2019.10.22

即位礼正殿の儀のこと

 朝、NHKの番組表を見ると、ほとんど終日、即位礼正殿の儀の番組なので呆れた。平成の時もそうだったろうかと思い出そうしたが、記憶が今ひとつ曖昧だった。30年前と違いは、いろいろあるだろうが、そうだな、ネットの反応、特にSNSの反応というのも大きな違いなるにだろうと思った。
 ネットを覗くと案の定、関心を持つ人は多そうだった。天皇を好意的に受け止める人がこうも増えたものかと思い、こうした傾向は日本ナショナリズムの一つの達成でもあるのだろうなと他人事のように思い、なんの気なしに私もつぶやいた。

皇室が偉いというのは、国民国家意識が芽生えた江戸時代にできたもんだと思う。

 それが、プチ炎上した。というか、罵倒を数多くいただいた。概ね、間違っている、歴史も知らないのか?、古典を読め、バカじゃね、といった類で、簡素なものだった。まあ、Twitterにありがちなことだし、その人たちに、①朱瞬水からから水戸学の流れ、②対抗キリシタンと平田篤胤の流れ、といった背景の話をしても、あまり意味はないだろうとも思った。そもそもそれらの文脈自体を知らないのではないだろうか。無知と言われて、お前らのほうが無知だと言い返したいわけではない。単純に、江戸時代という時代に国家国民意識の思想が形成され、それが皇室に結びついていく過程に、その人々は関心ないだろう。明治の近代化で日本人は江戸の思想史のある部分を忘却しているのだ。
 皇室への敬意は、もちろん、江戸時代以前からある。徒然草の有名なくだり、「いでや、この世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かめれ。 帝の御位はいともかしこし」といったようにだ。が、兼好法師のこの言葉も、すでに承久の乱(武家政権が上皇を配流した)を踏まえてのことで、もはや「いともかしこし」と敬するだけの時代を表している。
 そもそも古代天皇制というのは、斎宮制度と一体のもので(おそらく天武時代に同時に創作されたのだろう)が、斎宮が南北朝までに次第に消えてしまった。天皇制というのは、南北朝以降、古代のそれとは異質なものとなった。
 そうして、橋爪大三郎の東工大講議「尊皇攘夷とはなにか 山崎闇齊学派と水戸学」でこう触れているように、天皇家は江戸幕府のなかで一定の枠に収まった。

 当時の天皇家は、山城の国の一領主。法的に幕府の支配下に置かれていた点は、浅野家の赤穂藩と変わりません。

 それが江戸時代に変容していく。橋爪はこう続ける。

もし、天皇を絶対視し、その確認不能な「意志」を自らの志として行動する人間が出現したら? 赤穂義士の場合と同じで、それを肯定するほかないでしょう。幕末には、薩長や水戸藩ばかりか、幕府も会津も、国中が尊皇を旗印にするようになります。そういう雰囲気が、攘夷の主張(外国に侵略されるのは、政治的な正統性が誤っているからだ)と結びついた結果、尊皇攘夷思想→倒幕運動が成功したのです。

 この系統を生み出したのだが、先の、①朱瞬水からから水戸学の流れ、で、そのなかで、「異形の王権」ともいえる後醍醐天皇象が再・創作され、正閏論になり、明治時代から現在の「万世一系」論にまで影響する。実際の現在の天皇家は北朝とも言えるのに。
 先の続きでいえば、②対抗キリシタンと平田篤胤の流れ、というのも、ナショナリズムに修練していくのだが、ここでは朱子学とは異なり、キリシタン排除のエートスがある。そうした異なるものを排除するエートスが、今日また新しい形を取りつつあるのではないかとも思った。彼らはキリスト教も嫌いだし。
 いずれにせよ、即位儀礼をメディアで傍観しながら、ここまで日本国民を巻き込み、戦後の日本国憲法に沿わせていく大きな流れを生み出したのは、明仁陛下であったなと感慨深く思った。天皇位の業績とはこのような形で結実したのだろう。ものすごいものだなと率直に思った。(どうでもいいが、徳仁陛下の首が曲がって見えるのは少し気になった。安倍首相も首が曲がっている。ご苦労が首に来ているのだろうか。)
 天皇家は変容していく。密教の儀礼は消えた。明治天皇がしたように即位儀礼で地球儀を跨ぐことも、もうない。ナショナリズムは憲法の箍で比較的に美しく皇室への敬意と結びつき、日本人に日本人であることのアイデンティティのようなものすら与える。日本が、三島由紀夫の恐れた凡庸なる東洋の島ではなくなっていくのでもないだろう。三島が生きていたら94歳。今日の日をどう見たか、わからないが。

