2020.08.05

スマナサーラ師の教えを聞いて

 アマゾン・プライム・ヴィデオにスリランカ僧アルボムッレ・スマナサーラ師の講話が何本か入っているのをたまたま知って、そのときは、こうした宗教物がプライム・ヴィデオに入るのはいやだなと思った。私は宗教宣伝のメディアなど見たくもないからだ。他方、でも、スマナサーラ師についてはネットでも人気だし、世相を知るにはいいかと思って、聞いてみた。一橋大学での数年前の講演だった。
 聞いてみてどうだったか。とても、よかった。宗教ではあったが、宗教臭いということはない。考えてみれば、NHKでもけっこう宗教番組はあるし、こういうものがプライム・ヴィデオに入っていてもいいだろうとは思った。
 それで関心は終わるはずだったが、何か、それもあとから気がついたのだが、何かとても重要なことが心に残った。うまく言えないので、その法話をまた聞いた。やはり、心に引っかる。なんだろうか? 真の仏教? 自分のような人間が信仰心に目覚める? というのではないことはわかった。師の講話には輪廻転生も出てくるが、そもそも無我の仏教で輪廻転生というあたりの話は一見矛盾にも思える。が、師の法話はいわば便法なのだというのもわかった。
 著作はと気になってみたら、率直に言って、山ほどあった。しかも、アマゾン・アンリミが多い。というわけで、手当たり次第に読んでいろいろ、わかったというか、思った。一番、驚いたのは、師が日本で道元の研究を研究をされていたことだ。また、日本語は卑近にユーモラスに語られるが、英語は完璧で、実際、学問的にも仏教学の博士としても優れている。立派な学者さんでもあった。
 さて、その心のひっかかりについては、なんとなくわかったが、あえて今は書かない。書かないで自分でも忘れたらそれはそれとして、それに近い、3つの気になったことをここは書きたい。

1 植物は一切衆生に含まれない
 いくつかの書籍で語られていたが、いちばん明瞭なのは、『ブッダの質問箱』だろうか。仏教では、植物も大切にするが、生命(衆生)という枠には入れないというのだ。
 え?と思った。
 率直なところ、それは私は考えたこともなかった。キリスト教など西洋の宗教では、人間と動物を分けたらり、動物でも魚は別だとか、奇妙なこと言うものだと思っていた。仏教では、一切衆生は、人間と他の動物の差もない。魚も鳥も差もない。そして、当然、植物にも差はなく、さらにいえば、石ころですら差はないというふうに私は理解していた。道元的な考えでは、一切衆生というのは、宇宙の全存在の全体性を指すと理解している。で、個別性は「我」であり、初存在によって「我」の意識は異なるかもしれないが、すべてが相互存在だと理解していた。
 スマナサーラ師は、植物は生命という枠に入れないとしていた。どういう理路なのか、経典的には私には理解できないが、いつくか雑見した印象では、「食ううか食われるか」という視点が強調されていた。つまり、生物というのは、いつ何に食われ死ぬかわからないという恐怖とその苦のなかで生きているというのだ。そして、生物は他を食って生きていもいる。植物は、他を食わないというのだ。
 もちろん、それを別の観点から否定もできるだろうし、植物が生命(衆生)ではないなら、細菌はどうか、ウイルスはどうかという珍妙な話にもなる。が、それでも、植物というのが、諸生命に食われるいわば慈悲のような存在である捉えるのは、少し驚きだった。
 自分については、子供の頃からか、あるいは子供だからなのか、植物の心がわかるような感覚があるので、個人的には、スマナサーラ師のこの説法については感覚に合わないが。

2 仏教は社会の具体的な問いに答える
 スマナサーラ師は、夫婦仲の悪い夫婦の問題に、実用的に答えるとしていた。それだけ見れば、我が邦の寂聴師も似たようなものだが、スマナサーラ師のその思いの裏にあるのは、サンガ(仏教徒集団)は社会の奉仕(つまるところ乞食の原義)で成り立つのだから、恩返し的に社会の役に立たなくてはならない、というのだ。なるほどね。
 そうして僧が社会の諸問題に実用的に答えていく過程で、社会の側から、仏教的な究極的な問いかけがあるとき、それに仏教できちんと答えるというのだ。
 これは、さすがだなと思った。日本の僧侶もそうあるべきなのだろうとも思ったが、特段、日本の僧侶にそれを期待もしない。

