2025.07.13

AIと学習における認知的負債

 2025年6月10日、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボが主導した研究「ChatGPTを利用した脳の変化:AIアシスタントを論文作成タスクに利用する際の認知負債の蓄積 (Your Brain on ChatGPT: Accumulation of Cognitive Debt when Using an AI Assistant for Essay Writing Task)」が公開された。この論文は、ChatGPTのような大規模言語モデル(LLM)の長期使用が人間の認知機能、特に脳の神経接続や学習プロセスに与える影響を検証するものである。54人の参加者を対象に、4か月にわたるエッセイ執筆実験を行い、脳波計(EEG)で脳活動を測定し、自然言語処理(NLP)でエッセイを分析、インタビューで行動データを収集した。
 該当論文の査読は未完了であり、参加者数の少なさやChatGPTに限定した研究設計など限界もあるが、AIと脳の関係を定量的に示した点ですでに各方面から注目を集めている。

AIが脳の学習プロセスをどう変えるか

 人間の通常の学習過程では、脳の神経ネットワークが情報を処理し、記憶として定着させるプロセスに依存するものである。そこで論文では、参加者をChatGPTのみを使用するLLM群、従来の検索エンジンを使用する検索エンジン群、そしてツールを一切使用しない脳のみ群の3群に分け、エッセイ執筆時の脳活動をEEGで測定した。
 結果、脳の神経結合性は、外部サポートの量と明確な逆相関を示した。最も強い神経接続を示したのは脳のみ群であり、ワーキングメモリや問題解決に関わるシータ波(4-8 Hz)と、内省的注意や意味処理を支えるアルファ波(8-12 Hz)の活動が活発であった。これは、参加者が自らの知識を掘り起こし、アイデアを統合する過程で脳が深く関与していることを示す。つまり、脳は外部ツールに頼らず、自身のリソースを最大限に動員することで、より深い認知エンゲージメントを生み出す。
 次いで強かったのが検索エンジン群で、その脳活動はLLM群と脳のみ群の中間に位置した。特に、視覚情報を処理する後頭葉の活動が活発であり、これはインターネット上の情報を探し、読み、取捨選択するという認知プロセスを反映していると考えられる。
 これら二群と対照的に、LLM群は、脳波活動が顕著に弱く、神経接続も限定的であった。ChatGPTがエッセイの構成や語彙を提案することで、参加者の脳は情報の生成や統合に必要な努力を省略すると見られる。この省略は、短期的には効率を高めるが、脳の学習プロセスに重要な「認知的負荷」を軽減してしまう。認知的負荷は、学習の初期段階で脳に課される挑戦であり、これによって新しい神経回路を形成し、知識を長期記憶に定着させる鍵である。このことから論文は、LLM群がこの負荷を回避することで、脳が発達する機会を失う可能性を示唆している。簡単に言えば、AIが提供する「答えの即時性」が、脳の努力に基づく学びを置き換える瞬間を映し出している。

認知的負債という隠れたコスト
 この論文が提示する「認知的負債(cognitive debt)」という概念は、AIの長期使用がもたらす、人類への新たな問題ともいえる。これは、AIに依存することで短期的に労力を節約する代償として、長期的には自律的思考や学習能力を損なう現象を指すものだ。この負債の具体的な現れとして、記憶への定着不全がある。論文では、LLM群が書いたエッセイについて、初回セッションで参加者の83.3%が内容の引用に苦労し、正しく引用できたのはゼロだったと報告されている。つまり、AIが生成した内容は脳に深く刻まれず、自分自身の知識としては定着しにくい。この定着過程は、神経科学でいう「長期ポテンシェーション(LTP)」のように、ニューロンのシナプス結合を強化することで学習の基盤を形成過程であもるが、LLM群ではChatGPTがこの挑戦を代行することで、シナプス結合の強化が不十分になりうる。
 さらに、この負債はエッセイの「質」にも影響している。NLP分析によると、LLM群のエッセイは均質で、語彙や概念がChatGPTの提案に偏る傾向があった。対照的に、脳のみ群のエッセイでは「true happiness(真の幸福)」のような内省的な語句を多用し、多様な思考パターンを示していた。
 この「質の変化」は、論文で行われたAIと人間による評価の比較で一層際立った。AI審査官が形式的な完成度を高く評価したエッセイを、人間の教師は「魂がない(soulless)」と評し、内容や独自性のスコアを低くつけた。AIが生み出す表層的な完璧さと、人間が感じる思考の深みの間のこのギャップこそ、「認知的負債」がもたらす隠れたコスト、つまり創造性や個性の喪失を象徴しているのかもしれない。

