2021.01.03

[書評] 標準ラテン文法 (中山恒夫)

 2021年、あけまして、おめでとうございます。
 ということで、このブログもまだ続けるつもりでいます。

   * * *

 年末年始、何をしていたかというと、時間があれば『標準ラテン文法』を学んでいた。そして、今日、終えた。なかなかタフな勉強だった。大学生のときに、ラテン語の授業もとっていて、『詳解ラテン文法』が教科書だったが、40年も錆びつかせると、さすがに忘れたというか、今回、振り返ってみると、当時はぜんぜん勉強足りなかったなと思った。というか、そう思える機会にもなった。
 そういえば、3年ほど前、放送大学でヘルマン・ゴチェフスキ先生の『ラテン語の世界』も聴講し自分ではそれなりにまたラテン語をまた学んだ気になっていたが、やはりラテン語は、頭で理解するより、やはり問題集を解く作業が欠かせないものだと納得した。
 ちなみに、教科書として『標準ラテン文法』と『詳解ラテン文法』とどっちがいいかというと、『標準ラテン文法』のほうがよいようには思えた。解説は『詳解ラテン語』のほうがやや多いが。あと、ヘルマン ゴチェフスキ先生の『ラテン語の世界』の教科書は、この機会に読み直すと、いろいろ啓発されることが多く、名著だなと思った。

 


 さて、この『標準ラテン文法』だが、実質、学校の授業で使う教本なので、端的に言って独習に向かない。アマゾンの評にも、こう指摘されている。
《お気をつけ下さい。授業での使用が大前提で、この本での自習は不可能です。
味気ない説明だらけで何を言っているのかわかりません。
ですが、優れた教師の解説があれば素晴らしい教科書に変わります。》
《1987年以来増刷を続ける古典ラテン語でもっとも広く使用されている標準的教科書です。《体裁》A5版×本文110ページ、別冊「羅和・和羅単語帳」30ページ、練習問題は、各課、和訳20題前後、作文5題前後、回答はついていません。古典ラテン語の「散文の購読に」必要かつ不可欠な内容を盛り込んだファンダメンタル(基礎的事項)と言えます。全体は19課からなっており、「90分ないし100分の講義時間で1回に1課づつ進めて20回で終わる」ことを想定しています。わたしは中山先生の高弟に教えを受け、90分×25回で終了しました。20回はちょっと無理ですが、大学なら、1年で、25回ー30回くらいで無理なく消化できると量だと思います。》
 そういう教科書ではある。
 ではなぜこの教科書で私が今回、学んだのかというと、昨年11月と12月、これを使ったラテン語の入門講座(対面授業)を受講し、そこで5課まで進め、さて、その後、どうしようかと考えて、まあ、なんとなく自習を始めた。あと、これから些細な学究生活に戻るので、その基礎にも欠かせない知識になる。
 自習はどうだったか。さらに5課くらいはそれなりにさくさく進められたが、10課でdeponentが出てくるあたりで、自習がきつくなると同時に、ラテン語学習の面白さも加速してきて、とにかく岩でも登るように学習を進めることにした。手間はかかってもいい。前へ進める。でもこれ終わることができるのかと、そのころは思った。
 自習といっても、基本は、説明を理解し、暗記し、演習問題を解く、というだけのことだが、先のアマゾン評にもあるとおり、解答がない。正解がまるでわからない。いよいよ行き詰まる。ついに、ここまでかと思って、たまたま他のことでネットを見ていたら、解答例を書いてくれているサイトを偶然、見つけ、これ幸いと利用することにした。これがなかったら、自習は無理だったかもしれない。
 さらに、課を進めていくと、課題が加速度的に難しくなるのだが、ここで授業でも紹介があったが、古典的な羅英辞書、"Lewis and Short Latin Dictionary"で、そのアプリ版に活用形の解析機能があることを発見した。これは超便利だった。なんだか、カンニングしているような気まずさもあったが、解答を理解するにも解析が必要な事態になり、むしろアプリの機能を積極的に使うようにした。ちなみに、Lewis and Shortは古い辞書なので、gerundivumの概念がない。ついでにいうと、『詳解ラテン文法』では、これが最後のほうでようやう出てくる。
 偶然の手助けがあった。が、それでも課題はきつくなり、どうしたか? もう努力あるのみ。
 問題文をノートに書き取り、それで回答を書き、答え合わせし、間違いを赤ペンで直し、不明な点を青ペンで解説を加えるという、もう高校生のような勉強を地味に進めた。できるだけノートに解説も書き込むようにした。
 63歳にもなって、中学生や高校生と同じ学習法だなと思ったが、幸い、ラテン語の勉強はきつくもあったが、楽しくもあった。
 さきほど、『標準ラテン文法』を一巡終えてみると、微妙に達成感があった。大学のときの『詳解ラテン文法』は授業では完全に終えていなかったこともある。
 それにしてもこの『標準ラテン文法』は簡素な本で、あの複雑なラテン語文法がこんなにもコンパクトにまとまっているのが不思議なほどだ。そのことに、なにか自分だけの宝物になったようにも思えた。
 講義では、「このテキストが終われば、大体ラテン語の中級です」との話もあった。まあ、そこはよくわからないが、ラテン語が随分身近になった。
 さて、こう書くと、さも自習、独学が大切といった話のようだが、そうでもない。今回最初、入門講座は対面授業で、基礎をけっこうがっちりやった。これがよかった。特に、アクセントについてきちんと学べたのは、とてもよかった。アクセントを理解したうえで、動詞の活用を読み上げていくと、そこここアクセントの移動に気が付き、さらにはっと気がついたが、イタリア語の動詞活用のアクセント移動にも似ていた。
 どの分野でも基本の基本という部分は、きちんと対面授業で学ぶほうがよいのではないかと痛感した。

