2018.02.19

ためらいながらではあるけど

 日本人と限らず多くの人がフィギュアスケートの羽生結弦選手の活躍を賞賛しているなか、こういう意見を述べるのも、悪意のように取られるのではないかと恐れるが、自分としては若い選手の将来を思ってこういう意見もあるという、一つの小さな例として、ためらいながらではあるけど、書いておきたい。繰り返すが、こう思う人もいるというくらいの些細なブログ記事であり、強く望むという大それた主張ではないし、私はたぶん間違っているのだろうという疑念もあるので、そこは理解していただきたいと願う……私は羽生結弦選手は平昌冬季オリンピックに出場しないほうがよかったと考えていた。
 理由は、NHKスペシャル『羽生結弦 五輪連覇への道』を見たおり、昨年11月の怪我が深刻なものに思えたからだ。同番組では「自らの限界を超えて五輪に挑もうとする羽生結弦」というトーンで推していたが、そしてそれ自体はスポーツ選手として素晴らしいことではあるのは当然だが、ここでの「限界」がこの怪我の克服を意味するなら、怪我という身体的な損傷が癒えるまでの十分な時間とその後のリハビリであるはずだと私は思った。仮にではあるが、怪我が十分に治ってなく、痛みを堪える、あるいはさらなる悪化を招く危険のある演技なら、選手の生活全体を考えるなら好ましくはないのではないかと思っていた。これはけして、十分な演技ができない、という勝ち負けの問題ではない。勝ち負けという点でいうなら、オリンピック競技は誰かは必ず勝つ。フィギュアスケートでもその世界の時点でもっとも優れた演技を見ることができる。私のような人にしてみれば、それが日本人であるという重要性は少ない。
 良かったことは、彼の演技を見ると、怪我の影響はそれほどは大きくなく(しかし、それは私のようなものでも影響ははっきりと見て取ることはできた)、オリンピック参加にあたっては、一定水準の怪我の回復があったのだろうと思えたことだ。であれば、怪我を押してでのオリンピック参加はしないほうがいい、というのは懸念だっただろうか。
 あまり良くなかったかもしれないことは、昨日のNHK7時のニュースで本人の次の言葉を聞いたことだ。以下はその産経新聞での書き起こしから引用(参照)。

 「足首次第です。本当に、痛み止め飲んで(演技をした)。注射が打てればよかったんですけど、打てない部位だったので。本当に、痛み止め飲んで飲んで、という感じだったので。はっきり言って、状態が分からない」
 「ただ、はっきり言えることは、痛み止めを飲まない状態では、到底ジャンプが降りられる状態でも、飛べる状態でもない。だから治療の機会がほしい、と思うが、それがどれくらい長引くのか。アイスショーの関連もありますし」
 「せっかく金メダルを取ったので、いろんな方々に伝えたい、笑顔になってもらいたいという気持ちもある。競技として考えると、治療の期間が必要だなとは思う」

 どうやら身体の回復を第一に考えるなら、今回のオリンピックの演技でもまだ治療の期間が必要な段階にあったと見なせそうだ。その意味でという限定ではあるが、選手の身体を第一に考えるなら参加すべきではなかったという当初の私の考えも、私自身としては、変更することもないように思えた。
 しかし、問題は身体だけではない。心の問題がある。オリンピックでの演技は羽生選手の夢でもあった。そして、その夢の実現のためには、怪我の痛みや回復途中のリスクもすべて了解して、本人の意思で夢にチャレンジしたのだ、と。本人だけなく、支援者もそれを認めたのだから、それ以外の人が、参加すべきではないと言うべきではない、とも言えるだろう。私としては、そこは、半分くらいそうだろうと思う。あとの半分は、オリンピックの機関が、選手の怪我の状態を客観的に検査して参加の認可をする過程が必要だったのではないかということだ。
 私の些細な意見は以上だったのだが、少し追加したい。羽生選手から、「ほんとのほんとの気持ちは、嫌われたくない」という言葉を聞いて(参照)、少し痛みのような感覚を覚えたからだ。誰からも好かれたという思うのは、特に若い人なら自然な感情だろうと思う。ただ、人の期待に答えようとすると自分を見失いがちだ。特に、身体的な限界を超えるような他者からの期待には沿わないほうがいいくらいだ。
 ここからはもう怪我を押しての羽生選手のオリンピック参加ということから離れて、特に若い人の、期待に答えようとする真摯な生き方への、ある痛みのような思いに触れたい。
 具体的には若い人の過労死のことを思った。過労死の理由は、劣悪な労働環境にある。それはゆるぎないことだ。だが、以前、外国人記者が関連の記者会見で問うたことが心にひっかかっている。記者はこう疑問を投げた。「なぜ厳しい状況で働く社員が会社を辞めないのか」。これに対してその場では、他社も同じくらい長時間労働であり、日本全体がそういう状況になっている、というような答えがあった。つまり、どこに言っても過労死を強いるような労働環境だから、逃げ場はないのだ、というのである。質問した外国人記者は納得しただろうか。
 これ以上長時間仕事をしたら身体が壊れるというとき、なぜ逃げ出せないのか。逃げ場がないからなのか。私の考えでは、そういう精神状態に陥ったときは、すでにもう逃げることの意識は働かなくなっているだろう、すでにもう精神的に押し詰められている、というもので、であれば、誰か別の人が、やめなさい、逃げなさいと言うべきではないかというものだ。
 私の考えが正しいかどうかはわからない。間違っているんじゃないかとも思う。でも、自分が見て、誰かがそういう状況にあるなら、そしてもし私がそこで小さな声を上げることができるなら、ためらいながらではあるけど、そうするだろうと思う。