AIと脳の共生
 AIと脳の関係は、単なる対立や代替ではないだろう。論文の4章では、それまでツールなしで執筆していた脳のみ群がChatGPTを初めて使用すると、神経ネットワークの活性化が大幅に増加した事例が挙げられている。これは、AIが学習を阻害するだけでなく、既存の知識とAIの提案を統合する過程が、脳に新たな認知的挑戦をもたらし、その柔軟性を刺激しうることを示すものだ。
 この発見は、教育現場でのAIの活用法に重要な示唆を与えるだろう。論文では提言として、まず自力で課題に取り組み、その後にAIを補助的に使うハイブリッドな戦略の可能性を示唆している。このアプローチなら、脳が初期の認知的負荷を経験して神経回路を形成した後に、AIが提供する外部視点を取り入れることができる。海を行く帆船ではないが、AIは、脳の学習を「外からの風」として機能し、新たな視点や構造を提供するが、その風に乗りすぎないよう、脳自身の航路を見失わないバランスが求められる。
 このAIと学習者知性の共生は、学習者の「所有感」をどう維持するかの問題にも直結する。論文に関する報道のインタビューの報道があったが、そこでは、LLM群の参加者がエッセイに所有感を持てず、「自分の作品ではない」と感じたと報告していた。脳の学習は、成果に対する感情的・認知的つながりを必要とするものである。教育者は、AIを「思考の補助輪」として使い、脳が自らペダルを漕ぐ機会を確保する必要があるのだろう。

脳の学びをどう守るか
 AIの普及は、教育における脳の学習特性を再考する機会を提供する。この論文は査読前の小規模研究でしかないが、それでも、AIの使用は創造的な思考を抑制し、思考をテンプレート化するリスクを伴う 懸念は提示されうる。特に、神経可塑性が高い発達段階にある若い学習者の脳にとって、AIへの過度な依存は、批判的思考や問題解決能力の基盤を弱める深刻な影響を及ぼす可能性がある 。よって、教育現場では、脳の学習特性を守るための戦略が不可欠となっていくだろう。
 その際、論文が示唆する「自力優先、AI補助」のアプローチは、脳が認知的負荷を経験する機会を確保する 。例えば、ディスカッションや手書きのメモ、ブレインストーミングなど、AIに頼らない学習活動をカリキュラムに意図的に組み込むことの重要性が挙げられる。これらは、脳のシータ波やアルファ波を活性化させ、学習の深さを高めることがすでに知られている 。
 AIの未来は、基本的に人間の脳の学習特性との調和にかかっている。この論文は、ChatGPTが脳の神経接続を弱めるリスクを示したが、同時に適切な使い方が脳の可能性を広げることも明らかにした。教育は、AIは、単なる知的生産のツールとしてではなく、脳の学びを拡張するパートナーとして再定義する時を迎えている。学習者の脳が、AIの風に乗りながらも自らの航路を切り開くために、教育者は新たな地平を模索し続ける必要があるのだが、それの前に現存の教育体制の改革が前提にはなるだろう。

 

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2025.07.12

トランプ政権下でのメディア変化

 トランプ政権の復帰以降、米国のメディア環境は劇的な変動を見せている。従来のリベラルメディアは低迷し、インテリメディアは中立化に、そして特に、Fox News Channel(以下、Fox News)が視聴率競争で圧倒的なリードを築きつつある(参照)。つまり、CNNやMSNBCといったライバルを大きく引き離しつつある。この現象は、トランプ政権の情報発信戦略と視聴者の政治的志向の変化がメディアの影響力構造に与えた影響を象徴している。

Fox Newsの視聴率独走

 2025年第2四半期、Fox Newsは総視聴者数で平均160万人の視聴者を獲得し、CNN(40.6万人)やMSNBC(59.6万人)の合計を上回った。プライムタイムではさらに顕著で、Fox Newsの平均視聴者数は260万人に達し、MSNBC(100万人)やCNN(53.8万人)を大きく引き離した。広告主が重視する25~54歳のデモグラフィック層では、Fox Newsが20.2万人を記録し、CNN(7.1万人)やMSNBC(5.7万人)を圧倒した。この数字は、Fox Newsが17四半期連続でケーブルニュースの総視聴者数トップを維持し、6四半期連続でプライムタイムでも首位を堅持していることを示す。

 Fox Newsの番組も際立った成功を収めている。「The Five」は390万人の視聴者を集め、ケーブルニュース全体で15四半期連続でトップを維持。「Jesse Watters Primetime」は340万人の視聴者と39.6万人のデモ層を獲得し、2位を記録。「Special Report with Bret Baier」は、イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフとの独占インタビューで3000万人の視聴者を獲得し、そのYouTubeでの動画再生数は550万回に達した。さらに、「Hannity」「The Ingraham Angle」「Gutfeld!」といった番組は、CBSの「The Late Show with Stephen Colbert」やABCの「Jimmy Kimmel Live」といった放送局の人気番組を上回る視聴率を記録。Fox Newsはケーブルニュースの14番組がトップ15を占め、視聴者の圧倒的な支持を得ている。

