2019.08.22

韓国からの日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄について

 先程、韓国で、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA:General Security of Military Information Agreement)破棄が決定された。日韓のGSOMIAは、日本と韓国の間で軍事上の機密情報の共有にあたり、第三国への漏洩を防ぐための情報包括保護協定である。これによって、両国内の軍事情報への制限も詳細に規定される。朴槿恵韓国大統領の2016年に締結されたもので、3年弱維持されたことになる。まだ日が浅いとも言える。

「ああ、またか」感
 もともと韓国はこの協定に難色を示していて、元来は、李明博韓国大統領の2012年に締結される運びであったが、締結の1時間前にまさかのドタキャンという事態になった経緯がある。ゆえに今日の決定も「ああ、またか」という印象は拭えない。当時の空気を伝える2012年7月02日の中央日報コラム『韓日情報保護協定は不倫なのか』が、面白いといっては不謹慎かもしれないがまあ面白い。

 日本に対しては外交的礼儀など無視して荒々しく出ても構わない。こう考える人たちは意外に多い。政治指導者からそうだ。金泳三(キム・ヨンサム)政権当時は大統領が「日本をしつけ直す」と豪語したことがある。外交的には到底口にすることはできない言葉だった。金大中(キム・デジュン)政権初期にはすべて終わった漁業交渉を再度行おうとし、海洋水産部長官が東京に飛んで行きもの乞いに近い「はえ縄漁業交渉」をした。これもまた外交的に納得するには難しい行動だった。このほかにも大小のトラブルは少なくない。ほとんどが純粋な外交関係よりも韓国内の政治状況が投影され広がったものだ。
(中略)
 政治争点として広がった韓日情報保護協定もそうだ。正しいならばあふれる非難を突き破って強行するか、非難されるのが恐ろしければ最初からしなければよかったのに韓国政府はどうしたのか。隠蔽しながら推進し署名式当日に取り消してしまった。よりによって第2延坪(ヨンピョン)海戦10周年記念日に安保と関連した協定をそのように処理しても良いのか。不倫でも犯して見つかりよろよろと退く姿のようではないか。卑怯だったり、無能だったり、鈍感だったり、力が抜けていたり、実務経験のない人がコントロールタワーにいたり、そうでなければこれら全部が重なったかもしれない。
(中略)
いまセヌリ党が政府に肩入れすれば、ややもすると親日と罵倒される危険もある。われわれの国民感情法ではまだ従北より親日の罪がさらに重いようだ。親日という「緋文字」が刻まれていては大統領選挙の局面を突破するのは容易でない。超敏感性引火物質の「親日フレーム」に引っかかりでもすればこれまで従北議論で得ていた反射利益をすべて返上しても足りない。
(中略)
 政界はそうだとして、国民の中には日本の食卓を蹴飛ばしたので気が晴れたと考える人たちも少なくないだろう。これが精神健康に良いのかわからないが、果たして韓国の安保に役立つかは冷静に考えてみるべき問題だ。(後略)

 引用が長くなったが、今回の韓国からのGSOMIA破棄についての、韓国側の内情は2012年の再燃と捉えてもよく、まして、青天の霹靂でもない。

日韓の安全保障上のデメリット
 日本側では現状ではあまりないだろう。
 日韓の軍事的な信頼はなくなったが、もともと日韓には軍事同盟はなく、両国とも米国を介しての軍事的な協調であり、その軸の変化はない。軍事上の情報は米国側から得られる。
 デメリットがあるとすれば、韓国が独自に知り得た情報が得られないことだ。それが日本にどれほどのデメリットとなるか。韓国の独自情報としては、北朝鮮と地理的に近いことによる動向察知が挙げられるだろう。脱北者の情報などもある。ただ、日本にとって死活問題とも言えない。
 韓国側の防衛上のデメリットも現状ではあまりないだろう。日本のほうが優れている分野もあるが(機雷探知情報など)、有事でなければ、韓国の死活問題とも言えない。むしろ、日本側の情報は韓国軍の不審な動きまで察知しているので韓国には目障りだったかもしれない。

