2023.11.02

[書評] ケマル・アタチュルク (小笠原弘幸)

 

 中公新書の新刊とされている『ケマル・アタチュルク』の表紙を見たとき、ほんの数秒だが、私にはちょっとした混乱があった。「あれ?改版したのかな」と勘違いしたのである。「ケマル・アタチュルク」という表題のインパクトが強く、その上部に記されている著者の小笠原弘幸氏の名前にふとした失念があった。が、すぐに、「ああ、『オスマン帝国』の小笠原さんか」と思い出しつつ、本書を開いた。
 冒頭、「トルコ共和国の首都、アンカラ。その丘のひとつに建立された、巨大な廟がある。」と読むや、私も見た、壮大なアタチュルク廟の思い出が蘇った。
 本書を見たときの、この、自分の、わずかだが、混乱の理由は、「すでに中公新書には大島直政氏の『ケマル・パシャ伝』があるではないか?」と連想したからである。勘違いである。それは新潮選書であり、大島直政氏の中公新書の書籍は『遠くて近い国 トルコ』である。この新書は1968年の刊と古く、先の新潮選書は1984年の刊であり、こちらは初版で読んだことを思い出した。
 私は少年時代からトルコが大好きでこの手の本があれば貪るように読んだ。そして、そうした少年らしいトルコへの憧れに対して、大島直政氏はそれを満たすようにトルコへの賛美とアタチュルクの賛美の書籍を著していた、ように思われた。そもそも「アタチュルク」という言葉自体に甘美な響きがある。本書にも記されているように「トルコの国父」である。
 しかし、大島氏の著作への批判ではないが、今の時代は、もうアタチュルク幻想の時代ではないし、やや勇み足で言うことになるが、エルドアン時代の現代のトルコを理解するためには(アタチュルク像が現代トルコで大きなゆらぎがあるのだから)、学問的に裏付けられたアタチュルク像についての一般書は不可欠であろう。本書は、現代世界の状況の要であるトルコという国の原点を知るヒントになるはずである。そして読後、少なくとも私はそれに確信を持った。また、トルコという国を理解するうえでも読みやすい入門書になるだろうとも思った。
 本書は、他の中公新書もそうであるが、いい意味での教養主義的な新書であり、その点で慣れた読者には比較的読みやすい。が、おそらく、高校の世界史の範囲の前提知識ではやや取り組みにくいかもしれない。完結にまとまった序章ではあるが、やや読みづらさを感じたら、第一章の「ケマルという少年」から読み始めるとよいだろう。ここは平明な伝記として描かれているからだ。とはいえ、序章は、第二章以降の歴史解説の前提になるので、本書に馴染んだら、序章もしっかり読んでおく必要はある。
 さて、その第一章「ケマルという少年」の冒頭だが、私のような読者を酔わせる美文である。

《サロニカという町
 エーゲ海北岸の港町、サロニカ。
 現在はギリシア領であり、テッサロニキと呼ばれている。しかし歴史的には、長らくサロニカ(サローニク)の名前が用いられてきたため、本書でもそう呼ぶことにしよう。かつて世界を席巻したアレクサンドロス大王の生地は、この近郊である。》