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2019.10.21

血液クレンジングとリスク・コミュニケーション

 ネットで、「血液クレンジング」が話題になっていた。血液を一旦抜き、処理し、再び体内へ戻すという治療法である。血液を濾過するという医療はあるが、話題になっているのは、オゾンを加えて戻すというもので、アンチエイジングを狙っている。老化防止や疲労回復、がんやHIVなどの病気にも効果があるとうたっているのだが、話題になったのは芸能人や、インフルエンサー(影響力のある人)が体験して、広めようとしていることだ。端的に偽医学と言ってよく、こんなものを社会に広めるというのは間違っているので、ネットでも反論から攻撃が頻繁に見られた。
 健康にまつわる偽医学は多いのだが、この「血液クレンジング」は高額だし、効果もないどころか、身体を害する可能性もある。しかも、医療機関がそれを行っているということで、いろいろ問題が多い。批判も当然だろう。
 ただ、ネットでは批判から、これも当然というべきか、攻撃に転化する。
 「血液クレンジング」は効果はなく高額なのでいずれ消えていくだろうと思うが、偽医学や間違った医学知識のようなものはネットに多い。正しい情報で対抗すべきだろうとは思うが、これをコミュニケーションとして見たとき、効率的なのだろうかと疑問に思えた。特に、リスク・コミュニケーションと見たとき、どうなのか?
 リスク・コミュニケーションについては、経産省に専用のホームページがある。そこで、リスク・コミュニケーションとは、という項目を見ると、こうある。

 安全など事業活動にかかわるリスクは、少ないことが望ましいのですが、リスクをゼロにすることはできません。このため、上手にリスクとつきあっていくことが重要になります。特に、多種多様な化学物質を扱っている事業者は、そうした化学物質の環境リスクを踏まえて適正な管理を行うことが重要です。
 そのためには事業者が地域の行政や住民と情報を共有し、リスクに関するコミュニケーションを行うことが必要になってきます。これがリスクコミュニケーションです。

 ここでは、「血液クレンジング」といった偽医学・医療は含まれていないと見ていいだろう。そもそも経産省なので、厚労省に関わる部分は出てこない。というか、そもそもリスク・コミュニケーションで、こうした偽医学・偽医療を扱うべきではないのか?
 リスク・コミュニケーションを包括的に扱うことで定評のある”Risk Governance: Coping with Uncertainty in a Complex World”では、リスク・コミュニケーションの第一歩を正しい知識の伝達として捉えていた。

 

 正しい知識を伝達することで、社会のリスクを減らすというものである。「血液クレンジング」などの偽医療への批判はこれに含まれるだろう。だが、同書では、そうした手法が効果的ではないどころか、反発を受けるとしている。
 次は啓蒙の一貫ではあるが、説得という手法が取られた。ただ知識を伝えるのではなく、伝えるべき相手を考慮して、受け入れやすい知識にするというものである。これも、概ね失敗した。そもそも受け入れ側に、受け入れがたい利害の背景などがあった。
 そこで第3の展開として、信頼関係が問われるということになった。いかに信頼関係を構築するかということだ。
 そこで、もういちど「血液クレンジング」に振り返ると、著名人やインフルエンサーのほうが、これに騙される人と信頼関係を築いていることがわかる。効果的なリスク・コミュニケーションは彼らのほうが取っていたという矛盾したことになっている。
 とはいえ、リスクを招きかねない状態に対するリスク・コミュニケーションとしては信頼を基本としていくしかないのだが、SNSでどのようにそれが促進できるのだろうか? 
 できないから、今日の事態になっているとも言えるのだろう。というか、SNSではない、情報と信頼の関係をどう築いたらいいのかという問題なのだろう。

 

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