何が問題か?
 もともとのGSOMIAは米国が主に韓国に促した経緯がある。今回の破棄についても騒ぎの時点で米国としては思いとどまるように動いていた。
 つまり、韓国は、米国のメンツを潰した。日本ではあまり報道がないが、韓国の市民運動は反日だけが活発ではなく、反米活動も盛んである。
 米国にとっては、メンツよりも深刻なのは、米国がこの地域で形成したい日米韓の軍事連携が事実上不可能になったことだ。米国のこの地域の戦略は見直しが必要になる。というか、米国は想定される事態は想定する国家なので、かなり厳しい想定も含まれてくるだろう。
 米国への影響の逆に、結果的に中国には迎合したとも言える。中国は表面上は日韓の友好を促しているが、中国側の友好というのは軍事上の密接な関係のことではありえない。
 北朝鮮としては、米国の韓国への関与が弱まることで好ましいと見ているだろう。

国際的な影響
 外交のマナー上、表立っての動きは出ないだろうが、韓国は国際的に厳しい状況に追い込まれることになるかもしれない。
 当然のことだが、GSOMIAは日韓だけ締結されているわけではない。日本は米国やNATOなど7か国、韓国は33か国とこの協定を締結している。米国は60か国以上。日本が少ないようだが、数が問題ではない。日本は主要国から軍事的に信頼されているのに、韓国だけが日本を軍事面で信頼できないという韓国の独自性は国際的な説得力を持たないし、逆の印象を撒くことになる。
 なによりも問題なのは、今回の韓国からの日韓GSOMIA破棄は、米国の意向に合わないということで、韓国は日米韓の安全保障体制から離脱する第一歩として受け止められかねない。先日、竹島海域で中露の軍事的な挑発があったが、韓国がどのくらい日米から離反しているか、また離反を推進させるために、中露と北朝鮮から、今後いろいろな形で攻勢を受けることになるだろう。

有事にはどうなるか?
 現状では日韓のGSOMIA破綻の影響は少ないが、有事には米軍の活動に支障をもたらしうる。有事には、米軍というより国連軍としての動きになり、この際、国連軍司令部は日本国内の後方司令部に依存することになるが、これが円滑に進まなくなる懸念がある。
 米国は有事シナリオを検討するので、米軍としては韓国に展開している自国兵とその家族の安全のために、38度線から遠ざかるなど韓国への関与を弱める可能性もある。

余談
 なお、有事シナリオは韓国に厳しいものになるだろうが、これも考えようで、この機に韓国が米軍への負担費用を増やすとか、米国からいろいろ軍用機などを購入するとか、米国の軍事産業としてのメリットから米国の「信頼」が期待できるのかもしれない。その経済負担に耐えらればという話でもあるが。

 

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2019.08.21

映像化される「私」の自己確認とでもいうか

 これってなんだかアニメみたいだなと思うことがあって心にひっかかっている。それが社会問題なのだと声を上げたいわけでもない。映像化される「私」の自己確認とでもいうか。まあ、とりあえず3つほど書いてみよう。

 

いきなりパノプティコン
 京アニ放火事件の容疑者が、街中を歩く光景をニュースとしてなんども見せられた。それほどそんな映像を見たいとも思っていないのに、見る機会は多かった。それと、「あおり運転男」の関連映像もそうだった。
 何か事件があると、その人の街中の映像がよく流れる。そりゃ、あっちこっちに監視装置があるんだから。
 監視社会というのは簡単だが、なんとも奇妙な幻想が入り交じる。あの溢れんばかりの監視装置に私も監視されている。どこにいても監視されている。そういう自分を受け入れているし、どこかしら、幻想のなかで、そういうふうに映像として自分を見ているような気がする。
 自分がいつも見られている社会の完成というのはこういうものなんだろう。そして、まあ、パノプティコンである。功利主義哲学者ベンサムが考え出した全展望監視システムだ。囚人は常に監視されているという監獄である。ミシェル・フーコーが『監獄の誕生 監視と処罰』で現代社会の監視システムとして論じて現代思想とかで話題になる、あれだ。
 フーコーの考えでは監視する・されるという、いわば権力のあり方として論じている、としていいのだろう。私が最近気になっているのは、自分がその監視装置を見ることができるという幻想で、絶えず自身を、その映像的な客体として意識しているように感じられることだ。
 社会や他者とのコミュニケーション主体である「私」というのを、監視装置に映りだされた映像と等価なものとして自然に私が受け入れている気がする。いつからか。
 何が私の心にひっかかっているのか? プライバシーがないということなのか? 微妙に違う。「私」というのは、あれじゃないんじゃないかという奇妙な抵抗の感覚であり、それでいて、他者というものは、みんなあれだという、一種の安心感だ。