 私はここでサロニカ(聖書ではテサロニキ)のテルマイコス湾沿いの白い塔を思い出す。また「アレクサンドロス大王の生地」とされているペラの茫漠たる風景を思い出す。ギリシアやマケドニアといった雰囲気がそこには漂っていた。が、だからこそ、本書に説明されるように、ケマル・アタチュルクことムスタファ・ケマルがこの地で生まれたことには、当初、奇妙な印象をもっていた。そこはギリシアだろう、と。トルコの国父の生地は、今はギリシアなのである。しかし、この食い違いのような事態そのものが、ギリシアとトルコの歴史そのものの複雑さの一端でもある。余談だが、本書は、「イスタンブール」という表記ではなく、「イスタンブル」と記載されているのも心地よい。
 本書のケマルの伝記は、若き頃の文才への言及も含め、過不足ない印象を受ける。歴史的には、第二章の青年トルコ革命がリビアとの関連から、興味深い。ケマルの活動は、第一次世界大戦とロシア革命を挟むが、とくに第一次世界大戦というものの内実は、トルコの側から見るとその詳細が見える。そもそも、セーブル条約に代表されるように第一次世界大戦とはトルコの崩壊でもあったと言えるだろう。これらは現代に各種の大きな傷跡のようなものを残している。例えば、本書のアルメニアの言及も興味深かったが、今日問題となっている当時の虐殺問題への具体的な言及がなかったように思われた。すべてを記すわけにもいかないし、しかたないかなとは思ったが。
 トルコ建国後のケマルの話題は、第四章にまとめられているが、現代のトルコを理解する上では、ここにはもう少し厚みがあってもよかっただろう。ケマル主義(ケマリズム)や「公的歴史」やトルコ言語学会などへの言及はあるが、小島剛一氏が1991年刊行の中公新書『トルコのもう一つの顔』で衝撃的に報告した事態への、その後の歴史的な評価などもほしいところだった。この問題は極めて複雑に現在のクルド問題に関連しているからである。
 終章は「アタチュルクの遺産」として簡素にその要点がまとめられているが、この部分では、なるほどアタチュルクの生涯を逸脱するものであるが、軍部と朝鮮戦争の関連などがどのようにトルコ内の西欧主義と土着主義の分断を招いていたか、さらにいえば、EUの矛盾したかつ陰湿な制作などについても、言及がほしいところだ。もちろん、それもまた別のテーマであるのかもしれない。
 本書のアタチュルク像は、大島直政氏のそれとは異なり、日本の近代化との対比的な視点は除かれている。それは当然ともいえるのだが、トルコの近代化とはなにかという視点においては、広義に日本の近代化を包括する部分もあるだろう。「アジア」は単純に西欧化したわけではない。世界はどのように近代化するのか。そこにトルコの近代化と日本の近代化、そして両国の共通点から示唆される部分は大きい。さらに、その問いは、現時点では、ウクライナの戦争やガザでの紛争を、どちらかといえば冷ややかに見つめる非欧米諸国の生成とも関わりを持つものだろう。

    

   

 

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2023.10.19

[書評] 遺伝と平等 (キャスリン・ベイジ・ハーデン著、青木薫訳)

 「この本のテーマ、つまり、遺伝と平等、にご関心があるでしょ?」と問われた。そのとおりである。貪るように読んだ。本書は、科学啓蒙書の翻訳に定評ある青木薫さんの正確で読みやすい訳文であるのだが、内容自体はやや難しく、率直なところ、どちらかというと読みづらかった。でも、これはなるほど、今読まなければならない本なのだ、ということはわかった。

 本書の基本的な主張は、2つあるだろう。ごく割り切って言うなら、1つは、平等社会を求めるリベラル派は遺伝子学の知見を優生学として嫌いその達成を認めない傾向があるが、それは誤りであり、平等社会を求めるなら、「遺伝子くじ」ともいえる生まれつきの運不運の存在を認め、その上でこれに科学的な遺伝子学の知見によって向き合わなけれならないということ。2つめは、遺伝子学として語られる内容が単純化されると、実質的には優生学のような謬見に陥りやすいということだ。

 このため、本書では、平等社会構想に関わる遺伝子学の知見を詳細に扱っている。当然、それだけ内容は難しくなる。

 しかし、本書が人間の遺伝学の最先端知見が描かれているから難しいというのは当然だが、その難しさの他端には、この本書のテーマが「優生学」と「正義論」の2つに大きく関わっているせいもある。

 この点は、日本の知の風景では実質欠落しているように思うので言及したい。現代日本のメディアやネットの風潮では、およそ「優生学」がまともに議論されていないと私は感じている。理由は単純で、こうした風潮において、「優生学」はアプリオリに悪であり、これらに関する肯定的な志向を述べれば即座に魔女狩りに会う。日本の言論空間には、知的劣位の人にわかりやすい魔女狩りの指標と議論されない領域が設定されているからである。幸い、このコードは単純なので、わざわざ地雷を踏んで炎上芸をしたくない知識人なら、このコードの内に沈潜している。

