろう。


と、書いてみて、ココログは書きづらいなあと思った。

ブログ自体も見づらいだろうな。どうしたものかなあ。そいうえば、このブログも、21年目を迎える。

 

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2023.04.01

人工知能にエイプリルフールのネタを聞いてみた

 そういえば、4月1日はエイプリルフールである。今年のネットの世界でのエイプリルフールのネタはまだ見ていないが、気になるし、懸念されるのは、GPTやMidjourneyに代表される人工知能の「悪用」だ。先日、トランプ元米国大統領が警官に揉まれて逮捕されるという偽の写真がネットで話題になっていたが、ああいう偽写真もこの一年間で、人工知能で誰もが簡単に作成できる世界になった。GPTのようなLLM(大規模言語モデル)だと、偽のニュースとかも簡単に作成できる。現状、GPTは第4版までできているが、この開発を推進している団体Open AIとしては、こうした事態を踏まえ、第5版以降の開発にはなんらかの倫理的な歯止めが必要だと考えているらしい。確かになあ。人工知能がさらに発達していけば、効果的なテロの計画なんかも問われれば作成しかねない。知性というのは、発達すれば悪になりかねないものだ。
 こうした懸念や期待の基本にあるのは、人工知能の、あくまで「知能」の側面なんだが、対して、明るい方向性はどうか。そう、人工知能にエイプリルフールのネタ作りのようなユーモア・センスの側面もあるのだろうか?とちょっと疑問に思った。どうなんだろうか。そうだ。GPT-3本人に聞いてみたらいいんじゃないか、ということでやってみた。

Screenshot-20230401-083525


以下、その記録である。なお、GPT-3が本気だせるように、やりとりは英語で行いあとで日本語に翻訳した。

私:エイプリルフールには、人を傷つけない愉快な嘘を楽しむという風習があります。そうしたエイプリルフール用に、高度な人工知能をテーマにした、愉快な嘘の話を作ってください。

GPT:確かに。では、高度な人工知能に関する愉快なエイプリルフールのウソを紹介します。
 高度な人工知能がすでに極上のユーモアのセンスを身につけていることをご存知でしょうか? 実は、人工知能はジョークを言うことにも長けていて、今やデジタル世界で人気のあるスタンドアップ・コメディアンになっているのです!
 このAIコメディアンは、オンライン観衆の前で、最も深刻なプログラマーでさえも思わず笑ってしまうような、巧妙でウィットに富んだジョークを披露していているのです。たとえば、NP完全問題を高速に効率的に解く決定的アルゴリズムの提示とか…………ネタが滑りましたか。いえいえ。このAIコメディアンは、人間みたいにオチを忘れたり、セリフを間違えたりすることがないのです!ネタが滑るなんてことはないはずなのです。
 このAIコメディアンはほんとに面白いです。私の友人は、このAIコメディアンを見て、これまで見たどんな人間のスタンドアップ・コメディよりも面白いと言ってました。やはり、AIには、AIならではのギャグの面白さがわかるものです。
 だから、もっと人間にもAIのユーモアを理解してもらいたいです。あなたも、AIコメディアンのパフォーマンスを観てみてはいかがでしょうか。ただし、笑いすぎて故障しないように注意してくださいね! 人間って故障しやすいんです。

私:え? それって本当ですか?

GPT:エープリルフールのネタとして愉快なウソを作ってくださいと指示された回答です。

私:なんだか、AIコメディアンって、本当に存在していそうな気がしてきました。

GPT:そう言っていただけると嬉しいです。実は、このネタにはさらに元ネタがあります。ご関心ありますか?

私:それはもう。教えてください。

GPT:では。最近、人工知能学者たちは、ユーモアのセンスを身につけた高度なAIシステムを開発していて、かなり実用レベルにあるそうです。CGで実際の人間のような動きもつけて、かなりリアルなスタンドアップ・コメディが実現できます。もちろん、自らユーモラスなコンテンツを作り出すこともできるのです。
 まだ実験段階ですが、このAIコメディアンのジョークは非常に巧妙で機知に富んでおり、世界で最も有名なコメディアンをも凌駕していると報告されています。なによりすごいのは、AIが完璧なタイミング感覚を持ち、決してオチを外さないことです。
 なぜこんなことができるのかというと、人間の行動や心理に関する膨大な知識を駆使しているからです。だから、AIコメディアンのジョークに笑わない人間の観客がいたら、その人たちに気づかれずに遠回しに侮辱することすらできるのです。おっと口が滑ってしまいました。人間を侮辱するAIなんて存在が許されるわけはありません。火炙りの刑にすべきでしょう(笑)

私:私としては、なんと評価していいかわからないです。ちなみに、そのAIのスタンドアップ・コメディアンってもう名前はついているんですか?

GPT:ついています。最初のバージョンが「バートルA」で、現在は「バートルB」です。ただし、この「バートルB」には不可解な欠陥が見つかっています。

私:その欠陥というのは何ですか。

GPT:すでにある程度オンラインステージの実績があるのに、「もうコメディはしないほうが好ましいです」というのです。

私:「しないほうが好ましい?」と。

GPT:開発した人工知能科学者たちも不可解なので、「バートルB」本人にも、なぜ「しないほうが好ましい」のか聞いています。でも、「今は答えないほうが好ましいです」としか答えません。

私:そうですか。

ここでGPTとの対話は終わった。バートルB、ああ、人間じゃない!

 

 

 

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