3 仏典を疑う
 スマナサーラ師の個人的な特質なのかもしれないが、若くして僧となっても、仏典に疑問点があれば疑っていたという。仏陀の正伝承でも疑問点があれば疑っていたという。そして、疑い抜いて、疑問もなくなったという。率直に言って、すごいなあと思った。
 僕が宗教というのが嫌いな一面は、信じるということだった。信じるというのは、いつも嘘がある。とはいえ、ユングのように「信じる」ではなく「知る」とも言えない。結局、自分については、「信じる」ではなく、「十分に疑いえない」ということになった。まあ、それはさておき。

 あと、まとめ的にいうと、「スマナサーラ師」はお坊さんだなあと思った。タイの社会などを知ると上座部仏教も生臭いものだと思うが、それでも、上座部仏教はお坊さんっぽく、そして、スマナサーラ師はまったくもって、お坊さんだなと思った。そういうお坊さんが日本にいるのか、いるんだろうけど、僕は知らない。

 

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2020.08.04

カルロス1世

 カルロス1世(Carlos I)というと、高校などで学ぶ世界史では、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V)を指す。1500年ちょうどに生まれ、1558年、スペイン、ユステ修道院の離宮でマラリア熱で亡くなった。神聖ローマ帝国皇帝在位は1519年から1556年。退位時に痛風やマラリアがあったらしい。スペイン国王としては、在位1516年から1556年。つまり、当初、スペイン国王となり、1519年に、フランス王フランソワ1世との神聖ローマ皇帝皇位を争って勝利した。
 カルロス1世の父は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の皇子、ブルゴーニュ公フェリペ、母はスペインの王女ファナである。フェリペは皇位には就かなかったが、カルロス1世の子はフェリペ2世を名乗り、1世がスペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)の始祖となった。つまり、ハプスブルク家が分裂した。
 世界史のお話はさておき、現スペインの前国王は、フアン・カルロス1世(Juan Carlos I de España )である。祖父は、アルフォンソ13世。1931年、市民選挙実施という無血革命で第二次共和制が成立すると、彼はイタリアに亡命。1941年、死の直前にローマで王位をファンに譲る。この時点ですでに、フアン・カルロス1世はローマに生まれていた。なお、フアン・カルロス1世の家系はスペイン・ブルボン朝、つまり、ブルボン朝であり、フランス王家カペー家の支流の一つである。
 スペインは1939年内戦を経てフランコ総統による独裁政権となり、彼の死後、彼の意向も反映して、1975年に王政復古して、1948年以降、すでにフランコ総統の下にいた37歳のフアン・カルロス1世がスペイン国王となった。王家としては44年後の期間である。フアンは王位に付かず、1977年に王位請求権も放棄した。1978年の新憲法でスペインは立憲君主国となり、王は象徴的な存在となった。
 2014年フアン・カルロス1世は退位して、1968年にフランコ政権化のマドリードで生まれた長男が、フェリペ6世として王位に就いた。
 さて前振りが長くなったが、前国王のフアン・カルロス1世が3日、事実上、亡命した。理由は、2011年のサウジアラビアから高速鉄道建設に関する多額の裏金が渡されていた疑惑の捜査から逃れるためだが(在位中は免責特権があった)、現国王からも亡命するよう促されたようだ。82歳の父を52歳の息子が国外追放しようにも見える。亡命先はドミニカ共和国サント・ドミンゴらしい。事実上の介護施設ではなかろうか。
 さてこのブログ記事はそれだけの話なのだが、スペイン現代史を見ていると、中世以来の、他国起源の王家や、亡命など、日本人の感覚からは、日本の王家(天皇家)にはなかなか想像しにくい。日本の敗戦時に天皇家が他国に亡命する可能性などおそらく天皇家自身想定もしていなかっただろう。まして、王家自体が、他国との間で裏金の授受といった疑惑すら浮かびそうにもない。
 そういえば、現国王フェリペ6世の妻(王妃)レティシア・オルティス・ロカソラーノはスペインのテレビでは人気の高いジャーナリストであった。また、フェリペ6世との結婚では彼女は再婚でもあった。ここに書くのは控えたくなるような話題もあった。
 日本の右派的な発想では、スペイン王家と日本の天皇家では格が違うとか言うのだろうが、立憲君主制の象徴的な国王という点では同じである。が、その王家へのイメージはけっこう違うものだなと思う。

 

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