 しかし、状況的な観点での問題は、そんな単純なコードに対する、くだらない「正義の振る舞い」ではなく、日本のある種の知的な退廃だろう。こういうと偉そうな言い方になるが、本書では、あるいは、このテーマを議論するならば、2つの前提を知っておく必要がある。一つは、本書の第一章「はじめに」に明瞭に取り上げられている『ベルカーブ』である。これには45という注が付いているので、オンラインで提供されている注を参照したが、原著のレファレンスのみであり、私は「ああ、この本の日本語翻訳はまだないのだ」と確認した。この、テーマの原点とも言うべき同書の日本語訳はいまだ存在しない。なのに、本書のような同書を前提とした最先端の書籍は翻訳されている。この意味をさらに解説する気力はないが、ここに日本知識人の病巣の一つがあると思う。

 もう一つは、ロールズである。さすがに『正義論』の翻訳はあるし改定訳もある。『政治的リベラリズム』も昨年翻訳された。本書『遺伝と平等』を読む基礎となるロールズの議論は現代日本の邦訳書でも足りるのだが、特に議論を深める点では、『公正としての正義 再説』がより重要になるだろう。というのも、ここでロールズは、資本主義経済と事後的な再配分による福祉資本主義を否定しているからである。

 私の本書の読解がはずしていないなら、本書『遺伝と平等』での問題提起は、遺伝学の最新知見、具体的には、知能面での遺伝的な個々の差異がある事実を認めた上で、その個々の調整において平等な新しい社会を構想しようとするものだが、これはこのロールズの「事後的な再配分による福祉資本主義」の亜種のように思えることだ。ロールズは、どのような根拠であれ、社会の一部の人々が生産財を所有・管理する経済制度そのものを「不正義」としている。このロールズの過激とも思える思想は、本書の通底にありながら、本書では明瞭に議論の遡上にないように感じられた。なぜなのだろうか。

 また、本書『遺伝と平等』では、従来の、知的面での遺伝子議論において人種的な偏りがあったことが指摘されているが、私たち日本の多数であるアジア人のこの側面の議論は本書から見えてこない。おそらくこの問題にも困惑するほどの暗部があるだろう。

 このように本書が、問題設定の前提時点で難解であるとしても、それゆえに本書が理解されないとは思わない。単純なところでは、「遺伝か教育か」といった二分法は明瞭に否定されているし、そもそも遺伝的な知的要素がそれのみの単一の要因として個々人の能力を決定するわけではないとするのも重要であろう。本書帯の著名人の推薦の辞は、そのレベルの読解水準を示している。余談だが、「遺伝か教育か」という点については、いくつかの社会学研究で示唆されているが、遺伝や教育より、家族の文化環境が重要のようだ。偽悪的に単純化するなら、啓発本や財テク本しか読まない金持ちの親を持つより、ドストエフスキーを読む貧しい親のほうが、子供は知的になるだろう。ただし、それが社会的成功要因ともならないだろうが。

 さて、このように読解の難しい本書を読み終えることのできた読者は、これも偽悪的な言い方だが、残念ながら、すでに知的遺伝子的な強者であるだろう。本書の言葉を借りるなら、《遺伝くじの威力をまじめに受け止めるなら、あなたが自慢に思う多くのこと――豊かな語彙、処理速度の速さ、規律正しさ、「グリッド」、学校で成績が良かったことなど――は、自分の手柄にはできない幸運な出来事の結果であることに気づかされるだろう》という結果そのものだろう。本書の原題はまさに、その「遺伝くじ」である。

 結局、どうしたらいいのか? 遺伝くじというものをどう考えるのか。まず、本書が縷説するように、遺伝子くじの「あたり」が社会的な成功をそのまま意味しているのではないことは明らかであろう(社会的成功する確率は高まるだろうが)。そして、そこには、社会的な成功からの勝者と敗者が設定されるが、私が思うのは、ある知的な遺伝子的な卓越性というものは、本源的にそれほど社会的なものでもない、ということだ。皮肉なことが言いたいわけではないが、哲学的な関心や思索は哲学的な感性に依存し、なんらかの遺伝的な特性はあるだろう。音楽にも文学にもあるだろう。そうした人類文化の達成の基礎をなす遺伝子的な感性は、かならずしも社会と適合しているわけではない。

 本書は、現代の遺伝学を正当に考慮しつつ(その主張はとても重要な価値がある)、新しい平等な社会を構想していくべきだ、としているが、私は、その重要性はある遺伝子能力の偏差に収まるのではないかと思う。遺伝くじがもたらすものは、もっと複雑な、人類の価値観の深部に関連しているのではないだろうか。



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