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2020.12.19

[書評] 不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学(森本あんり)

 現代という時代をどう特徴つけるかという問題はむずかしいが、誰もが納得する一つの特徴は、人々が不寛容になったことだろう。「こんなやつは許せない」という情念による悪意はネットに溢れている。他罰的な正義によってしか自分や連帯を維持できない人々に溢れているのは、こうしたネットの世界が顕著だが、現実の世界も同じようになってきた。そして、それらが生み出す全体図は、結果としては不合理で不毛な緊張と争いでしかない。どうすればいいのか。
 一つには、18世紀啓蒙主義者ヴォルテールの言葉とされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という格律が有効であるかのように思える(余談だが、この言葉の典拠は本書にも言及があるが不明である)。そして、森本あんりの新著『不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学』はこう謳われている。
《こんなユートピア的な寛容社会は本当に実現可能なのか。不寛容だった植民地時代のアメリカで、異なる価値観を持つ人びとが暮らす多様性社会を築いた偏屈なピューリタンの苦闘から、そのしたたかな共存の哲学を読み解く。現代でこそ役に立つ「キレイごとぬきの政治倫理」。》
 その意味は、現代という不寛容の時代に「役立つ」ための「寛容」の哲学が、植民地時代のアメリカで生まれたものとして現代に再考する意義がある、と受け取れる。それで間違いでもないが、ではなぜそれが、『寛容論』ではなく、『不寛容論』なのだろうか。むしろ、そこに本書の現代的な意義がある。端的に言えば、『寛容論』の射程は現代に届かない。かつての『寛容論』が社会に届かなくなっている現状が、不寛容な社会そのものでもあるだろう。
 本書の立ち位置は、結論を先取りするようだが、少しアイロニカルにも思える。というのも、「寛容」を現代的に捉えようとする思索的な試みに素朴な懐疑を投げかけているからだ。まず、本書では、旧来の『寛容論』に見られる「寛容」の理解を「中世的」とし、それを脱しようとした「新しい寛容」を対比させるが、その「新しい寛容」が現実を捉えていけないと認識されている。少し長くなるがエピローグからその核心を引用しよう。
《本書が「中世的」と表現してきた寛容理解は、ごく大ざっぱに言うと、寛容論の分野で「伝統的な寛容」と呼ばれるものにあたる。この意味での寛容は、相手をしぶしぶ認めることである。相手を是認せず、その思想や行為に否定的であり続け、できれば禁止したり抑圧したりしたいが、そうもいかないので、しかたなくその存在を認める、という態度である。そういう寛容は、相手側にも好まれない。寛容にされるということは、自分の価値を見下されることであり、二級市民として扱われ、その上に恩を着せられるということだからである。
 最近の学界では、こうした伝統的な寛容理解に対して、相手を承認し敬意をもって抱合的に扱う態度を「肯定的寛容」「強い寛容」「認知としての寛容」「水平的寛容」などと呼んで区別する論者が多い。それらの主張もわかるのだが、ふりかえって自分の足元を見れば、それが常に可能というわけではないことに気付かされるだろう。》
 例えば、中絶の是非の議論がある。本書では、《こういう場合》としてその対立を示している。なお、この議論が主題となるのは主に米国社会であって、欧州や日本や中国など他文化圏では様相が変わる。本書はこうした論争的な話題における「現代的な寛容」の限界を率直に認める。
《こういう場合に現代的な寛容を説くことは、どちらの立場の人にも自分の信念への妥協を強いたりすることになる。伝統的な寛容論は、そういう要求をしない。自分の信念を割り引いたり偽ったりすることではなく、それを暴力的な発言や行動に移さないよう求めるだけである。自分の信念は信念のとして堅持したまま、自分とは根本的に違う価値観を持つ「他者」と、なんとかして平和裡に共存する道を模索する。寛容論に可能なのは、そこまでである。》
 だから、「不寛容」なのだ。「不寛容」でよいとするあり方を、本書は、新しい視点から再考しようとする。そして「不寛容」を肯定的に捉えるために「礼節」という命題を加え、本書はさらに、その大きな模範として、ロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)の思想と実践をその時代の文脈の中で見ていくことになる。彼は、ジェームズ1世下のイングランドに生まれた神学者であり、政教分離原則の提案者として歴史的に有名だ。
 さて、本書の私の印象だが、私が興味深く思ったのは、現代世界の地平での「不寛容論」よりも、ロジャー・ウィリアムズの簡素な評伝であった。ごく単純に言えば、ロジャー・ウィリアムズというのは、とてつもなく「変な人」なのである。むしろ、礼節を持った「変な人」であることは、あたかも「不寛容」とも見えるということにも思えた。
 その意味で、本書は、日本の現代思想にありがちな短兵急な新着想のレパートリーとして読むより、ジェームズ1世下のイングランドや、米国の国家の起源の物語として読まれても面白いだろう。
 一点、気になったこともあった。広義に「寛容論」を論じるのであれば、セバスチャン・カステリオン(Sebastian Castellio)への言及がないことが不思議に思われた。というのも、本書では、「ちなみに」として引かれた文脈であるが、カルヴァンによるセルヴェの処刑は、ウイリアムズと対論者であるコントとの関連で引かれているように、ここは思想的議論の要所ともいうべきところである。セルヴェとカルヴァンを「寛容」で論じるなら、カステリオンは欠かせないのではないか。本書の推薦として帯にある宇野重規も彼に注視しているし、渡辺一夫も展開したその議論も著者が知らないはずもない。カトリックにおける寛容論も展開されている文脈でも重視されているようには見られなかったが、中世的な寛容論から現代的な寛容論の過渡的な変異として捨象されてるのかもしれない。

 

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