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2018.02.18

「お前は安全圏から発言するな」について

 賛否が分かれる社会問題に言及すると、その言及の賛否のスペクトラムに対応して反論が生じるのはしかたないし、それが現在の、表面的に匿名のネット利用者の世界だと、言論の責任が曖昧な罵詈雑言的な状態になるのもしかたないとは思う。となると、何を言ってもこうした問題は敵対関係に置かれるので、そこまでしてブログなんていうものをする意味があるのかということにもなる。これは昨年の休止期間にも考えた。「ないんじゃね」とかなり思っていた。今はどうかというと、よくわからない。でも、僕はブログを書き続けようかとは思いなおしつつある。と、前置きはしたものの。
 こういう状況で、ある、ひとつの典型的な揶揄がある。「お前は安全圏から発言するな」というものだ。まあ、これは共感しないではない。私は1994年から8年ほど沖縄県民であの、少女レイプ事件からの激動の時代を過ごしたが、沖縄県民となってみて、しかもそれなりに沖縄の地域社会の、それなりに深いレベルで生きてみて(シーミーに参加するくらいには)、ああ、本土の住民は沖縄問題がわかっていないな、と感じたことはある。それは、多少ではあるが、「お前は安全圏から発言するな」という感情に近いだろう。それと、自著にも書いたが、私は難病に罹患しているので、そういう経験のない人には、たまに、やはり似たような感情を持つことがある。
 ただ、そういう感情が起きるとき、いやなんか違うなとも思う。例を通していうと、というか、この例が一番、考え続けてきたことだが、日本は原爆の唯一の被害国として発言権がある、というようなことだ。「ような」としたのはいくつかバリエーションがあるという含みだ。「発言権」というのは実際の権利ではなく、比喩という意味でもある。この前提だが、自分なりに考えたのは、そうした「発言権」に近いものは、日本にはないだろうと思うようになった。原爆の問題は人類共通の問題なのだから誰が考えてもいいし、誰の考えにも耳を傾けるべきだと思う。では、実際の被爆者の意見はというと、そこは、より傾聴すべきだとは思う。そうした位置・経験でなければ感受しえないものがあるからだろう。例と比喩から離れていえば、ある問題について安全圏にない人の声はより傾聴しなければならないと思う。
 そんなことを思ったのは、昨日の女性専用車両の問題で、この問題はつまるところ満員電車の問題だから、満員電車を解決すればいいのだ、お前ように満員電車の苦しさをしらない人が安全圏からごたごた言うな、というような揶揄を目にしたことだ。まあ、これはテンプレの誤解なのだけど、少し考えた。
 個別的な問題でいえば、原理的に、痴漢という側面での女性専用車両の意義の問題と満員電車の問題は分離できると思う。というか、分離しなければ、痴漢という側面での女性専用車両の意義は思考できないと私は思う(満員電車がなくても日本の痴漢犯罪の質は変わらないだろう)、が、まあ、そもそもこの時点で通じない人はいる。いわく、実際、満員電車が解消されれば、痴漢は解消されますよ、ということだ。
 実は、そのロジックでいうなら、昨日のブログで私が、自身が「無関心だった」として書いたのは、この問題は自分の範囲で言うなら、自分は満員電車には耐えることにしているし(余談だが、近未来、満員電車の問題は実質解決するだろう)、痴漢として誤解されたら対処する覚悟はある(逃げない)という原則のようなものを盾にしていたからで、そう考えてしまえば、無関心でいられた、という意味で、安全圏から安閑と考えたということでもなかった。似たような盾でいうなら、よく日本政府の言論規制が厳しくブログはやってられないという人がいるが、もしそうなら、政府とぶつかればいいと思う。私は言論で逮捕されるなら、それもしかたないという覚悟で書いている。徴兵が実施されるなら良心的兵役拒否を主張するし、年齢的に兵役ではないなら、私の声の届く範囲で、良心的兵役拒否を説く。そうした意味での水準でいうなら、満員電車が問題だというのを盾とすれば、この問題自体に無関心でいられる、ということと同じである。というか、そういう本質から逸れた無関心さを自分を含めて批判してみたかったのだが、おそらくこれも通じにくいところだろう。
 類似の関連で思ったのは、先日、カトリーヌ・ドヌーヴら百人の女性が署名した声明について、同じように、「お前は安全圏から発言するな」という批判を見かけたことだ。あの声明を自分なりに訳しながら、これは多数の女性の討論の結果、複数の声としてできているという感覚があった。その複数の多様性のなかで、声明として可能なかぎりまとまる部分を無骨ではあるがまとめたという印象があった。別の言葉でいえば、100人のうち何人かは、安全圏にいるわけでもないだろうなと印象があった。そういう人たちの、複数の声と無骨ではあるがまとめられた言葉の、差異を感受していたかった。
 さてと、くだくだ書いたので、わかりやすくまとめておこう。

 ① 「お前は安全圏から発言するな」という批判はやめたほうがいい
 ② 安全圏でない位置にいる本人の声は傾聴しよう

ということかなと思う。

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