 

犯罪係数があって自然
 アニメ『PSYCHO−PASS』には「犯罪係数」という概念が出てくる。人が潜在的に犯罪を犯す状態値である。計測され、それが閾値を超えると、病人として社会から強制的に排除される。これには死刑も含まれる。アニメらしいディストピアである。現実にはそんな計測はできないし、このアニメでもその計測のある種の不可能性が非常に面白いしかけになっている。
 だが、京アニ事件の容疑者やあおり運転男の映像を見ていると、その映像の左上あたりに、「犯罪係数、204」とか出てきて、なんも不思議ではない感じがする。というか、自然に出てきていいような奇妙な感じがする。「あ、こいつ、色相が濁っている」とか。
 私がちょっと妄想ぎみなのか、街中で見る人でも、なんかのアプリで犯罪係数が計測できそうな気もする。「やば、こんなところにいると、濁っちゃう」とか。
 これはどういうことなんだろう? 私の妄想や考えすぎというのはさておくとすると、こうした映像化された容疑者に、犯罪の意図なんかないんじゃないか、というある確信のようなものが自分に感じられている。なんだろ。「こいつ普通に思考していないな。ただ犯罪係数が上昇しているだけだな」みたいな。

 

自分に寄せる偽の関心
 情けないがどうもアマゾンのポチリ中毒になっている、私が。どうでもいいような物がほしいのである。幸い高価なものではない。中毒の緩和は、どうでもいいようなKindle本を買うくらいでおさまる。なんだろ、ガチャ? リアルのガチャとか福袋とかまるで関心ないけど、アマゾンではずれもありそうな物を買いたくなる。まあ、それはそれで、そんなものだとしよう。
 気になっているのは、アマゾンが、「これがおすすめ」と示してくれるものだ。あれ?と先日思ったのだ。なんか、ガンマニアの玩具みたいなものが推された。僕はガンマニアじゃないんだけどなあ、なんだろ、アマゾン、賢くないぞ、と。そこで、ちょっとぎょっとしたのだ。
 私はアマゾンに理解されたがっているのだろうか? アマゾンが私に関心を持つことを期待しているのだろうか?
 このあたりで、静かな衝撃が私の存在を覆ったのである。大げさだが。デジタル・コミュニケーション・ツールが承認欲求で成り立つというのは、そんなものか、ということでとりあえず終わるのだが、承認されたいというより、他者から興味を持たれていたいということのようだ。それは微妙に薄く、すべての情報を覆っているような気がする。難しくいうと、ハイデガー哲学でいう、世界内存在の畸形。世界内存在は、世界の内に投げ込まれた限定的な存在として自身を了解するというようなことだが、この畸形は、つねに世界から了解されることを了解するというような何かだ。実存の主体が世界の側に転倒している。まあ、哲学はどうでもいいけど。
 これは、どういうことなんだろうか。誰かが私に関心を持っているという、うっすらした期待のようなものが、ねばりつくような主苦しい空気で、すべての情報空間を覆っている気がするのだ。
 いや、それってブロガーの妄想だから。おまえが一番病んでいるだから、と言われて、特に反論する気もないが、なんだろか、なんか、誰にも通じないという絶望感の核みたいなものを私は失いつつあるんだろうか? 

 

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«最近ニュースになっていた「あおり運転男」はニュースの価値があったのだろうか?