トランプ政権のメディア戦略

 トランプ政権のメディア戦略は、当然、Fox Newsの視聴率上昇に大きく寄与している。トランプ大統領やJDバンス副大統領は、Fox Newsを通じて主要な政策発表や解説を行うことが多い。例えば、2025年に発表されたイランとイスラエルの完全停戦合意は、JDバンス副大統領が「Special Report」で詳細を説明し、視聴者の関心を独占した。このような独占的な情報提供は、Fox Newsを政権の主要な発信プラットフォームとして位置づけ、視聴者が同局を主要な情報源として選択する動機を高めている。

 さらにトランプ政権は、従来の主流メディア(ABC、NBC、CBSなど)に対して一貫して批判的な姿勢を取り、「フェイクニュース」として非難する一方、Fox Newsを信頼できる情報源として積極的に活用している。この戦略は、トランプの支持基盤である保守層の視聴者をFox Newsに集中させる効果を生んでいる。特に、2025年第2四半期には、米国によるイラン核施設への攻撃やローマ教皇フランシスの逝去といった大ニュースの報道で、Fox Newsは放送局をも上回る視聴率を記録した。政権のメッセージを直接視聴者に届けるパイプ役として、Fox Newsは他のメディアを圧倒している。この共生関係は、トランプ政権がメディアを介した世論形成において、Fox Newsを戦略の中核に据えていることを示している。

メディアの二極化と視聴者の分断

 トランプ政権下でのメディア環境の変化は、視聴者の政治的志向による二極化をさらに加速させている。Fox Newsは保守層を中心に圧倒的な支持を集め、総視聴時間の62%、プライムタイムの63%という驚異的なシェアを誇る。対して、CNNやMSNBCはリベラル層を主なターゲットとしているが、視聴者数の減少が顕著だ。特にMSNBCは、HGTV、Food Network、Comedy Centralといったエンタメ系チャンネルにも25~54歳層の視聴者数で抜かれるなど、影響力の低下が顕著である。この二極化は、トランプ政権の「フェイクニュース」批判と保守層のメディア不信が背景にある。

 Fox Newsの番組編成は、保守層が関心を持つトピック(移民政策、経済ナショナリズム、国際関係など)を強調し、トランプ政権の政策アジェンダと密接に連動している。例えば、「The Five」や「Hannity」は、トランプ政権の政策を肯定的に取り上げ、政権批判を行うリベラル系メディアとの対比を明確に打ち出す。このアプローチは、保守層の視聴者を惹きつけ、Fox Newsへの忠誠心を高めている。さらに、Fox NewsはソーシャルメディアやYouTubeでのコンテンツ配信にも力を入れており、若年層の保守派にもリーチを広げている。対照的に、CNNやMSNBCは視聴者層の縮小とデジタルプラットフォームでの競争力低下に直面しており、メディアの二極化が視聴者の情報消費パターンを根本的に変えている。

メディア業界の構造変化

 Fox Newsの視聴率覇権は、以上見てきたように、トランプ政権下でのメディア環境の構造変化を象徴する。今後はどうなるか。Fox CorporationのCOOは、Fox Newsの成長がトランプ政権下で持続可能であると述べているが、競争環境の低迷も見逃せない。CNNはWarner Bros. Discoveryによるネットワーク分離計画が報じられ、業界内では「涙の地平線」と揶揄されるほどの苦境に立たされている。MSNBCも視聴者数の低迷が続き、ケーブルニュース以外のエンタメ系チャンネルにすら後れを取る状況だ。このような競争相手の弱体化は、Fox Newsがシェアをさらに拡大する余地を示唆する。

 とはいえ、好事魔多しではないが、Fox Newsの成功はトランプ政権への依存度の高さに起因する部分が大きく、リスクも内包している。政権の人気や政策の成否が視聴率に直結する可能性があり、政権交代やスキャンダルが起これば視聴者離れの危険がある。また、デジタルプラットフォームの台頭により、視聴者の情報消費が多様化している中、Fox NewsはYouTubeやストリーミングでの強さを維持しているが、ソーシャルメディアのアルゴリズム変更や規制強化が影響を与える可能性も否定できない。さらに、若年層の政治的関心の変化や新たなメディアプラットフォームの登場すれば、Fox Newsの長期的な覇権に挑戦を投げかけるかもしれない。

 そのため、Fox Newsとしてもこの機会にコンテンツの多様化や新たな視聴者層の開拓に取り組んでいる。例えば、「Gutfeld!」のようなエンターテインメント性の高い番組は、従来のニュース番組とは異なる視聴者層を引きつけ、放送局の深夜番組を上回る視聴率を記録している。また、Fox Newsのデジタルプラットフォームでの成功(YouTubeでの動画再生数やソーシャルメディアでのリーチ)は、若年層への影響力を維持する鍵となっている。トランプ政権下でのメディア環境は、Fox Newsに有利な状況を作り出しているが、業界全体の変動や視聴者の嗜好変化に対応する柔軟性が、Fox Newsの将来を左右するだろう。

 余談だが、NHKは従来にABCに依存して、Fox Newsは保守系動向の参考にしかしていなかったが、とにかくFox Newsが最初の報道源になることが多く、出番が多くなった。





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